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皆さんご意見ありがとうございます。では投下。

※この作品はフィクションであり、実在の人物・団体・事件その他諸々とは一切関係ありません。


プロパガンダ・バスター


旧北米大陸の南部に、ひとつの国家がある。
テキサス。ヨーロッパ人に“発見”されてから、スペイン領、メキシコ領となり、1836年に一度は独立したが十年足らずで
アメリカ合衆国に編入されたこの地域は、連邦崩壊後ナチスドイツの傀儡国家となって以来、日独冷戦が終わってもつい
最近民主化するまで国家社会主義テキサス労働者党による強権的な支配で有名だった。
そのテキサス史を語る上で、外せない人物が一人いる。
トニー・マラーノ。現在テキサス共和国においてその名を知らぬものはない、民主化運動の指導者である。


彼は1949年、イタリア系テキサス人としてサンアントニオに生まれる。
幼少期~少年期は宗主国筋の子供として微粒子レベルで厚遇されつつも、概ね牛肉を食い、ヒトラーユーゲントに倣って
作られた「テキサス国家社会主義青少年団」で国歌や党歌を歌う、普通のテキサスの子供として成長する。この当時の
トニーは、党が主張する白人至上主義をさして疑うこともなく受け入れていた。


転機が訪れるのは1970年夏、親戚をたずねて単身訪れたイタリアでのことだった。テキサスよりはずっと自由な気風や、
南欧らしい陽気さも彼に影響を与えただろうが、それよりももっと大きな出会いが彼を待っていた。
眩しい灼熱の日差しを避けてふらりと入り込んだ書店の店先に、それはあった。

「日ノ出新報・イタリア語版」

当初は「なんだ、糞ジャップの新聞か」とこんな物を置く店主を心中馬鹿にした彼だったが、ふと興味がわいてその新聞を
手に取り、ぱらぱらとめくって読んでみた。
――のちに彼は、「頭をぶん殴られたようだった」とその瞬間の衝撃を語っている。
冷静で論理的な文調、綿密な取材に基づくのだろう知性的な内容。それは、ひたすら同じようなスローガンを並べ立て、
熱狂的に国民を煽る党のプロパガンダに慣れきっていた21歳の青年には、まさに革命的とすら見えた。
中でも驚愕すべきは、日本の新聞であるにもかかわらず、日本を持ち上げるよりもそういった慢心を強く諌める論が多く
見られる点だった。
気がついたときには彼は、財布から引っ張り出した硬貨を先ほどまで馬鹿にしていた店主に渡し、その新聞を一部買い求め
ていた。
…その日から、親戚への挨拶もそこそこに彼は図書館に篭もって各国の新聞の過去の版を読み漁り始めた。日ノ出新報を読んで、
いくつかの疑問が彼の脳裏にきざしたからだ。例えば、本当に白人は他の人種よりも優れているのか。例えば、今世界で
起きている事件は、本当に党が主張する通りのものなのか。民主主義には、本当に害悪の面しかないのか。
途中から彼が読み漁るのは、新聞だけではなくなった。ノートを持ち込み、閉館時間も忘れてメモをとる彼に、司書が
呆れ顔で注意することもあったほどだった。

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ひと夏を経て帰国した彼は、それまでとは何かが決定的に違っていた。有色人種差別・白人礼賛的な発言をしなくなり、
党の主張を無批判に受け入れることもしなくなった。本をよく読み、海外の情報も積極的に取り入れようとした。
しかし、表立って党に反抗することはないまま、彼は大学を卒業しTTT(the Texan Telephone&Telegraph public corporation:
テキサス電話電信公社)に就職し、1990年のナチス・ドイツ崩壊と冷戦終結を迎える。


冷戦終結前から、テキサスでは民主化を求める市民と運動を取り締まる警察や党親衛隊の衝突事件が増加していた。デモ行進
を行う学生たちを装甲車の車載機銃がなぎ払った、「ダラス事件」が特に有名だろう。
この当時、トニーは社に辞表を出して民主化運動に加わり、新聞への投書や全国をめぐっての遊説に力を振るっていた。
時には海外で活動することもあり、1993年夏にイタリアはナポリで開かれたコミケの会場での演説がよく知られている。
精力的に活動し、党の主張の矛盾点を舌鋒鋭く鮮やかに、時には諧謔も交え、誰にでもわかる言葉で批判する彼はやがて
同志たちから“Propaganda Buster”の渾名で呼ばれるようになる。また、日本では誰が言い出したか「テキサス親父」なる
愛称が広まり、トニーもこれをいたく気に入って、若者に話しかけるときに自らを“Texas Daddy”と呼ぶこともあった。
民主化を目指してこの頃結党された「テキサス国民民主連盟」の創設にも関わっている。


だが、党が自らの存在を危うくする男を黙って見逃すはずがなかった。1992年には内乱罪で逮捕状が出たし、その1年後には
トニーは全国指名手配を受け、官憲の目を逃れて地下に潜ることを余儀なくされる。その潜行下で纏めた「テキサス親父の
演説集」は、その後テキサス国民民主連盟会員に愛読されるようになるが、1994年、トニーはついに捕らえられて獄中に
送られる。
しかし、彼はくじけることなく獄中から意見を発信し、民主化を求める人々を元気付けた。
そして、民主化を求める民衆のうねりはトニーの檄で勢いを増し、1995年4月15日、国家社会主義テキサス労働者党本部は
ついに1年後の普通選挙とトニー・マラーノの即日釈放を国民に約束するにいたる。
そしてその普通選挙でトニー率いるテキサス国民民主連盟は大勝し、トニーは辞退したが強く推挙されて大統領選に出馬、
彼が新生テキサスの大統領となる。ときにトニー47歳のことだった。


彼は大統領として大幅な軍縮を行い、カリフォルニアを始めとした近隣各国との融和に努め、テキサス経済の浄化と再建に
努めた。また、人種差別政策に関しては「漸進的に解消する」という姿勢をとり、リベラルな政治姿勢をとった。そして、
任期満了とともに勇退を発表。翻意を促す人々を押し切って、政治家活動を引退する。


晩年、彼は生地サンアントニオに隠棲して、インターネット上で動画投稿サイトに自分の主張をアップしながら過ごした。
彼のページをお気に入りに登録する利用者は数多く、2011年、彼が享年62歳の若さで亡くなってからその後何ヶ月かは
その死を悼む動画が幾つも投稿されたほどだった。
日本では彼が最も影響を受けたとされる「日ノ出新報」も朝刊の紙面見開きを使って弔意を示し、旧アメリカ諸国や欧州各国
でもその死は大きく取り上げられた。
テキサスの暗雲を吹き払い、人々に未来を示した男として、その名は今後も歴史に残されるだろう。

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※なお、史実ではニューヨーク・ブルックリン生まれの彼がテキサス生まれになっているのは、夢幻会の歴史改変の結果。
当然「テキサス親父」の愛称の元も夢幻会である。


拙作は以上で終わりです。我ながら未熟ですが…

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最終更新:2013年01月05日 21:23