70 :大西洋 ◆BMYad75/TA:2013/01/22(火) 18:26:14
1940年 9月9日 帯広市
家屋から立ち上る太い煙。
絶え間なく続く砲声。
街路を姿勢低く進む兵士たち。
帯広市をめぐる一進一退の攻防を両軍は繰り広げていた。
ドイツ軍は十勝川に防衛線を引いた日本軍に対し夜間浸透突破を実行。
合計七箇所の地点で突破をはかるが五箇所で失敗するも残り二箇所は成功する。
突破成功の報告に装甲軍団長マンシュタイン大将は突破口の拡大と増援部隊投入を即座に指示。
包囲されることを恐れた前線各部隊の指揮統制は乱れ、事態を把握した司令部が対応するまでに数時間の空白を
ドイツ軍が誇る将才たちは見逃さなかった。
かくして日本軍の防衛線は破られ日本軍は大幅に後退する。
そしてドイツ軍の包囲下にある帯広市。
憂鬱版スターリングラードとも言える光景が繰り広げられていた。
砲撃で崩れたガレキが戦車が起こす振動に共鳴するように音を立てる。
4号戦車を先頭にドイツ兵たちが両脇を警戒しながら街路を進む。
そしてその隊列へ向けられるいくつもの静かな目線。
鈍い発射音が街路の両脇の建物から発せられる。
一発は4号戦車の転輪に命中し履帯が車体から外れ、もう一発が砲塔側面に命中し内部の乗員を殺傷する。
その爆発音と共に待ち伏せていた日本兵たちが各種小火器でドイツ兵に追い討ちをかける。
「打ち方やめ」
この待ち伏せを率いていた佐藤軍曹が命令を出す。
「いったん後退する。 ぐずぐずするな、音を聞きつけて増援がくるぞ」
命令と共に男たちはそれぞれの獲物を担ぎガレキの山の陰に消えていった。
帯広市で行われていたこのような小規模な歩兵戦において日本軍はドイツ軍より
装備で若干優位に立っていた。
両軍の平均的な分隊における装備を列挙すると下記のようになる。
ドイツ軍
分隊長(短機関銃 MP38)
小銃手(ボルトアクション式小銃 Kar98k)×6名
機関銃手(MG34機関銃)
機関銃助手(P38拳銃・Kar98k・弾薬運搬)×2名
日本軍
分隊長(短機関銃 99式短機関銃「PPS-43の9mm版」もしくはベ式短機関銃(MP18改)
小銃手(半自動小銃 昭5式小銃)×6名
機関銃手(96式機関銃「MG42の6.5mm版」)
機関銃助手(95式拳銃・昭5式小銃・弾薬運搬)×2名
以上のように憂鬱版日本軍の分隊は史実の米軍・ドイツ軍を超える分隊火力を獲得していると言えるだろう。
史実とは違い格段に強化された日本軍の実力が帯広でドイツ軍相手に発揮されていた。
しかし、その日本軍活躍も包囲されたことによる補給の途絶により徐々にその抵抗を鈍らせていく。
帯広での組織的抵抗は終焉に近づき、ドイツ軍制圧区域に一般親衛隊が進出し「仕事」を粛々とこなしていた時であった。
1940年9月17日早朝。
ドイツ兵たちを眠りから覚ましたのは、空を覆いつくすほどの航空機の群れであった。
北海道の空の支配者がついに決まったのだ。
空は「日の丸」に埋め尽くされた。
最終更新:2013年01月23日 21:09