416 :ひゅうが:2013/08/05(月) 20:15:20
お詫びといってはなんですが、裏事情をちょこっと書いてみました。
ネタSS――「愛国者(笑)たち~提督たちの憂鬱×征途~」
――某日 日本国 首都東京 内閣府 国家戦略総合研究局(総研)
「どうしてこうなった…」
「いやあ、そりゃこうなるでしょう。あの獅子吼には私も感動しましたし。」
「恥ずかしいからリピートやめろ!!」
こいつらは…と嶋田繁太郎――いや川宮哲也は頭を抱えた。
ニヤニヤ笑っているかつて辻正信と呼ばれていた男は、SONY製のブラウン管にあの「演説」の「祖国をひとつに!」の部分を映し出してなぜかうんうん頷いている。
「まぁまぁ嶋田さん。統一の立役者であるのですから注目は当然でしょう。それに、統一を見越して数十年前から準備を行っていた我々の働きがバレてますし過大評価も当然では?」
「よってたかって私に全部押し付けておいてよくそんなセリフがいえますね南雲さん。」
いやぁはっはっはとにこやかに笑うのは、かつて南雲忠一と呼ばれていた男。
彼は今は「統一戦争」と呼ばれることになったあの戦いで思う存分大型艦を指揮できたのがよほどうれしかったらしい。
それを整えるためにどれだけ苦労したのか知っているだろうに――と嶋田はジト目で周囲の「ご同類」たちを睨みつけた。
かつて東条英機だった元人民陸軍第32師団長は口笛を吹いているし、同じくかつて近衛文麿だった前日本社会国民党(北日本共産党から名称変更)総裁ははじめから話を聞いていない。
というか公開されたばかりらしいゴ○ラの最新作を涎をたらしながら見ている。
ほかにも、顔と姿かたちこそ変わっていたがこの都内に設けられた円卓会議場には嶋田と腐れ縁で結ばれた「頼れる仲間(笑)」が集結していたのだった。
北日本成立直後から暗躍していた辻あらため滝川NSD長官を筆頭に、人民軍の陸海空の将帥、香港経由で南北交易を成立させた国営企業群の長、若手改革派の経済官僚、人民大学の教授でもある文化人。
彼らが「青森記念親睦会」という秘密組織を北日本政府の黙認のもとで設立していたことは、今では南日本の多くの国民が知っている。
川宮家の出身地である青森県の『解放』を狙う革命的な会であるというのが設立趣旨だったが、実態は実に皮肉がきいている。
青森といえばリンゴである。
実際、会のシンボルもリンゴの木であった。そしてリンゴは「外側は赤いが内側は白い」のだ。
この事実が知られたのは、統一直後に北日本人民軍総参謀長だったエキセントリックな将軍(元富永恭次)が妙なポーズを決めつつ
「実は我々(北日本)は成立直後から統一目指して暗躍していたんだよ!!」
「な、なんだってー!?」
というやりとりを滝川(辻)の承認のもとやらかしていたからだったりする。
たちの悪いことにそれは事実だった。
――北日本、日本民主主義人民共和国成立後、北日本では共産主義の夢がかなったことで先鋭化していた戦前からの共産主義者と、シベリアからとりあえず帰還を許された軍人たちや戦後日本において係累を失っていた人々が表に出ないかたちで対立していた。
ソ連軍の占領下にあるために共産主義という看板は下ろせないものの、いきなり条約破りをやって侵攻してきた挙句本土を占領するソ連軍への反感はぬぐいがたく存在していたのだ。
そんな中にあって、戦前からのつながりを有する人々は密かに結集。
特に、NSDこと国家保安省で頭角をあらわしつつあった滝川は旧朝鮮系の革新官僚(満州系は南の日本でのちに岸政権へと結実する)たちを組織化し、スターリン主義者へと変貌を遂げつつあった初代首相有畑角次を排除しようとする川宮勝二へと接近。
結果、北海道戦争以後に「リンゴのような社会主義体制」を構築してしまう。
川宮勝次は権力欲の塊ではあったがいい意味で俗物であった。
自分の権力が安泰であれば、そして社会主義体制という自身の夢が維持されている限りは部下の仕事に口出しはしなかったのだ。
さらに、日本人は本音と建前の使い分けにつけては1000年以上の歴史を誇る。
駐留ソ連軍は熱烈な共産主義者へと変貌を遂げた北日本に半ば満足しつつその戦力を順調に減らし、北日本軍は模範的なワルシャワ条約軍として増強され続けた。
417 :ひゅうが:2013/08/05(月) 20:15:55
自由を求めてデモを起こしてもベルリンやプラハのように鎮圧されるのは分かっている。
であるなら、粛々と来るべき機会を待つべきだ――
独裁者である前に、スターリンの大粛清に憤る(日本人も多数行方不明になっておりその一人が彼の初恋の人物であったという)民族主義者であった川宮も基本方針には同意し、かくて「体制に文句を言わず順応するなら言論は基本的に自由」かつ「共産主義実現のために尽力はするがその方法について教条主義的でない」という奇妙な国家体制が北日本に成立する。
国民をまとめるのは強固な日本ナショナリズム。唱えるは平和。すべては人民のために。
唱える文句こそ東側諸国とは変わらないものの、口にする言葉の裏に刃を忍ばせているあたり北日本は戦前日本の正当な後継者であったといえるだろう。
そして、ブレジネフ時代が終わりを迎えるころ静かに胎動ははじまった。
辻の仕業であるのだが、この時代に「ソ連の経済破たんは不可避」の結論を導き出した北日本政府とその主流派を構成する人々は密かに準備を開始したのである。
成立したばかりの中曽根政権と接触し、継続的に接触を維持していた「裏口」を「正式な非公式外交ルート」へと格上げし同時に国営企業の統廃合と技術革新を中心にした経済改革を実施。
それと比例するかのように、反体制派への言論統制と政治収容所への収監者数を激増させていった。
「選別」がはじまったのだ。
モスクワはこの擬態にまんまと引っかかった。
改革派であるゴルバチョフ書記長が主導権を握りつつあったこともよい方向に働いた。
この流れを作ったのが滝川であり、実行したのが川宮(嶋田)であったのだ。
もっとも、レーガン政権の軍拡と国後島への米空母基地整備に伴い軍拡を要求する軍の一部を抑え込み、党のお偉方や下部組織あがりの過激派に対処するのに神経をすり減らしたことはまったく彼らの「前世」と変わりはなかったが。
そして、主流派一派は川宮勝次からあの遺言を引き出すことに成功する。
「日本を、再統一せよ。」
この一言ですべてが決まった。
資本主義者たちに技術戦争・経済戦争で敗北したことは残念である。
しかし分かたれた祖国と今の祖国は繁栄しつつあり、着実に未来へ前進している。
このうえは耐えがたきを耐え、子孫のために理想の芽を未来に残すべきだ。
数十年をかけて行われた意思統一の末、北日本政府は動き出す。
かくして、ベルリンの壁の上で人々が合唱する中で統一への胎動ははじまった。
頑なだった人々も、クレムリンから赤旗が下ろされる段におよびこれを容認。
反対する流れは滝川が全力で抑え込んだ。
一方で、無血開城を行ってはある程度舐められ、逆に全面戦争となれば恨まれることを再び国家のトップへたった嶋田(川宮)はよく知っていた。
だからこそ、真に共産主義の過激派である連中をひとまとめにし、あの「統一戦争」を演出してのけたのだ。
――こうした流れは、南の日本国政府とアメリカ合衆国政府においてすでに大半が知られており、国民も大まかな概略は知られている。
外から見れば、「正確な現状認識に基づいて未来を見据え営々と準備を続けた一派」である。
評価されない方がおかしい。
だからこそ、日本国政府は彼らを放っておかなかった。
手元で動かすには彼らはあまりに劇薬でありすぎたのだ。
しかし放っておくわけにもいかない。さまざまな意味で。
これ幸いとばかりに辻(滝川)たちは動き、政府直轄機関として「会合」をこの東京に成立させてしまった。
(もちろん政府側の監視要員もいるが)
「ま、まぁ…そのうち冷めるだろう。そうなれば、安心して隠居生活を送ることができる――」
今は川宮と呼ばれる嶋田は周囲で自由を謳歌している「お仲間」を見回した。
一部がギャルゲーの元祖をやりつつ伝説の木の下で号泣しており、また一部は夕方のアニメを見ている。
またあるものは特撮映画のスポンサーが誰になるかで激論を交わしていた。
「まさかこいつら、カルチャー全盛期の日本を堪能できないのがいやで統一を推進したんじゃ…」
なぜか、その場の全員が沈黙した。
――なお、このギャグのような光景は監視をしている側にとっては擬態としか思えないらしく日米両政府関係者の胃に多大な犠牲を強いることになっていることを付け加えておく。
最終更新:2024年12月30日 12:20