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富永 恭次 - wikipedia


冨永恭次(とみなが きょうじ、1892年(明治25年)1月2日 - 1960年(昭和35年)1月14日)は、日本の陸軍軍人,声優。最終階級は陸軍大将。

1.経歴
 医師・富永吉太郎の二男として長崎県で生まれる。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。陸軍経理学校生徒隊付などを経て、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業。なお、この頃から独り言を呟いたり、怪我をしてないのに腕に包帯を巻いたり、真夏なのに黒いマントを羽織高笑いするなどの奇天烈な行動をするようになったという。

 その後、昇進を重ね1928年少佐となる。同年12月に駐ソ連大使館付武官補佐官になり、ジュネーブ海軍軍縮会議全権の随員となる。この時、富永の奇怪な言動により各国の参加者たちは振り回され、それによりパラノイアと呼ばれるもその事務能力は一級のものであり、軍上層部は扱いに四苦八苦しながらも重宝したという。
 また、駐ソ連大使館付武官補佐官時代には、接触してきたソ連のスパイにでたらめな事を吹き込んだり、邪気眼の布教に努めたりもしたという。その為、一時期はソ連の諜報員の一部で眼帯や包帯を巻くのが流行ったという。

 1932年に中佐に昇進。参謀本部、近衛第2連隊等を歴任し1936年大佐に昇進。相変わらず言動が奇怪ながらも、その卓越した能力により軍主流派の中堅として名が知られるようになる。また、この時期に同士と共に邪気眼派と呼ばれる派閥を作り、”邪気眼”の発掘と布教に努めた。
 この頃の最大の成果は、陸軍教導学校の教師に幾人かを潜り込ませることに成功したことである。これにより、一時期の教導学校からは多数の邪気眼使いが輩出されることとなる。なお、その事態に気付いた軍上層部は原因である教師を更迭したが、その頃には下士官のみならず多くの兵士にまで邪気眼は浸透していたという。

 1939年少将に昇進。密かに準備されていたフィンランド派遣軍(遣欧軍)に富永は推挙されるも、実戦経験の無さや奇天烈な言動によるフィンランド側との連携の不足を恐れた軍上層部により却下される。富永は参謀本部勤務の時期もあったが概ね事務畑の人間であり、指揮官や参謀としてのキャリアは殆どなかったためとされる。
しかし、この時期から富永は冷遇され始めたのではないか、という説もある。

 1942年、ドイツと講和したイギリスはアメリカの意向に逆らうことが出来ずに、自国の為に奮闘した日本軍を自国の勢力圏から追放する。(イギリスの裏切り)遣欧軍の殆どは帰国したが、一部は新たに領土となったカナリア諸島のラ・パルマ島へと向かった。この活火山島に新たに軍管区が作られ、司令官として富永が抜擢される。日本の勢力圏から離れた孤立した僅か4島のこじんまりとした方面軍の司令官は、昇進し中将になったことを差し引いても、誰の目から見ても左遷と映ったという。その為、邪気眼派の求心力は一時殺がれ、一部からは「邪気眼派をつぶす為の策だ。」と囁かれたと言う。
 だが、富永はそんな状況にもめげずに指令官職を黙々とこなし、一方では不幸にも部下となってしまった者たちに布教し、邪気眼派を盛り返そうと努力した。

 1942年8月16日、ラ・パルマ島のケンブレビエハ火山が噴火。これを事前に察知した富永はすぐに全員に撤退命令を出した。この噴火は大西洋大津波と呼ばれる有史以来最悪の災害をもたらし、最終的に約2億人以上もの人命を奪った。
 富永はラ・パルマ島を脱出した後、イギリスを経由して帰国する。この時に、欧州各国の人間と接触した。一体何が起きたのか、何故全員無事で脱出できたのか、などと質問攻めにされたが、「俺は未来から来た人間でケンブレビエハ火山が噴火することを知っていた。」「これが世界が破滅する序章となるであろう。だが、俺がいる限りそれは起こり堪えない。」「世界に破滅を齎す魔王を倒す為に俺は仲間を見つけ出さなければならない。」等と答え、多くの人間を呆れさせた。また、ジュネーブ軍縮会議の頃に”パラノイア”と呼ばれていたのも富永の評価の低下を後押しし、各国はこんなんだから富永が左遷されただけだと納得した。また、何でこんな奴を首にしないのだと、帝国陸軍の上層部に疑問を持ったものも多かったという。

 帰国後、富永は昇進し陸軍大将となる。これは後に暗殺の口止めのための昇進であると噂が生まれることになる。
 富永は終戦して数年後に退役し以後は後進の育成や声優活動、また実らなかったものの執筆活動を行い余生を過ごした。

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2.暗殺疑惑
 後年、ケンブレビエハ火山噴火を日本人が事前に知っていたという噂が欧州各国で囁かれる様になった。この話が日本に入ってくると、富永がカナリア軍司令にしたのは火山の噴火で富永を亡き者にする為の軍上層部の陰謀だ、という暗殺説が囁かれることになった。特に当時邪気眼派にいた富永と直接面識のある佐官が、これらの噂をばら撒いたという。しかし、富永自身がその噂を否定し、自分から望んだと説得すると噂は消え去った。しかし、当時の軍上層部が富永のカナリア派遣を機に邪気眼派の弱体化を狙っていたのは確実で、暫く邪気眼派内は不安定な状態となる。


3.評価
 富永恭次の評価は両極端である。その事務能力から常勝将軍と呼ばれた東条英機らほどではないが、有能だったという者は多い。だが一方で、その奇天烈な言動で敵のみならず味方にも混乱や秩序の低下を齎したという意見も根強い。
 また、軍人としてではなく声優として日本アニメ界の発展に尽力し、ツンデレブームを巻き起こした事を評価するものもいる。

 だが、富永の一番の功績は”富永ノート”(T手稿)と呼ばれるネタ帳を書き溜めたことである。残念ながら、生存中に富永は評価を受けることができなかったが、死後になって発見されたこのノートは、以後のファンタジー小説やSF小説に新たな風を吹き込み、現代でも「ネタが尽きたらT手稿を読め。」とまで言われるほど両小説界で名を刻まれている。


4.MMJ
 富永とその有志らが設立した邪気眼派は、その後MMJ(もっともっと邪気眼を)と呼ばれる組織へと発展した。秘密政治結社MMJとよく誤解されるが、全くの別物である。(秘密政治結社MMJについてはこちら。)
 MMJは帝国陸軍と海軍が統合する際に、陸海の確執を取り払うのに尽力し、一時帝国総軍の鏡とされた時期もあった。しかし、徴兵された兵が帰郷した時に奇妙な言動により精神病や狐つきを疑われるなどの事例が頻発した為、軍上層部は教育や前線部隊などからMMJの排除を行った。


おわり

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最終更新:2023年01月07日 14:24