684. 名無しモドキ 2010/12/23(木) 14:29:17
貧乏性なのか、華々しい前線部隊のことよりもマスコミが取り上げない部隊が
気になります。


忘れられた戦場「上海日記」  −第十七捕虜収容所 Stalag 17 −

  先週送りました葉書はもう着きましたか。ここ上海は、年の瀬というのに、
新年を迎える内地のような慌ただしさはありません。本当の新年の祝いは、旧
正月に盛大に行われるそうです。
  葉書は比較的自由に出せますが、手紙は検閲を通過したものしか出せません。
今は戦争中ですからある程度は仕方ないと思っています。でも、ここで見聞き
したことは少しばかりでも書きためて置こうと思います。
  無事に内地に帰るときは、自分宛の手紙だと思って持って帰ります。もし、
自分が死んだときは戦争が終わってからでよいのでお父さんに届くように遺言
を残しています。

10月5日:先週、上海第十七捕虜収容所に着任しました。我々の小隊は一
週間の予定で警備に関する教練を受けました。警備方法の実地訓練と座学で
す。ジュネーブ協定に関いて、捕虜の取り扱いと、実際に捕虜との接し方を
いくつもの場面を想定して教官が、この場合はどうするかと質問してきます。  結局、我々がたたき込まれたのは、捕虜は犯罪者ではなく、兵士として処遇せよといった、観念的なことよりも、「捕虜から物を貰うな。貰えば何かしらの対価を与えざるえなくなる」「捕虜へ物を与えるな。但し、一本づつタバコを与えることは緊張緩和から容認される」といった細かなことでした。明日から我々だけで所内巡回に行きます。
  それから、父さんは大学に入れてやれなかった。なんとか金を工面してや
るんだったと今でも悔やんでいると母さんからの手紙で知りました。確かに、
大学生になれば兵役猶予で、卒業するころには戦争が終わっていたかもしれ
ません。
  でも、誰かがここに来なければいけなかったのです。誰かが成し遂げなけ
ればいけない責務なら自分から進んで果たしたいと思います。愛国心とかで
はなく、そんな人間であり続けたいと思っています。

10月12日:巡回任務や歩哨にも大分慣れてきました。分隊長に、そう話
すと「慣れたはいけない。慣れは緩慢と油断に繋がる。」と叱責されました。
所長も訓辞でよくそのことを言います。
  所長は予備役の中佐です。訓辞の時は、よく第一次世界大戦で中隊長とし
て参加した話をするだけあって還暦に近い歳だろうと思います。
  何故か、この所長の命令で、起床の合図に、アメリカの曲を流しています。
「ジョニーは戦場へ行った」という曲だそうです。勇ましいのか、もの悲しい
のか。アメリカ兵には好評のようです。古参兵が、どうしてこの曲を流すのか
聞いたところ「第十七捕虜収容所だから。」と答えたらしいです。父さんは、
どういうことかわかりますか。

10月18日:収容所の要所要所に書いてある注意書きは、もちろん、英語で
す。よく内地で見るような可愛い女の子の絵が必ずその横に添えられています。
便器の使い方なんかの説明書も、女の子が何をしている絵です。
  日本人が誤解されないかと心配していましたらアメリカ兵の中に、そのマネ
をして中々に上手な絵を収容棟の壁に描く連中が現れました。今まで気にしま
せんでしたが、日本人の描く女の子は、やっぱり日本人で、似ていてもアメリ
カ人の描く女の子はアメリカ人なんだと感心します。
685. 名無しモドキ 2010/12/23(木) 14:44:01
10月23日:今日、ちょっとした事件がありました。捕虜が何かを何遍も
聞いてきます。アメリカでは津波で何人死んだか。ニューヨークはどうなっ
た。と聞いているようでした。そこで、1000万人が死んだ。自由の女神が倒
れたと、片言の英語と身振りで伝えました。
すると、後ろの方にいた男が、「ライアー」と言って突進してきました。こ
ちらは慌てて銃で威嚇すると、周囲のアメリカ兵が、その男を押しとどめま
した。班長があわててアメリカ兵に収容棟に入るように命令して大事にはな
りませんでした。
副官に呼び出されました。叱責されるのかと思っていると、今日の状況を詳
しく書き記して報告書を提出せよとの命令でした。ホッとしましたがその為
に夜間巡回のための仮眠時間がまるまる無くなってしましました。
  腕立て百回の方がよかったと思います。ビンタで顔が腫れあがる覚悟もして
いましたから、それを思って自分を慰めています。
お父さん心配してくれていましたが、この小隊では少なくともビンタはあり
ません。訓練の時には匍匐がなってないと、毎日、内出血になるくらいケツを
思いっきり踏みつけられていましたが。

10月28日:この間の報告書の件が、今だにたたっています。この収容所だ
けで、1000人近いアメリカ兵がいます。いつも、波風が立たないというわ
けには行きません。ちょっとした反抗、捕虜同士の諍いなどは毎日あります。

  その度に、現場にいた兵隊に報告書を提出させるのですが、お前は筆が立つ
そうじゃないか。いい中等学校に行っていたそうじゃないかと言っては、古参
兵が代筆させるのです。今日も夜間巡回の仮眠時間がなくなりそうです。
  
  でも、幾つか報告書を書いていると上層部の意図がなんとなくわかります。
どのような時にまずい状況が起こるのか、捕虜の精神状態はどのようになって
いるのかといった情報が欲しいようです。

11月4日:今日は、捕虜を連れて、戦闘で崩れた街区の整理に行きました。
いつもは専門の小隊が行くのですが、そこの小隊長が急病になって、我が小隊
が出動することになりました。
  うちの小隊長なかなかカッコよかったです。アメリカの士官と向かい合わせ
になったお互いに敬礼します。小隊長が英語で何か言うと、アメリカの士官、
といっても我が軍でいう准尉なので小隊長より格下です。その准尉が
「イエッサー」と言って敬礼します。准尉はアメリカ兵にトラックに乗るよう
に命令します。

  我々が指定場所に着くと、其処には完全武装した海援隊の小隊が居ました。
小隊長から我々は捕虜の監視、海援隊は我々の護衛との説明がありました。最
初は屋上に屋上を重ねる話だと思っていましたが、作業を始めて暫くすると海
援隊がいる理由がわかってきました。

  最初は人っ子一人いなかったのに、いつの間にか大勢の中国人が集まってき
ます。どの目も敵意に満ちていて、遠くにいても殺気が伝わってきます。アメ
リカ兵は中国人と目を合わさないように下を向いて作業をしています。中国人
達を近づけないように海援隊が銃を構えて、この場を立ち去るように言ってい
ます。(こちらに来てから簡単な中国語は習いました)

  兵隊のわたしが言うのも変な話ですが、海援隊というのは本職の兵隊だと思
いました。中国人の殺気以上の威圧感です。命令で躊躇わずに人を殺せるとい
う威圧感です。
  中国人たちは「チッキン、チッキン、ヤンキー、ヤンキー」と囃し立ててよ
うやく去っていきました。帰ってから、古参兵が「うまいこと考えやがる」と
いうので、聞いて見ると今日いた海援隊の連中は、南洋(現在の東南アジアの
こと)の奴らが多かったのと、白系ロシア人が混じっていたのは、日本兵に余
計な反感を持たせない手だと教えてくれました。あいつらと俺らじゃ、すぐ区
別がつくからだそうです。

  でも、もっと物知りの下士官は経費の問題だといいます。いくら兵隊の給料
が安くても、海援隊をその場、その場で雇った方が、まだ安いそうです。
686. 名無しモドキ 2010/12/23(木) 14:50:52
11月10日:夕方の30分ほど収容所の一角に中国人の行商人達を入れます。
行商人はアメリカ兵相手の商売をします。最初は、戸惑いましたが、ここでの
習慣だそうです。

  当初は、アメリカ兵のドルが結構羽振りを効かせていたそうですが、すっか
り暴落してほとんどの行商人は受け取りません。今では、捕虜は私物と物々交
換をしています。捕虜が欲しがるのは、アメリカ製の書籍雑誌やレコードです。
この上海であった数ヶ月前の略奪の事を考えれば、その品の出所は聞かない方
が花でしょう。

  今日、モノポリーを売っている行商人を見ました。任天堂が作った「独占」
は、当初は売れなかったのに、アメリカで「モノポリー」と名付けて販売した
ら大ヒットして、日本に逆上陸して流行したというゲームです。
ただ、我々は、行商人からの物品購入は禁止されていますので欲しかったけれ
どあきらめました。

  我々が市内で、よく使うのは日本円です。今のところ、これが一番喜ばれて
いるようで助かります。二番目は日本の軍票です。でも、大蔵省のエライさん
が、軍票の増加に難色をしめしているとかで、そんなに出回っていません。

  三番目が、福建政府の札、四番目が重慶政府の札です。其の次が、広東政
府の札です。中国人は本能的に信用出来る札を選別するといいます。重慶政
府は復活すると判断しているのでしょうか。因みに、華北政府の札はドル紙
幣と同じ扱いです。

11月13日:アメリカ兵は自由時間に、思い思いに楽器を奏でたり、トラン
プ遊びや、例の「モノポリー」なんかで遊んで陰鬱さはありません。

  驚いたのは、所長に願い出て収容所の裏手にあった空き地を野球ができるよ
うに整地したことです。日々の作業が終わってから、疲れも知らないごとく熱
心に、歌いながら作業をする姿には感心しました。

  道具はどうするのかと思っていると、破れて着られなくなった皮の軍服など
を使って器用にグローブを作ってしまいます。所長も感心してグランド完成の
お祝いに、上海中から探し出して本物のグローブやボールを、アメリカ側の士
官に贈呈しました。喜んだアメリカ兵は早速野球を楽しんでいます。

11月16日:ここ上海は九州の種子島くらいの緯度だそうです。それでも、
11月の半ばになると多少の寒さを感じます。捕虜もつらいかも(最近はそ
うも見えませんが)しれませんが巡回と歩哨、作業現場での監視と単調な
日々に「慣れてはいけない」と命令され続ける我々こそ大変です。

  その捕虜と我々の共通の楽しみは食事です。基本的に捕虜の食事と我々の
兵食は同じ材料です。違うのは我々が米で、アメリカ兵はパン(しばしば米
も)ということと、アメリカ兵の食事はアメリカ兵の炊事係が作るので同じ
材料でもできあがってくるメニューが違います。

  ただ、我々は非番の日は外食もできますし、食欲以外も満足させることが
できますからまったく同じでとはいえません。でも、結構いい待遇を与えて
いるんじゃないかと思います。

  厚遇しすぎだ言う兵隊もいますが、所長は捕虜は赤十字を通じて故郷に、
検閲されるとはいえ手紙を出しているので、ここでの待遇以下の扱いを我が
軍の捕虜も受けないようにするためだと言います。でも、日本の兵隊が何処
で捕虜になっているんだという疑問があります。

  主計課がたまには、ご馳走してやろうと、名物の上海蟹を仕入れてきまし
た。我々は腹一杯喰いましたが、まだまだ余っていたのでアメリカ兵に提供
しました。
喜ぶかと思うと、残念だが今年の蟹は食えないといいます。今年の蟹は、
人間の死体で大きくなった蟹だからと・・。気持ち悪くなりました。
687. 名無しモドキ 2010/12/23(木) 14:55:14
11月21日:今日、収容棟で、大幅なアメリカ兵の入れかえを行いました。
東部出身のアメリカ兵と他の地域出身の兵隊の間で、もめ事が多いので東部
出身の兵隊を、ひとまとめにしました。

  東部出身のアメリカ兵は、ふさぎ込むような様子や投げやりな態度が目に
付きます。自分は戦場で命を保てたのに、家族の安否がわからないからでし
ょう。
そのことが別の地域のアメリカ兵からは、理屈では同情しても疎ましく思わ
れるようです。

  赤十字を通じて慰問物資が送られてきますが、カリフォルニアなどの西海
岸出身者には、州からの加配がついています。東へいくほど、それは少なく
なって、東部からは何も送ってきません。

もちもん、アメリカ政府やアメリカ赤十字からの物資は、全員で平等に分け
ますが、その量は西部の州が送ってくる量の半分もありません。陸軍は州単位
だそうですが、ここのアメリカ兵は海兵隊なので様々な州から来ているそうで
す。

この待遇の差は、明らかにもめ事の原因になっています。アメリカ政府や軍
も少し考えればわかりそうなものです。州が勝手に自分の州の兵隊だけを援助
なんてことは、国全体の調整が上手くできてないのでしょう。一介の兵隊でも
そう思います。

11月23日:せっかくの新嘗祭というのに脱走騒ぎです。朝の点呼の時に、
一人の上等兵が脱走しているのが発覚しました。
  
今日は慰問隊として、なんと、高峰秀子が、収容所にくる予定でした。捕虜
にも歌を聞かせる予定だったのに。特別食と酒の加配が出るという噂だったの
に。捕虜にも感謝祭ということで、七面鳥のがわりのアヒルを用意していたの
に。
総べてがすっかりおじゃんです。

  どうせ、脱走するにしても明日にしろと皆怒っています。普段見せない我々
の乱暴な態度にアメリカ兵も戸惑っています。後で悪いことをしたかと思いま
したが、銃床で思いっきり脱走者の出た棟の兵隊の腰を打ち付けました。
そのアメリカ兵は悲鳴を上げて、しばらくうずくまってしまいました。

  脱走者を出した棟は全員個別に尋問を受けました。その結果、誰にも知らせ
ずに、単独で脱走したことがわかりました。真面目な性格で、かえってからか
われることもあったようですが、収容所の生活にも馴染んでいたようなので、
他のアメリカ兵も驚いていました。

11月25日:先日、脱走したアメリカ兵が見つかりました。中国人の一団が
捕虜を捕まえたと軍政本部に死体を持ち込みました。ここでは書けないくらい
に無惨な死体になっていたそうです。

  中国人達は報償を要求して、一日中騒いでいたということです。根負けした
軍政本部が、正直な顛末の説明と、今後は生きたまま連行することを条件に、
幾ばくかの謝金を出したそうです。

  収容所の方でも調査に進展がありました。脱走したアメリカ兵の数少ない友
人が自供を始めました。
  それによると、件のアメリカ兵には、中国人の恋人がいたそうです。奥地か
ら酒場に出稼ぎに来た女で、何回か通っているうちにわりない仲になったそう
です。

収容所に来ている行商人から、その女がアメリカ人の妾ということで酷い目
にあっている。それから、お前の子を宿している。近いうちに、その子ともリ
ンチで殺されるだろう。といったような話を聞かされたそうです。

  件のアメリカ兵は、悩み抜いた挙げ句に、その女を連れて、軍政本部に出頭
して保護を求めるために脱走したというのです。その提案も、手引きをするか
らと、行商人から持ちかけられたそうです。

  今から思えば、最近、その行商人の姿が見えない。罠だったんだと。
彼は、俺が止めなかったからだと泣き崩れました。軍政本部の調査も大方で
一致したそうです。
688. 名無しモドキ 2010/12/23(木) 15:00:28
11月28日:先日の事件の概要が伝わってきました。殺されたアメリカ兵を
脱走させたのは、幇(パン)と呼ばれる上海にいくつかある犯罪組織だそうで
す。

  アメリカ兵を捕まえた彼らは、敵を討たせてやると、アメリカ人に身内を殺
された人々を集めて金を取っていたそうです。
  アメリカ兵を殺してしまった後で、幾ばくかの金を取り戻そうと困窮者が軍
政本部に押し寄せた次第です。

  十四、五歳の少年もいたそうですが、彼の父親は、負傷して家に転がり込ん
できたアメリカ兵を親切に治療したのに、踏み込んできた別のアメリカ兵に問
答無用で撃ち殺されたそうです。
本当かどうかは、わかりませんが似た話はいくつも聞きます。

  便所の壁に「 チンク(中国人に対する蔑称)を吊せ」と落書きがありまし
た。しつこく「銃を貸せ。奴らを十人殺したら帰ってくる。」と怒鳴るアメ
リカ兵もいます。

  収容所の中も外も憎しみで満ちています。日本人だけが蚊帳の外です。本来
なら軍政を行っている日本、自分たちを収容所に閉じこめている日本ですから
中国人とアメリカ人の両方から憎まれてもいいはずなのにです。憎しみは、憎
しみを育てているようです。日本は絶対にそのような負の連鎖に陥ってはいけないと思います。

12月15日: ようやく収容所も落ち着いてきました。所長とアメリカ側の代
表が話し合って大きな看板を作りました。等身大の女の子、例の日本風の女の
子と、アメリカ風の女の子が「人を殺すより、人を救おう。故国に帰って復興
のために義務を果たそう。」と英語で呼びかけています。

  それから所長の提案で、アメリカ側と野球の試合をすることになりました。
中学で野球部だったことから外野手として選ばれました。

12月17日:今日は、久しぶりに上海の街に出ました。とはいっても自由に
歩けるのは、租界の中と、隣接したごく限られた中国人地区です。中国人地区
の要所には海援隊の警備兵が立っており、指定された区域が塀で囲まれていま
す。

  そこには、軍政本部の許可書を持った中国人しか入れません。何回か行った
「星鼠」という食堂に立ち寄りました。

今日の戦の前の腹ごしらえです。食堂の親父は片言の日本語をしゃべります
し、価格も納得できます。そのため、いつも日本人がいます。つい何ヶ月か前
に逃げ出した日本人がもう大勢戻ってきて商売を始めています。

商社マン風の日本人が兵隊さんに奢りたいといって同席を求めてきました。
しばらく談笑しました。慎重に言葉を選んで。

  ひょっとしたら、兵隊の信条調査を行う特務機関の人間かもしれませんか
ら。大陸に来て少し利口になり、慎重に生きるようになりました。

  食事を終えて出て行こうとすると、よれよれの燕尾服を着た三人の中国人
が入ってきました。顔を靴墨で塗っています。サックス、クラリネット、ア
コーディオンを持った流しです。

  隣にいた水兵の一団の一人が、リーダーらしい男に声をかけると、中国人
は「モウマンタイ」とワザと日本語なまりの返事をします。

  演奏が始まりました。「軍艦(軍艦行進曲)」です。海軍さんのご所望ら
しいです。上官から中国人を刺激する行為を控えるようにと言われているこ
ともから、この程度のことは、どうなんだと思っていると、なんとジャズで
す。ジャズ調の「軍艦」に海軍さんらは顔を見合わせていました。

  最初に、声をかけた水兵さんが、ジャズ調にあわせて歌い出しました。音
楽の素養があるのか演奏に負けないくらい上手です。それにつられて他の水
兵さんも歌い出します。

  シュールな世界です。上海で黒人を真似た中国人が、アメリカのジャズで
軍艦を演奏して、大日本帝国海軍の水兵が日本語で歌う。もし彼らが、ジャズ
調で「君が代」の演奏を始めたら、どうして良いのかわからなくなります。

そんなことにならない前に店を出ました。
689. 名無しモドキ 2010/12/23(木) 15:10:22
12月21日:いよいよアメリカ兵との野球の試合です。こちらのエースは、
中等野球で県の準決勝までいったという少尉です。ただ、残りのメンバーが
いささか、頼りありません。

  アメリカ側の投手も、マイナーリーグに数ヶ月いたという触れ込みでなか
なか打てません。試合は、一対一のまま延長に入りました。照明がないので、
この回が終われば引き分けということになりました。

  先攻の我がチームはワンアウト二三塁と好機を作りますが、スクイズに失
敗して、アメリカ側の最後の攻撃になりました。ツーアウト二塁から大きなセ
ンターフライが出ました。

  絶対に抜かれたと思ってボールも見ずに走りました。ふと見上げると上手
い具合にボールが取れそうです。ボールを見ながら背走、また背走、キャッ
チしたとたんに転倒しました。

  一瞬、応援が静まりかえりました。ボールを手にとって高々と見せると、
日本側からも、アメリカ側からも大きな声援が起こりました。

試合の後でアメリカ兵が「お前はジャパニーズ・ウィリー・メイズ(1931
年のワールドシリーズでメジャー史に残る背走によるスーパーキャッチを行
う)だ」と言ってくれました。

  このこととは関係ないと思いますが、中隊で一番早く上等兵への昇進を内
示されました。それと、よくない兆候だとは思いますが、最近町中より収容
所の方が心が安らぎます。

12月25日:アメリカ兵たちがクリスマスを祝っています。驚くことに、
アメリカの軍隊には、神父だの牧師だのがいます。この収容所にはいません
が、ユダヤ教のラビという坊さんもいるそうです。

  多くの宗教を信じている人間が集まっているのでそんな手間をかけるので
しょう。また、それを実行して、一つの軍隊集団としてまとめているアメリ
カ軍の底力が恐ろしくなります。

  近々、我々の小隊は配置換えになるそうです。街の片付けが一段落したの
で、上海近郊の○○に新しく○○○を捕虜を使役して建設するそうです。

ジュネーブ協定では捕虜をこのような使役には使うためには日当を出すそ
うですが、中国人を雇った方が安いそうです。ところが機密保持のために捕
虜の方が良いということで、その為に捕虜を動員するのです。

  捕虜より安い中国の人件費とか、機密保持には敵国捕虜とか頭がくらくらし
そうです。捕虜は何日かそこで作業をするので収容所には、今までの半分ほど
の人数しか残りません。

また、現地には、別の部隊が駐屯しており、現地で監督を行うそうです。
つまり、収容所の人間がそれほど必要なくなるということです。
690. 名無しモドキ 2010/12/23(木) 15:17:10
12月27日:今までの手紙は、父さんと、初恵さんに出したものです。でも
この手紙は初恵さんだけに出します。

  今日、配置換えの命令がきました。あまり長く同じ兵隊を捕虜収容所に置く
と、慣れと慣れあいが防げなくなるということで我々の小隊は、上海の治安維
持部隊に配置されました。

  どうか卑怯な男と思ってもらって結構です。初恵さんだけには、本当の僕を
知って貰いたいのです。その為に、初恵さんに嫌われるかもしれないことも隠
さずに書いてきました。

  僕は恐い。とても恐い。内地では我々が上海の街を把握して、軍政の元で統
治をしていると信じていると思います。表面上はそうです。日本軍に表だって
反抗する中国人はいません。少なくとも新聞にはそう書いてあると思います。

  実は秋から以降でも、二十人以上の兵隊が命を落としています。負傷者はそ
の数倍でしょう。上海の街の中でです。租界だってまったく安心ではありませ
ん。

  今も武器を持った更衣兵や、共産党の工作員、純粋に日本を目の敵にしてい
る一般市民もいます。

  日本の為に、何かをしてくれる中国人も大勢います。それは自分の当面の利
益になるからです。心の中はわかりません。もし、心から日本に協力するよう
な中国人であれば、本当の意味の売国奴かもしれません。

  上海だけで200万の中国人がいます。周辺の治安悪化から100万以上の
難民が上海に移動しています。それなのに上海の我が軍は海軍部隊も併せて、
4万もいないのです。上海だけでも、隠された銃は5万丁とも言われています。

  我々は今も戦争を続けているのです。決して勝てない戦争です。中国という
国や政府になら勝てるかもしれません。しかし、中国あるいは中国人に勝つこ
とは出来ないでしょう。4億の民の暮らす、この広大な土地で我が軍は一滴の
水です。

  我が軍は虚勢を持って、4億の民と心理戦を続けているのです。奥地に進軍
を命じなかった政府は賢明でした。

  上海も中国の一角です。僕は恐い。戦争のために中国にいる僕は恐い。初恵
さん、僕が死んだらこの手紙が届くかもしれません。けれども、その時は読ま
ずに焼いて僕のことを忘れてください。同じ文言を一枚目に書いておきます。


報告書:1月5日、上海○○地区ヲ警邏中、付近ノ露天商ヨリ発砲事件
    ノ通報ヲ受ク。我ガ分隊ハ直チニ近隣ノ廃屋群集ス無人地区ノ捜索ヲ開
    始シタリ・・。

  僕はドアを蹴り開けた。震えながら拳銃をこちらに構えた少年。
    「撃て」と頭のなかの自分が叫んでいる。よく見ろ。怯えた、かっぱらい
      の少年だ。更衣兵でも共産党の工作員でもない。ひどく怖がっている子
      どもだ。

    「撃て」  頭の中でまた自分が叫ぶ。

  足下には土まみれの食べかけの饅頭が転がっている。おや、額から生
    え際にかけての酷い火傷に目を取られていたが、この子は女の子だ。前
    髪で火傷を隠して綺麗に顔を洗えば愛らしい少女だ。

      そう、始めて女学校に通う初恵さんを見かけたのもこんな年頃だった。

  「撃て」  何度もうるさいな。僕はゆっくりと銃を下ろそう。お前も拳銃
      をこちらに向けるな。

    僕は防弾服を着ている。あんな拳銃じゃ、余程当たり所が悪くない限
      り死ぬことはないさ。

  「××、撃て」いつの間にか来た戦友が後ろから叫んでいる。僕は決め
      た。今日は誰も死んではいけない。誰も殺してはいけない。


  その士官は、中に人の気配を感じると玄関を開ける前にもう一度、服装を整
えた。「××さん、おじゃまいたします。ご子息のことで、ご報告にまいりま
した。」士官は引き戸を開けた。

  史実では薄い紙で郵送された戦死公報は、この世界では留守師団の担当士官
によって直接家族に届けられる。
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最終更新:2012年02月03日 18:46