876 :大西洋 ◆BMYad75/TA:2013/01/13(日) 19:56:39
大西洋ネタ。
戦時下の証言者たち
「……そうです。 私も故郷のために何か出来ることはないかと看護要員として志願したんです。
当事の私は帯広女子師範学校の学生でして、男性たちが日本の故郷のために働いているのに女だからといって
ただ疎開するのには耐えられなかったんです。
そして私は級友たちと相談して直談判することに決めたんです。
その話を聞きつけた他のクラスや学年の子たちにも参加して最終的には20名ぐらいになりました。
私たちは皆一緒に陸軍の駐屯地へ行きました。
衛兵さんに志願の趣旨を伝えて士官の人に取り次いでくださいと。
衛兵さんも最初は私たちを諦めさせようと説得してくれんたんですが、私たちだって生半可な覚悟で
志願したわけではなかったので梃子でもその場を動かないつもりでした。
困った衛兵さんは上官の方に連絡を取ったんでしょうね。
しばらくして将校さんも説得に加わってきて。
それでも私たちは国のために故郷のために働きたいのですと真摯に伝えました。
それに私は事前に看護要員が足りないこと(8月25日の空襲では野戦病院が標的とされ軍医看護婦が多数死傷)を知っていましたから
国が苦難に陥っているときこそ何とか手伝いたいと半ば声を詰まらせながら訴えたんです。
私たちを説得に来た将校さんたちもこれはどうしたものかと相談を始めたときでした。
騒ぎを聞きつけた司令部の方が私たちのもとにきたんです。
その方は私たちの訴えを聞いてくださり、「私が全ての責任を負う」といって許可して下さったです。
それから一週間もしないうちに帯広をめぐって日英仏とドイツの激しい戦いが始まりました。
包帯の巻き方、止血の仕方などを必死で時間が許す限り学び、それを終えたらすぐに司令部に近くにあった野戦病院に入りました。
そこは、控えめにいっても地獄のような光景でした。
手を足を失った人や血まみれで叫ぶ人があふれかえり、床には血だまりができまるで川のように低い場所に流れていく。
そこで私たちは勇気をだして、運ばれてきた方の手当てをさせていただきました。
一緒に志願した子のなかには、泣き出してしまう子もいましたが、お互いを励まし、慰めあう毎日でした。
運ばれてきた兵士の中には英軍や仏軍の兵士もいました。
私は幸いにも語学が得意でしたので、これらの英仏の兵士の方々のお世話をすることが多かったのですが、
彼らの中には私たち師範学校の看護要員のことを「小さな天使さま」なんて呼んできたりしました。
そして私たちが志願してから10日ほどたったときです。
877 :大西洋 ◆BMYad75/TA:2013/01/13(日) 19:59:40
その日は大きな戦闘があったようで多数の患者が運び込まれました。
その手当ても一段落し、すこし休んでいたときに「師範学校からの看護婦は集まれ」と呼び出されたのです。
私たちは呼び出しを受け集まりました。
集められた場所には、重傷者を後方に送るトラックが数台止まっており、それの手伝いをするのかと思いました。
そこにはお世話になった軍医さんや正規の従軍看護婦さんや私たちと同じく一般から志願した年上の先輩看護婦が集まっていました。
また私たちがお世話をした日英仏の兵隊さんたちもそろっていました。
軍医長さんが私たちに「師範学校からの看護婦たちは重傷者の後送を命じる。 後送任務完了後は現地の軍医の指揮下に入ること」
その命令を受けたときの私たちは、その命令の意味をなかなか理解出来ませんでした。
そんななか私たちの訴えを聞き、志願を許可してくれた司令部の高級将校さんが「君たちは立派に任務を果たしてくれた。 まもなく帯広は敵軍に包囲される
ここからは、私たち大人が責任を果たす。 私は君たちを「ひめゆり」には決してさせん」と言ったのです。
唖然とする私たちを軍医先生や先輩看護婦さんが優しく今までのことを労いながら笑顔で私たちをトラックに乗せていったのでした。
私たちは戸惑い口々に残らせてくださいと涙を流しながら言いました。
でもそれをみんな許してはくれませんでした。
トラックに私たちは半ば無理やりに載せられ、トラックが動き出したときでした。
「敬礼」
「Salute」
「Salut」
その場にいた兵隊さんたちが一斉に敬礼してくれたのです。
そして日英仏の兵隊さんたちは私たちを暖かく送ってくれたのです。
私たちが帯広を出発して半日もしないうちに帯広はドイツ軍に包囲されたのです。
その後私たちは、後方の病院まで重傷者に付き添いました。
そこの病院で軍医から志願看護婦としての任務を解除され、解散を命じられました。
解散を命じられたあと私たちは病院の外に出ました。
すでに時間は深夜であたりは真っ暗闇でした。
ですが私たちが来た方角、帯広のほうからは遠く遠雷のような砲声が轟き、時折稲光のように空が光っていました。
私たちは帯広のほうへ向かって、みんなの無事をひたすらに祈ることしか出来ませんでした。
最終更新:2013年01月13日 23:14