277 :石人:2013/02/06(水) 09:36:32
ーー陸のトーコー・海のニッコー、小西の桜に観音様ーー
憂鬱世界における、日本の光学機器に重要な役割を担った企業のフレーズである。
前の二社は史実通りだが、後の二社 ー小西六写真(コニカ)と精機光学(キヤノン)ー が何故いるのか。
そこにはある逆行者が深く関わっていた。
山口一太郎。史実では二・二六事件に参加し無期禁錮刑となった人物である。
しかしこの世界において、彼は逆行者であった。
前世はカメラ小僧かつ鉄オタという筋金入りの人間だった彼は史実と違う世界に疑問を持ちながらも漢のロマンである蒸気機関車に(脳内で)頬ずりし、そして絶望した。
鉄オタにとってなくてはならない、肝心の精密カメラがこの当時、非常に高価だったのだ(※1)。
自腹など夢のまた夢であり、いくら親が高給取り(※2)でも頼んだところで買ってくれるわけがない。
そこで数日悩んだ結果
「輸入してるから色々と高いんだ。なら完全に国産化すれば安く買えるし、気軽に写真撮れるよな」
と考え、高水準の教育・予算が期待できる軍へ志願することになる。
親が知ったら激怒しそうな理由ではあるが史実通り1921年7月に陸士を卒業した後、
異常なまでにカメラと鉄道に情熱を注いでいることが切欠で
夢幻会に発見され、そのまま加入した。
とは言っても所詮は一尉官、加入前と後ではあまり周囲も変わらなかった。
彼の道筋が変わり始めたのは1925年の第一次五ヵ年計画が実施されてからである。
軍縮の影響か一年早く東京帝大に派遣、光学機器を学んだ後小西六本店に出向。1930年にはそれまでの功績から大尉に昇進し、歩兵第一連隊中隊長を拝命する。
ここまでは大差なかったのだが1933年10月、突然知人である内田三郎が来訪、そのままあるビルの一角に連れてこられ、中にいる人たちを見て愕然とした。
吉田五郎と御手洗毅。キヤノンの元を作った二人である。
(いやいや、確かに史実でも俺はこの人たちに関わるらしいが確か翌年のはず。どうして連れてこられた?)
内心困惑していた山口だが、理由はある。彼のカメラに対する執念を義弟の内田から聞いた吉田が、ぜひ話してみたいと頼んだからである。
山口は外出時、必ず東京駅かシュミット商会(※3)にいるという噂は伊達ではなかった。
史実では折り合いが悪かったらしいこの二人だが、自己紹介の後カメラのことで激論を交わした結果意気投合。外部協力者として支援することを約束した。
278 :石人:2013/02/06(水) 09:37:33
これが原因だったのであろう、この時から山口は自重を止めた。
夢幻会上層部に国産カメラ普及の有用性を訴え、国益に適うと判断され資金援助を受ける。
この時、一番しわ寄せを受けたのは意外にも嶋田ではなく、同じく逆行者であり何の因果か史実同様義父となった本庄繁陸軍大将であった。
更に軍と帝大、両方の時代それぞれの人脈をフル活用して1935年末に精機光学工業株式会社の設立に協力。
翌1936年同社に出向、水を得た魚のように技術指導をしていく。
史実では1934年秋に吉田五郎は同研究所を去っていたが、山口の惜しみもない協力のおかげか留まり、開発に邁進する。
また翌1937年、奇妙な縁で知り合った間宮精一や「招聘」に応じたエルンスト・ヴァンデルスレプが入社、新興会社にもかかわらず評判を呼んだ。
その結果、1938年に「キヤノンS型」を発売、1940年には小西六と共同開発したガンカメラが飛燕・烈風に採用されるなど、
軍民両方で名を残す機器を生み出すことになる。
「…まだだ、次のキヤノンSⅡなら、ライカを上回る写真が撮れるはずだし、更に安上がりにもできる。
そうすれば嫁を綺麗に沢山……。うおおおおおっ、待ってろ俺の機関車タァァァァァン!!」
その嗜好と功績から
一般には「陸の山田幸五郎」、夢幻会派の人間には「鉄道ヲタク」略して「てつを」
と散々な渾名が付けられた山口。彼もまた、一人の変態であった。
【解説】
(※1) 「ライカ1台、家1軒」に代表されるように、非常に高額だった。いくら夢幻会のチートで生活水準が上がっていても
まだ高嶺の花であった。
(※2) Wikiより拝借 山口勝 ー第10師団長、第16師団長、重砲兵監を歴任し、階級は陸軍中将功三級に至るー
(※3) 1896年に設立した、ドイツ系の品を扱う輸入代理店。レントゲンを初めて日本に輸入した説あり。通称ライカビル。
最終更新:2013年02月09日 21:02