517 :石人:2013/10/29(火) 00:12:48
警告:今回私の文才の無さより非常に長くなってしまったので二つに分けてやります。

また、皇室ネタが大量に、若干の特定民族の描写もあります。
読むのが苦痛と感じたらただちに戻ってください。
では、始めます。

518 :石人:2013/10/29(火) 00:14:44

 日本において、皇室とは究極のタブーともいえる。
 しかし、国家とは切っても切れぬ関係であり下手につつけば核爆弾並みの危うさを持っていることも既にご存じのはずだ。
特に近代に入ってからの皇族の立ち位置というのはあまりにも複雑であり、現在でもそのあり方に対する議論は尽きない。

 憂鬱日本でもそれに苦悩する者、何とかしようと意見・行動する者、そしてそのとばっちりを受ける者が存在していた。


   提督たちの憂鬱 支援SS 皇族たちの在り方とその変革


 夢幻会メンバーには皇族も存在している。その筆頭であり纏め役であり、問題児でもあるのが伏見宮博恭王である。

 さて、憂鬱世界で皇族・華族に憑依した面々は何とかしてよく言えば伝統的、悪く言えば旧態依然とした慣習を打破しようとあがいていた。
特権と責務があまりにも割に合わなかったからだ。
逆行前の快適な生活と比べれば特権などいいものと感じることはできなかったし、流石に以前は皇室関係者
あるいは元皇族でしたといった人物は夢幻会の中に存在せず(いたらいたで大問題であるが)、
その立場になったからこそ散々な苦労を強いられ、改めて責任の重さを実感した者が多かった。
 それと同時にこれが皇室を蝕み、皇族を数多く殺してきたのではないかとも考えた。
 なにせ一挙手一投足が周囲に影響を与える上、皇族 ―特に天皇― は史実敗戦後にいわゆる『人間宣言』
を行ってからもを行ってからも絶大な敬意を持たれている。

 ましてや大日本帝国憲法下では 『神聖ニシテ侵スベカラズ』 の法律がある。
つまり一種の聖域であったのだ。言い換えれば必要とはいえ国家によって作られた法の牢獄である。
 だが、史実戦後の皇室をめぐる諸問題を知る夢幻会としては早目に改善すべき点は改めていかねば史実の二の舞が発生する可能性があると考え、
皇室改革にも乗り出すことになる。

 ……一部の意見では

「萌えも燃えも対等に盛り上がれる同志がいてこそ面白いんだろJK……」

と誰かが発言したらしいが、真相は闇の中である。

 しかし、明治時代は思うようには進まなかった。近代化といってもまだまだ江戸の気風が強く残っている時代。
そして夢幻会というのも明治の元勲でさえ未来知識が的中したからこそ彼らを信用し国家運営に協力したのだ。
明治天皇が自称未来から来た転生者を疑うのは至極当然であり、国家元首として判断を誤るわけにはいかなかった。
 もちろん取り入れるべき点は積極的に取り入れ西洋のものを参考に改めることもあったが、長年続いた伝統をすぐに変えるのはやはり難しく
皇室典範や慣例を根本から大きくは変えられぬまま崩御し、大正の世を迎える。

519 :石人:2013/10/29(火) 00:15:32

 しかしこの大正時代に後に 『皇室維新』 と呼ばれる出来事が起きるのだった。

 未来の医学・健康の知識を基に改められた生活と、夢幻会と元勲らの努力により史実以上に国情が安定していたことで
大正天皇の健康が維持されていた他、日々の負担の大幅軽減に成功。
それでも将来と万が一の体調を考え史実同様皇太子迪宮裕仁親王(昭和天皇)に摂政任命が考えられていた時のこと。

 1918年7月17日。明石元二郎大将指揮による閑院宮篤仁王率いる特殊部隊、ロシア皇帝一家救出作戦開始。
力及ばず皇帝ニコライ2世崩御するも皇帝末娘アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ皇女(以後アナスタシア皇女)の救出に成功せり。
 速やかに大陸を脱出、本国に帰還すべし。

 アナスタシア皇女が日本亡命に成功した。日本陸軍諜報部初期屈指の成果である。
これは後々まで日ソ関係の鍵となるが、一先ず置いておく。
シベリア出兵を最小限に留め(その分を欧州戦線にぶち込んだともとれるが)、深入りを防ぐために尼港事件も事前に準備と避難計画を立てていたことで
日本の外交失点は皆無で終わり他国と一緒に撤兵した。

 その分岐点は第一次大戦も終わり、問題は大有りだがソ連と国交を樹立しようと画策、交渉を始めた時である。

 調印条件の一つとしてソ連側からアナスタシア皇女の引き渡しがあった。
 ソ連はその誕生経緯からロマノフ王朝の忘れ形見を生かしておく訳にはいかず、未だ生きている事実が領内の白衛軍反乱分子の希望となっているのだ。
その旗頭をへし折らなければ安心できない。
またその遺産を入手しこれからの国内整備に使用するにはどうしても皇女の身柄が必要だった。
 日本側はこれに応じれば欧州各国の王室を敵に回すことになるので絶対に拒否していたのだがそのことを明確にするのはまだ出来なかった。

 一つは国民感情。
 終結して間もない欧州大戦で日露は同じ陣営で戦っている。しかし、まだ日露戦争の記憶も風化しきってはいない。
亡国、しかも辛うじて亡命できた皇女の境遇は日本人の判官贔屓の感情を煽るのに十分すぎたが、特に日露戦争の遺族にはまだ反発が強かった。
 10年と少しでロシア帝国に対する感情が正反対になりつつある方が異常とも言えよう。

 もう一つは宮中における彼女の待遇である。ニコライ2世の訪日時とはまるで訳が違う。
 一案として日本皇族との婚姻も考えられてはいたが、日本では海外から皇族も迎えたことも送りだした(※1)こともない。
 前例が無いことをやるのはいつも勇気が要る上、仮に誰かが婚姻して子供が生まれた場合どうするのか?どちらの国の皇位継承者になるのか等、
何もかも手探りに近い状態だった。

 これに対して夢幻会も焦りを覚えた。彼らとしては皇族の誰か(願わくば夢幻会の関係者)と結婚してロマノフ朝の財産を国内開発に投資してもらいたいと
漠然としか考えていない、いやそれ以上は考えることが難しい。

 戦前と戦後で皇室の価値観はあまりにも違う。戦後生まれの人間が多い転生者に戦前の皇室改革をやれと言われても普通は無茶である。
却って歪みも生む可能性もあった。こればかりは皇族転生者も下手に口を出せない。

 史実では泥沼式にシベリアに兵力増強をしたことで日ソ両国の国交樹立は遅れる。
だが、この世界ではアナスタシア皇女の身柄を巡り交渉が難航(※2)していた。

520 :石人:2013/10/29(火) 00:16:11

 このままでは政党政治家による政府批判の材料にもされかねず、最悪勅命の判断まで仰ぐところまで発展しそうになった時、事態は急速に進展する。

   大正天皇が直接動き出した。

『嵐の中親も帰る家も失くし、辛うじてたどり着いた非力な子供を外に放り出すのは人として非情なり』

『父、明治天皇の治世確かにロシア帝国は敵であった。しかし朕が即位した時、既に彼の国と我が国は敵ではなく友好国であった。
 友好国の皇女を助けるのは我が国の皇室の責務である』

『父が江戸と明治の激動の中、日本の基礎を作り上げたのなら、明治の世に生まれた朕は維新を果たしたこの世を、大日本帝国はこのような国だと、
 皆が海外の他国に胸を張り、誇りを持って言える国としていきたい。今回の件をその一歩とできないだろうか?』

 異例と記録されるほどにアナスタシア皇女保護に尽力し、彼女の身を擁護したのである。

 ソレは一国の頂点としては非常に甘い発言であったのかもしれない。思ったことをすぐに口に出すその性格は確かによろしくないのかもしれない。

 だが、幼少から父母と離れて育ち兄弟姉妹を次々と失った生涯を経て、近代日本史上初の一夫一婦制を実現した天皇は
人の縁の大切さを誰よりもよく知っていた(※3)。
 篤仁王とアナスタシア皇女婚姻では最もその慶事を祝福し、日本の皇室の在り方を世界に披露したのである。
その成果は1921年の皇太子欧州外遊で顕著に表れることになる。

 結婚報告からしばらく経ってもソ連からの引き渡し要求が続いたが、それを断固として撥ね退け(※4)、遂にはその要求を取り下げさせたまま、
様々な要因があるが日ソ国交樹立を行うところまで譲歩させたのである。陛下の威光を受けた外務省の底力が発揮されたともいえよう。
 また、それと同時に明治天皇と同じく皇室の徹底的な制度改革 ―特に婚姻・教育・養育制度― を行い、
奮起した皇族転生者や側近らと共に後々まで影響を与える貴重な先例を作り上げた。
 止めに1922年、ラジオ放送(※5)で玉音を放送。改めてアナスタシア皇女、亡命ロシア人の保護に身命を賭すことを宣言、国民への理解と協力を呼び掛けた。
この頃になると亡命ロシア人への反発も大分なくなってきており(ソ連の要求が露骨過ぎたのも一因)、当初は宮中でも抵抗が大きかった、
皇室へ全く新たな血が入ることにも容認の雰囲気が流れてきていた。
ロシア内戦時から亡命ロシア人を受け入れ続けてきた(※6)ことで一部不和や事件、陰謀があったものの(※7)やはり勅命の力は大きかった。
亡命した人たちもまた、日本を成長させる大きな原動力の一つとなっていく。

 玉音放送以降、少しずつ体力が落ち始めるも沖縄・台湾・海南島(※8)の巡幸を実施。
赤色テロの危険があるため樺太・カムチャツカは次代に託すことになった。
 行幸終了後、再び精力的に公務に励み、関東大震災発生時夢幻会の協力ありとはいえ国民の慰撫と被害の縮小に努め、帝都大開発を承認した。

 しかし、震災復興から一息ついた直後。
今までの負荷が堰を切ったように現れ容態が急変。第一次五ヵ年計画の全てを摂政に一任する。
 以後病床にありながら余裕あるときは少しでも天皇として公務と家族との生活に時間を割いてゆく。
 だが1926年。治療空しく奇しくも史実と同日同時刻、お隠れになられた。

521 :石人:2013/10/29(火) 00:16:54

 内戦と海外との戦で国家の存亡に立たされた明治時代と違い、ようやく列強と肩を並べ始め
近代国家として円熟してきた時期であり、昭和の激動のこともありどうしても地味で歴史的に重要視されないことが多い。
 だが、間違いなく日本の在り方を、その後につながる先鞭を作り上げ昭和の発展に繋がる基盤を用意した時代であった(※9)。

 何よりも、明治天皇が作り出した穴に一気に新風を吹き込ませ皇室を国民へ、世界へ大きく開いた存在として変えたのは
間違いなく大正天皇が初の試みで、同時に功績であるといえよう。

 この時から、よく言えばより自由で活発な、悪く言えば無鉄砲でフリーダムなことが許され始め、少しずつだが皇族、ひいては華族を
中心に過度な伝統を今一度よく改めてみて、時代に合った新しい試みもどんどん試してみようとする動きが広まっていくようになる。



   そして忘れてはならないことがある。

 今回のことで最も得をしたのは誰であろうか?
 答えは……後に 『フシミン』 『コノミン』 のペンネームで同人活動を始めた人たちと述べれば誰でもわかるだろう。
結果だけ見ればほぼ合法的に趣味に打ち込める大義名分を確保し、裏の目標を達成したのだから当然だ。
 だが因果は巡るものである。
人生を楽しんでいる間はいいが、後にその反動が強烈な形で跳ね返ってくるとはこのとき誰も気づくはずが無かった。

522 :石人:2013/10/29(火) 00:17:32

  【余談 兼 解説】

   (※1) 史実では梨本宮方子女王が 『内鮮一体』 を目的として大韓帝国皇太子李垠に嫁いだが
      憂鬱世界でそれをやる筋合いはなかったので行われていない。
       また、桓武天皇の生母高野新笠は元をたどれば百済の武寧王に繋がるらしいが、彼女の出身一族は6代前(約100年前)に日本に帰化している
      ことから実際はどう解釈するかは分からない。

        荒れる話題になるのでここで切る。

   (※2) この時外相石井菊次郎とソ連外務人民委員ゲオルギー・チチェーリンは幾度となく激しい論戦を繰り広げている。
      その経験から石井は引退後次の世代の外交官(特に対ソ連用)を鍛えることに腐心する。
       色々原因はあったが一時期軽視された外務省でもソ連だけにはうまく立ち回れていた一因とされている。

   (※3) 明治天皇は4人の側室との間に5男10女を設けているがその内4男6女は死産もしくは生後2年以内に薨去している。
      昭憲皇太后との間に子供はいない。
      また、大正天皇は慣習にのっとり里子に出され6歳までそこで育ち8歳で皇后の養子になる。
      この時初めて生母のことを聞いて衝撃を受けた逸話がある。
      そして、明治天皇自身公務を優先して大正天皇の養育にはあまり関与しなかった。
       この経緯により家族と接する機会が少なかったからこそ夫婦仲は良好で子煩悩な父親だったとされる。

   (※4) 「もし万が一ソ連と争うようなことになれば朕自ら近衛師団を率いて出征せねば」 と、最悪の事態を想定したとされている。

   (※5) 震災後少しでも情報発信、デマの防止用に関東・東海地方を中心に整備が進んでいる。
      実態は夢幻会の実益が伴う趣味が高じてだが、事前に予定されていた大規模な防災訓練と併せて二次被害の防止に貢献している。

   (※6) これはユダヤ民族に若干の不信を与えることになる。
      ロシア帝国はポグロム(ユダヤ虐殺)を行っており、ロシア革命の際ユダヤ系列の銀行は革命側に資金援助しているほか、
      当時の革命指導者の半数はユダヤ系であった。
       言ってみればロシア革命は共産革命以外にもユダヤ民族によるツァーリズム打倒運動でもあった。

   (※7) 当然ながら、亡命ロシア人の中にコミュニストも紛れており、彼らが日本に本場の共産主義を吹き込んだ。
      以後、国内の内務省・情報局と共産シンパの水面下の争いが長年にわたり繰り広げられる。
       大正時代、アナスタシア皇女と大正天皇、皇太子裕仁親王暗殺計画が存在したが、未然に防がれ徹底的な取り締まりを受けた。
      この時辣腕を振るったのが内務省で中堅幹部をしていた阿部信行。
      この功績でアカ狩りの専門家として彼は名をあげ、その存在感を示していく。

       話題が外れるが、関東大震災の後から尾崎秀実に共産シンパとは違う謎の組織が接触を始める。だがその正体は不明である。

   (※8) 憂鬱世界の大正天皇は生涯、外遊することはなかった。その代わり皇太子時代、何度も沖縄に足を運んでいる。

   (※9) 後に明治天皇が臣民を導く絶対的な指導者ならば、大正天皇は臣民を全力で守り抜く父親、
      昭和天皇は臣民と共に歩む最も尊敬すべき隣人  と例えられている。

523 :石人:2013/10/29(火) 00:18:24

  【あとがき】

    とりあえず前半部分は以上です。ホント無駄に長くなってしまい申し訳ありません。
   今回書きたいように書いてるのでまあ矛盾とかツッコミどころとかいろいろひどいと思います。
   テツ様とひゅうが様からお借りした設定は後日やる後半部分のほうに主に出していきます。

    正直大正デモクラシーとか満州・韓国問題が存在してないから大正時代本編でもあっさり終わっているのでなんかないかと漁っていたら
   こんな問題有ったじゃん、と。

    陛下の口調?知らないので適当に作っただけです。
    後以前議論になった覚えありますが大正天皇は皇太子時代、病気がちだったのが健康になったそうです。外でノビノビやっていた方が
   健康だったとか。
    ところが即位してからまた悪化したそうな。原因は外に気軽に行きにくくなったこと、父親が偉大すぎたことも一因と言われています。
   そして元老の方々は明治天皇を基準に考えてしまいそこから溝ができてしまったとも言われています。
   つまり、偉大すぎる初代、初代と苦楽を共にした重臣の両方から重圧を受ける2代目…よくありそうな光景だなあ。
    結構自由奔放だったようで、その辺りが子供たちにも引き継がれた部分が大きかったのではないのでしょうか。

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最終更新:2013年11月04日 15:45