303 :SARU ◆CXfJNqat7g:2013/02/19(火) 08:56:25
蜃気楼の楽園

大西洋大津波によって本国が事実上消滅したポルトガル。
かつての海洋王国が保持していた植民地は世界中に広がっており、その処遇については列強諸国の懸案事項となっていた。
中でもアフリカ南東のモザンビークは周囲を英領に囲まれた上、仏領マダガスカル島の対岸に位置するという地政学的な面倒を
抱えており、疲弊した現地ポルトガル人は誰に救いの手を求めれば良いのか分からない状態だった。サンタモニカ会議の俎上
にも挙がったが、その時はアメリカ風邪対策を始めとしてより緊急度の高い事案が多数在り、モザンビークについては当面の間
等閑に付さねばならなかった。

北米問題に一応の決着(妥協)を見た44年、旧ポルトガル人の人的資源をアンゴラに集約するという方針が定まり、モザンビーク
はロウレンソ・マルケス市と南端のマプト地方が白人居住地としてポルトゥゲザ・ノヴォ(=新ポルトガル。アンゴラの新称)の飛び地
となり、残りの大部分は名目上の英國信託統治領として原住民の自治が行われる事となった。これについてアフリカに多くの
植民地を抱え、本国復興の為の収奪が不可欠だったフランスは病的な迄の反対意見を唱えた物の、枢軸の領袖ドイツを初めと
する他の列強は不足気味の資源労力を投下する地域が少なくなるのならと拍子抜けする様な態度で自治案を認めた。支配者が
去った後のモザンビークは現地人が貧弱な一次産業に従事するだけの土地でありとても自治が可能な状態ではないと考えられ、
日英側が失点するのならそれはそれで望ましいからだった。

波が引く様にポルトガル人が去った後、少数の東洋人がモザンビーク入りした。彼等は主に日本及びその同盟国から派遣され、
英聯邦圏からは有色人種の通訳が若干数付けられており、現地人に井戸掘りや堆肥作りといった農業技術を指導する役目を
担っていた。他にも木炭作りと七輪製造、大八車等の木工品製造、備中鍬を初めとした農機具の鋳造といった二十世紀の基準
では“枯れた”物ではあるが現地人には極めて有用な技術指導が学校開設と抱き合わせで行われた。
教育に関しては取り合えず3年の義務教育で識字率と計算能力の向上を図り、後は技術別の専科を設けて基礎を学ぶ枠組みを
作った。製造業で規格を統一するには仕様書と設計図の内容を理解するのが最低限必要であり、家内手工業の域を超えるには
急造でも教育を施さねばならなかったからだ。

50年代から60年代のアフリカが動乱という表現すら生温い過酷な状況に置かれる中、比較的安定していた英聯邦圏に囲まれた
モザンビークは列強諸国の需要に応えて鉱物資源の開発を始める様になっていた。必然的に高等教育の充実が図られ、主要
道路と共に優先すべき物として整備が進んだ。一方で上下水道や電化といった都市機能の拡充は後回しとなったが、大部分の
住民は貧弱な社会資本でも地産地消経済が回る生活水準だったので問題は少なかった。
港湾都市で交通の要所でもある首府ベイラでは国営テレビ局が毎日10時間の放送を行い大規模な自治体では役場に併設
された視聴館に受像機が置かれたが、主流は村々を定期的に巡回する移動映画館で日本製の時代劇──『愛國戦隊大日本』
『忍者部隊月光』等、現実の戦争を連想させる作品は無償供与の対象から外されていた──が人気を博していた。
尤も、一番身近な娯楽は紙芝居だった。識字率が上がると必然的に教育に幅が出る様になり、十数枚の絵で物語を構成する
紙芝居は作家や演劇の登竜門として格好の題材であった。中でも織田信長に小姓へ取り立てられた黒人奴隷が主人公の
『弥助物語』は人形劇や動画劇が作られ、後に日本へ逆上陸を果たした事で銅像が建てられる迄の社会現象を起こした。

二十世紀末、モザンビークは遂にリベリアに次いでアフリカの独立国家となった。国内は幹線や産業道路を除いて未舗装の
道路が大半を占め鉄道網や空港も需要の低さから小規模な物に留まっているが、人々の明るい表情や田園風景は統計上の
国力では現せない幸福を物語っていた。
例えそれが温室の中の花々だったとしても──

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最終更新:2013年02月24日 20:31