- 459. 名無しモドキ 2011/09/10(土) 23:58:33
- 忘れられた戦場 −いくらでもある、とある山村の物語−
1943年3月30日 福建共和国軍第十一国境警備隊本部
「王少佐、派遣将校関口中尉出頭いたしました。」眼鏡をかけた長身の日本人将校が部隊長の王少佐の部屋に入ってくると
大仰な敬礼をした。
「関口中尉、照れるじゃないか。」王少佐は居心地悪そうに笑いながら軽く敬礼をした。
「王、君の方が上官だからな。」関口中尉はそう言いながら机の前の椅子に座った。
「上官だと言いながら呼び捨てか?第一座れとも言ってないぞ。」王少佐は少し厳しい口調でたしなめた。
「ああ、すまんつい癖が出て。」関口中尉はぶっきらぼうに返す。
「二人の時は呼び捨てでいいが、部下のいるときは気をつけてくれよ。中華民国政府は福建軍は日本の傀儡で、日本軍の
言いなりだと宣伝してるからな。変に誤解されるのはお互い不本意だろ。建前ということを理解したうえでだが日本と
福建は対等の独立国だ。」今度は王少佐は噛んで含めたように言った。
「すまん。俺も、いや本官の任務に対する認識が欠乏しておりました。以後気をつけます。」関口中尉は急いで立ち上が
った。関口中尉は暗愚な人物ではない。王少佐の意図を感じて自分の不明を恥じた。
「じゃ、ついでだが仕事の場では、俺と話をする時は通訳を介して話をするように。俺はこの部屋を出たら福建語しかし
ゃべらんぞ。だから出来る限り関口が福建語を憶えるようにしてくれ。大勢の前で君と二人で日本語を使っていたら気を
悪くする手合いもいるからな。それから夕食の後は、俺の部屋に案内するから、友人として旧交を温めよう。」
「王少佐、了解しました。しかし、地位は人間をつくるというが、千を超す人間の上に立つと、あのワンヤオがね・・。」
王耀少佐の実家は福建省でも裕福な茶問屋で客家出身である。次男である王耀は一族の安全投資の意味合いもあり新興の
大阪帝國大学法学部に留学した。その時に奈良の旧家出の関口光邦と知り合った。所謂大学生同士の悪友である。
王耀は帰国後、日本で知り合った日本国籍の華僑女性と結婚して地方政府の仕事を得て働いていたが福建共和国成立によ
り福建中央政府にスカウトされた。大阪大学時代、陸軍が募集していた大学生体験入営に外国人として特例で選抜されて
二週間ほど参加したことを上司に話すと、福建・日本間の人材育成協定による将校養成機関に放り込まれた。
三ヶ月の初級速成コースで成績が優秀であれば二ヶ月の実地勤務、実地勤務をそつなくこなすと三ヶ月の中級速成コー
ス、優秀であれば二ヶ月の実地勤務というようなことを三回繰り返して王は士官候補生から特務少尉へ、そして正式な少尉
に任命された。その後は心太式に通常の軍隊ではありえない半年ごとの昇進で任官二年目には少佐になった。
「おれも大学の教練課程で予備将校候補の単位を取っていたおかげで、志願して戦時特例の特務少尉になった。ここに派遣
されるんで少尉じゃまずかろうと前倒し昇進で中尉に任官して、陰ではやっかみで衣だけの『天ぷら中尉』って言われてい
るが福建軍の気前よさにはびっくりだな。」その夜、王の私室に招かれた関口中尉は紹興酒を飲んでくつろいでいた。
「まあ、俺みたいな者が少佐だから人材不足ってことだよ。」王少佐も昼間とはうってかわって学生時代のそのままに、
流暢な日本語で応じた。
「ところで、王は実戦は経験したのか。」また紹興酒を一口のんで関口中尉は聞いた。
「ああ、去年の夏に中隊を率いて温州(浙江省)まで行ったよ。途中でちょっとした撃ち合いを二回した。最終的に敵は逃
げたが実弾がこっちに飛んでくる経験をすることでしかわからないことがある・・ってことがわかったよ。」王少佐は何か
を思い出すように答えた。
「そうか。俺がこっちに着いた時は講話直前やったからな。まあ、実戦になったら腰を抜かすかもしれんからよかったかも
しれん。」関口中尉は酔いが回ってきたのか関西弁が目立つ。
「初めての実戦までその人間がどんな行動をとるか、軍人としてどの程度かはわからないものだよ。今も本部小隊にいる古参
の下士官が俺のことを値踏みしていた。ところが俺が撃ち合いの陣頭指揮に立ってから、頃合いを図ったように意見を具申
してくるようになった。そして俺はそれに判断をくだす。命令するってことはどんな行為かを俺は教えてもらったよ。」急
に王少佐がしんみりしだした。
「その下士官の眼鏡にかなったってこっちゃな。それにしても王は謙虚になったな。」王少佐の学生時代の剛胆放漫な武勇伝
を知る関口中尉は、王少佐の経験した実戦が決してちょっとしたものではないだろうと思った。
- 460. 名無しモドキ 2011/09/11(日) 00:08:09
- 「昼間、おおざっぱに話を聞いたが、ここの任地は結構大変そうだな。」関口中尉は話題を変えた。
「ここの大隊規模の部隊だけで正面十五キロの森林地帯と山岳部を見張っているからな。一山越えれば江西省だ。隙を見
つけては難民が越境しようとしてくる。」王少佐の口調は任務口調になる。
「見つけたらどうする。」
「福建語か客家語が母語か確かめる。そうなら保護する。福建は越人と客家の民族国家だからな。そうでなければ境外へ
出るように警告する。武器で威嚇する。発砲の順だ。それ以外に何をする。ただ女子供がいれば食べ物を与えることを条件
に退去を促す。まあ、明日から日本語のできる案内をつけるから自分の目で確かめて福建駐留日本軍への報告書を仕上げて
くれ。その報告書が俺たちの任務を左右するから見たまま感じたままを書いてくれよ。」王少佐の言葉の最期は真剣だった。
「何人も連絡将校は派遣されているよ。多分俺は員数合わせで俺の報告書が重要視されるとは思えんが心して書くよ。ところ
で、難民というか越境者に食べ物を与えたら何遍も来ないか。」また紹興酒を口に含みながら関口中尉は聞いた。
「食べ物をあたえるのは難民のためじゃない。警備兵の心の平安のためだ。」王少佐は首を振りながら答えた。
「警備兵の心の平安?」
「今の福建軍は中国史上初めてと言っていい志願制の国民軍だ。どこぞのごろつきをはした金や略奪黙認で集めた軍隊や、食い
詰め者に下手な夢を吹き込んで集めた軍隊じゃない。良鉄が釘になり、良人が兵になった軍隊だ。普通の人間の集まりなんだ。
他人の苦難を見れば心が騒ぐ。やせた子供を背負い涙も涸れ果てた母親を実力で排除はできるさ。
でも、力ずくで排除するのと、僅かでも食べ物をやって『すまないが今はこれでなんとかしてくれ』と言って去らすのでは
兵隊の士気や、任務への取り組みが天地も違ってくるのさ。例え食べ物を恵んでも難民の運命がそう変わることはないだろう
が、ひょっとして生き延びたんじゃって思えるからな。これが心の平安さ。」王少佐は一気にしゃべった。
「大変だな。でも難民はそれで納得するのか。」関口中尉は報告書のために何でも疑問は聞く事にした。
「この大陸には難民に食べ物を与える軍隊は他にはないからな。結構、感激するよ。」
「難民は多いのか。」
「ここの国境は幹線道路から外れた山岳部だ。猟師や樵夫みたいな慣れた人間以外は食べ物を得るのは至難のワザだ。例え
健康でも女子供を連れてここまでくるのは難しいから数は多くないさ。国境の向こうを調べることはできないが、多分、
国境にたどり着けずに山野に骸を晒した人間の方が多いだろうな。」王少佐の言い方はひどく冷徹だった。
「戦争は終わったのにな。」関口中尉は溜息をついた。
「そうなら俺は行政法立案の仕事に戻るよ。今の行政法は日本のものを丸写しだからな。福建にあったものにしたいんだ。
でも、戦争がひどくなるのはこれからだ。これ読んでみてくれ。」王少佐は机の上にあった、雨と泥でシミだらけになった
本を関口中尉に渡した。
「国境をこちらに越えたところに我々の地雷原が何カ所かあるんだが、そこで爆死していた難民が持っていたんだ。国境を
越えて油断したんだろうな。読めば多少は国境の向こうがわかるかな。」本を見ている関口中尉に王少佐はタバコに火を
付けながら言った。王少佐としばらく旧交を温めた関口中尉は本を自室に持ち帰り読み出した。
渡された本は日記だった。筆者は董某という男である。細かな字で自分の村で起こったことと感想を書き込んである。
董の村は湖南省北東部、数ある長江の一支流の更にその支流が流れる山間の谷にあり、僅かばかりの棚田や畑を耕す山村の
平和だが退屈な毎日の様子が書かれている。董の村は山間部ゆへ大きな地主がおらず貧しいながらも自給自足で食べていけ
た独立性の高い、別の言い方をすれば閉鎖的な自営農家の村のようである。
薹は村を出て長沙で中等教育を受けたが、街の生活に馴染めず数年前に村に帰って村民の持ち寄りでできた私塾の先生を
していた。村人は薬草を町で売って現金収入を得ていたので商人相手に不利を被らないように最低限の読み書き計算が必要
だったようだ。日記によれば薹は時々、村長に意見を求められなど信頼されていた人物で薬草取りの達人らしい。
- 461. 名無しモドキ 2011/09/11(日) 00:13:46
- 董を含めた村の生活が一変するのは、アメリカ軍の支援を受けた奉天軍の国民党政府への攻勢が始まったころからだ。
まず、蒋介石の国民党軍に何人かの男が強制徴集された。特産の漆や桐油の増産割り当てが実情を無視して押しつけられる。
この状態が数ヶ月続き村が次第に困窮していった様子が書かれている。ただこの時期はあとの時期に比べればまだ平和な
時代の延長であった。
1940年初春、何組かの敗残国民党軍のグループが村に迷い込んでくるようになった。兵士を刺激しないように村では食料
を渡したり隣村まで兵士の荷物を運んだ。そしてついに奉天政府軍の軍隊が村への分岐点がある幹線道路に現れたという知
らせが届いた。村長の指示で董ら数名の村人が偵察に出された。部隊は要所を押さえるための近道と判断して村の近くの道路
を通過した第一線部隊だった。この先遣隊の通過を知ることができたのは幸運だった。村長はあわてて若い女を中心にした
一団を山に避難させた。
次の日に国民党軍の残党を掃討する奉天軍部隊が村にやってきた。前日、通過した部隊とは装備が明らかに劣り、兵士の顔
つきも品位のかけらも無いものが大半だと董は書いてある。予想したように、兵士は家々に、国民党軍の捜索を口実に家々に
押し入ってめぼしいものを略奪した。貴重品や生き延びるための食料は前日に隠匿していた。
ただ、残す物資や食料が少ないと、怒りをかって家に火を付けられる恐れもあるため加減が難しい。村長によるこのさじ加減
は絶妙だったと董が書いてある。何故、女がいないと聞く兵士には、国民党軍が連れていったと答えた。彼らは散々悪態を
ついて村から徴発した荷車に戦果を積んで引き上げてようとした。事件はこの時に起こった。
一人の兵士が大きな爆発音とともに吹き上げられた。地雷である。多分、撤退する国民党軍が村に黙って埋設したものらしい。
興奮した兵隊達は銃を乱射した。流れ弾で二人の村人が犠牲になった。次に兵士達は村人に道路一杯に広がった隊列を組ませた。
そして、村人を先頭に歩かせて幹線道路までもどっていった。幸いこの時は地雷の爆発はなかった。
ところが村にもどると山に避難していた女達が足と下腹部に大怪我を負った少女を囲んで泣き叫んでいた。地雷は山に通じる
小径にも仕掛けられていたのだ。少女は、薹の顔を見ると「先生、痛い。」と小さな声をあげて息を引き取った。
この日を境に村の生活は一変する。村の男達が総出で集落内に地雷がないことを確認するまで女子供は三日間家に閉じこ
もった。続いて、集落に隣接した耕地での地雷探査で三個の小型地雷が見つかった。そのさいに、棒で地表を引っかき回して
地雷を探していた一人の男の目の前で地雷が爆発して男は即死した。
しかし耕地の地雷探査を中止するわかにはいかなかった。春を迎えしかるべき時期に種をまかないとならないからだ。さら
に手痛かったのは、薪炭、山菜やキノコを供給してくれる村の裏山が危険地帯になったことである。地雷が仕掛けられている
としても小径だと思えたが確証はない。現に最初の犠牲者である少女も道の真ん中ではなく、道から少し外れた場所の地雷を
踏んでいる。それでも、ある程度に耕地の安全が確認されると村長は一本の山道の安全を確かめさせた。村人、特に軍隊出現
時の女達の緊急避難路確保のためである。
この年の夏までは奉天軍、国民党軍とも村に姿を現さなかった。村長はしばしば董を近くの町まで情報収集のために派遣した。
それにより入手した情報から国民党軍主力の後退で大規模な戦闘は終息しているが、残存国民党軍はゲリラ的な活動を続けて
いること。支配地が爆発的に拡大して奉天軍は、まだ山間部を直接支配するような兵力を展開できていないこと。いくつかの
地域では軍閥の残党が息を吹き返して県単位程度の支配地を確保したり、村落で独自に武装を行っているところもあり、三つ
どもえ四つどもえの抗争が頻発していること。といったことがわかった。
また、新聞から大陸全体の情勢についてもある程度は把握できた。そして、貴重な薬草をかなり大量に渡して薹は町の
やくざ者から国民党軍の工兵士官向けの教本を入手した。これには、簡単であるが地雷の種類や処理の仕方が記述してあり
村長を喜ばせた。
秋が訪れる頃に、奉天軍の徴発隊が村にやってきた。年貢を納めろという訳である。奉天軍は、ぼろぼろの軍服を着て
生傷だらけの国民党軍の捕虜達を地雷よけに先頭を歩かせていた。村長は長い交渉で耕地が全部使えなかったこと、山での
産物が得難いことを理由に最初の要求を二割ほどまけさせた。それでも、危険な山に入って桐油などを集めてくる必要があ
った。実際にこの後二人の村人が命を落とし三人が足を失った。
- 462. 名無しモドキ 2011/09/11(日) 00:19:39
- 村長は奉天軍の隊長に国民党軍や軍閥の兵隊がきて同様の要求をすればどう対処と聞いた。すると、それらの侵入を防ぐ
手段を講じてあると答えた。「地雷ですか。」と聞くと隊長は頭をたてに振った。場所を聞くが軍機だと言って答えてはく
れなかった。その言葉が事実であることは、村の中央を流れる小川の端で遊んでいた子供が地雷で失明をともなう重傷を負
ったことから否応なくわかった。
日記から地雷が日常に組み込まれていく様子、いや地雷を中心として生活が回っていく村の様子が読み取れた。立て続け
におこる地雷の爆発、数ヶ月間の無事故、安心した頃の手痛い被害と恐怖。村もやられっぱなしではなかった。掘り出した
地雷を別の場所に埋めて村の防衛戦を構築した。一度、夜中にその地雷が爆発して数個の地雷を持った二人の国民党軍の兵隊
が吹き飛ばされていた。地雷を頂戴した後は、後難を恐れて遺体はかなり遠方の山に捨てられた。
地雷の恐怖のもと、それでも維持できていた村の生活は、日米戦争の勃発で再び一変する。逼塞していた国民党軍が山間部
で小規模ながら無数の攻勢を仕掛けてきたのだ。また、奉天軍により弱体化したはずの地方軍閥勢力も攻勢に出た。
1942年の夏から秋にかけて村の隣接地域で三度の戦闘があり、十人以上の村人が巻き添えで殺され半分近い家屋が焼け落ちた。
また、収穫直後の陸稲やトウモロコシが隠匿する間もなく軍閥の兵に持ち去られた。すでに耕地の過半を放棄していることも
あり村長は村を一時放棄する決断をした。まず、掘り出したり横流しで入手した地雷で村を閉鎖して帰村までの無人防衛戦とした。
村長と薹は福建を目指すことで一致した。国境まで直線でも700km近い距離がある。難を避けながらなら二倍三倍の距離がある
が各自が持てる食料しか頼れるものはない。遙かな山道に挑むのは自らの意志で残った老人達を除く赤児、松葉杖歩行者を含む集団
である。
出発四日目に難を避けたつもりの山道で運悪く国民党軍崩れの匪賊に遭遇してしまった。彼らも他の武装勢力を避けて山間部を移動
していたのだ。村人は食料を奪われてまったくの難民と化してしまった。ここで村長のもと団結していた村人が分裂した。村へ帰る
ことを選んだグループ、長沙などの都市を目指して当局の庇護を得るか物乞いを考えるグループ、そして、当初の予定通り国境を目指
すグループである。
村長に従って国境を目指した薹達は一月後には脱落者を更に出して半数まで数を減らした。ここに至り村長は各自で行動することを
決断する。全員いっしょでは共倒れであるからだ。薹は親を亡くした教え子たちを率いて薬草を採取し売ることで糧を得て国境を目指
した。日記は国境の手前までの記述であった。薹の死体が発見される前の夜に国境の向こうで銃撃音があったいう王少佐の話を思い出
した。中国側の国境警備隊が薹たちを撃ち、薹と子供らはぐれたのかと関口中尉は推測したが、時計が一時を指していることに気づい
て早朝の任務のために急いでベットに潜り込んだ。
窓の外では南十字が低い位置ではあるが南の空に出ている。福建は南国である。種々の花の匂いをのする密林からの野生動物の声が
絶えない自然の豊かな地だ。しかし、国境の向こうは全てが死に絶えたように鳥の声もしない。時々静寂を破る爆発音以外には。この
夜、国境の向こうのあちらこちらで腐臭がする三百平方キロの地域で四発の地雷が炸裂したことは寝入った関口中尉は知らない。
日本陸軍は大陸全土で埋設された地雷は数千万個、今年中には各種総計で一億個以上になり、特に対人地雷が幾多の勢力により埋め
られ、その愚かしさに気づくまで凄まじい勢いでその個数を増していくと判断していた。
地雷は中国製、福建製、タイ製が主力であった。何故か日本製は出回っていない。これは夢幻会メンバーが史実から地雷を販売する
ことへの嫌悪感を持っており輸出を許可しなかったためだが、地雷を製造するための工作機械、薄鉄板、汎用信管、特殊鋼のスプリング、
爆薬にいたるまで地雷製造に必要な物は日本から輸出されていた。なお日本製防水ペンキは無意味なほど高性能で湿地でも地雷に長寿命
を与えていたことに気付くのが遅れたのは夢幻会の手落ちであった。
この夜、東京では小さなこともコツコツと言いながら、辻〜んは金を出せる人間のための高価で精巧な義足と人道上の理由ということ
で利益はしぶしぶ最低限にした簡易型の義足の輸出を計画して、黒字の計算になると軽やかになるという愛用の算盤の玉を弾いていた
ことも関口中尉の知らない話である。
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最終更新:2012年01月01日 09:39