524 :石人:2013/10/29(火) 00:19:53


   提督たちの憂鬱 支援SS 皇族たちの在り方 臣民たちの憂鬱


    1939年 某日 某所

「それでだね本庄君。この顔触れを見ればいったい誰に関する話題か理解してもらえたと思う。
 もしかしたら君も既に聞いているかもしれない。そのうえで今回こうして呼んだのは他でもない、
 君にしかできない頼みごとがあるのだが……」

「……(閑院宮殿下父子に宮様、近衛さん。そして鬼貫太郎閣下に松平さん、牧野さんかよ。どう考えても陛下関連なの丸解りだけどさ、
 頼みごとってなんだよ。無理だろ断れる訳ないじゃん)」

 本庄繁の目の前にいる7人。全員がこの帝国の重鎮であり、そのうち3人は皇族、陸海軍の長老。1人は元老大久保利通の息子で
宮中を仕事場とする大先輩。残る3人は華族の頂点と次世代皇族の一端となる優秀な後継者。
そして松平容保の子息にして現皇弟の岳父。
 還暦を過ぎた本庄だが、階級や立場等を考えるとこの場では一番の下っ端である。
普通ならいくら天皇陛下でも本庄も含めたこの面子に余計な面倒は掛けさせないはずである。

   そう、普通なら。

「お言葉ですが殿下。何故私なのでしょうか?皆さまの頼み事となれば陛下が絡んだ事態と推察出来ますし、少しですが私の所にも情報が
 入っております。
 しかし、ここにいる方々で解決できぬことを私に申されましても正直時間の無駄だと思いますが」

 その質問に、本庄以外の皆が慌てる。 まるで誰かが言ってくれるのを期待しているかのように。

 ここで最年長の牧野が口を開く。

「君も侍従武官長、既に情報が伝わっているとは思いますが改めて。
 ―今回の遣欧軍に秩父宮、高松宮両親王殿下(※1)を筆頭に現役で軍籍を持つ皇族の方々が従軍を希望していると陛下に嘆願が届きました」

「やはり、それですか」

 別にそれに関しては何の問題もない。
皇族身位令にも定められた通り、皇族は基本軍属に就かなければならない。
『ノブレス・オブリージュ』 の元、高貴なる者の責務として従軍するのが通例であった。
 史実でも太平洋戦争で何人か戦死者を出している。
決して飾りものではない人物が多いのだ。

525 :石人:2013/10/29(火) 00:20:30

「確かに私もそのことは聞いています。ですが上海事変の際篤仁殿下と武彦殿下(※2)も出陣なされたはずです。
 もちろん欧州大戦のイギリス貴族子弟のようになっていただくのは御免ですが欧州との王室外交や兵の士気の鼓舞を考えれば
 そこまで悪くお考えになる必要もないかと考えますがその辺りはどうなるのですか?」

 許可はともかく嘆願そのものは良いと答える本庄に伏見宮が答える。

「本庄君の言っていることは間違っていない。ただ事情と時期が悪すぎる。上海はまだしも地球の裏側に殿下たちを派遣して
 万一の事態が起きたらクーデター(※3)が起きるぞ」

 伏見宮の言っていることもまた正しい。戦艦が当時の戦略兵器であり、伝家の宝刀なら王族・皇族直々の出兵は国によっては
ジョーカー以上のナニカである。
他国の捕虜になって交渉材料にされるのはマズイ。特にソ連なら必ず事前に処刑する。

「ですがその懸念を既に伝えたのであれば余計無駄では?」

「そこからだよ拗れたのは。 『軍人としては結構だが二人とも出征するのはならん。自身の立場を理解しろ』
 と陛下と皇太后陛下が問い詰められたところ、殿下お二人が
 『陸海双方で行かねば軍に確執が生まれる。まだ幼いが皇太子殿下もいるし最悪三笠宮殿下(※4)を託せば問題ない。何より、遠い異国で英霊になりかねない将兵に
何もしてやれないようでは我々がいる意味はない』
 と真っ向から揉めてしまってな。後から我々が仲裁に入って収まったもののその所為で皇太后陛下はともかくお三方がヘソを曲げてしまわれた。
 兄弟ゲンカと見れば微笑ましいが(※5)、立場が立場ゆえに、な……」

「……(う   わ   あ)」

 立場ある兄弟の不仲など、お家騒動、内乱フラグバリバリである。
源頼朝しかり、足利尊氏しかり、織田信長・伊達正宗しかり。
 むしろ壬申の乱を思い浮かべた者もいた。
眉唾モノだが2.26事件で決起将校が秩父宮親王を担ぐ計画が存在したらしいこともその危険性を増した。

 伏見宮が一息ついたところで篤仁が話を引き継ぐ。

「それで殿下たちと陛下の口論の最中、秩父宮殿下が一言漏らしたのですよ。
 『山口ならば、何とか抜け道を見つけてくれただろうに…』と。
 詳しく聞いてみたら、陸軍の山口一太郎。確か本庄さんの義息さんですよね?」

「おい!!   おい……」

 衝撃的な事実に立場もへったくれもなく本庄が叫ぶ。まさか意外なところから自分に火がつくとは思ってもみなかった。

「どうやら陸士在籍時代、色々と一緒にお遊びになられたようで……」

「あの野郎……」

526 :石人:2013/10/29(火) 00:21:50

 さて、ここで少々どうして今回のようになったのか少し説明させてもらう。

 嶋田が海軍大学校教官就任辺りから陸海軍の大規模な教育改革が始まっている。
その中で合同運動会や文化祭を企画し交流を深めようとしていたのは既知の話だろう。
また、国際戦略や政治学などの単位を増やしスポーツ活動を活発に行わせていたこともご存じのはずだ。
 この時点で、軍内部の対立というのは史実と比べ大分マシになっていた。

 また元勲と夢幻会、皇族・華族転生者の尽力と大正天皇の皇室制度改革で改革された皇室典範はまだ堅苦しいところは残るが
大幅に皇族に対する規制を緩和させた。

 これらの話を合わせると、軍に所属する皇族は比較的融通が利き、風通しが良い環境にいたことになる。
そして他ならぬ皇族転生者がその環境下で率先して羽目を外して趣味に没頭し、軍人の転生者(MMJメンバーも含む)と交流することで
その動きに続いてしまい、フリーダムな性格を形成する人物が数多く出てきてしまった。
多少の敬意や畏怖の念を向けられることに心残る点はあるがそれでも自由であることは非常に心地よいことであったのだ。
 特に武道よりスポーツを推奨していたのが響いていた。
史実でもスポーツ関係で国民に親しみを与えた皇族は数多い(※6)。

 そして再度述べることになるのだが軍隊はこの時宮中の煩わしさを忘れ趣味に没頭できる絶好の場所である。
別の意味で規律は厳しいが、より多くの人達と触れ合うことが出来た。

 当然、変わり者と周囲から見られる軍人に転生した人とも出会ってしまう。

 当時の山口もその一人であり、現代の一般人からの転生ということで皇室に馴染みがどうしてもよく感じれなかったからなのか

『皇族?確かに敬意は持ってるけどそういった方に関わるのはもっと上の立場の人で俺にはあまり関係ないだろ。
 それよりももっとカメラと機関車はよ』

の姿勢であったこと、周囲からもそんな変態と認識されていたことで逆に興味を持たれてしまった。

 この頃の陸士は数年間連続で皇族が入学して(※7)一種のサークル団体を作り上げていた他、
その内の一人芳麿王は山口と同期かつ彼の父、山階宮菊麿王の趣味が写真撮影だったで話が合い、たちまち意気投合した。
こうなると身分を越えた友人関係も友人関係も自然と構築されていく。
 その後も山口は都内の部隊に配属されたことにより交流が続いた。
またその趣味柄当時のカメラマンと親しく情報交換していたことで 帝都の全景、隠れスポット、近道
 ―つまり知る人ぞ知る穴場スポットや抜け道―  を知りつくしており、
時間があればほぼ極秘で彼らを招待していた。
普通ならここで皇族付武官の待ったがかかるが規制緩和(※8)があったこと、彼らの主がお忍びを希望したこと、そして山口の屁理屈
が効いたのか条件付きで許可(※9)が出ていた。

527 :石人:2013/10/29(火) 00:22:29

 その反動が今、本庄の全身に大きな負荷をかけていた。

 以上、無駄に長い説明を終わる。

 いわば今回の従軍嘆願は義務であると共に自由の場を与えてくれる軍への奉公、その生まれが前線へ出ることを妨げてきたこと
への悔しさ、それらが入り混じったものだった。

「秩父宮殿下は特に昨年欧州に行ったことからその思い入れが強い(※10)。君が最後の望みだ、何とか、頼む」

「高松宮殿下は宮様、博信殿下(※11)、僕がもう一回説得するから本庄、お前ら親子でそっちはやれ」

「いやいやいや、無茶です。せめて松平さんと載仁殿下と篤仁殿下にも手伝っていただかないと」

「私が入れば公私混同になってしまいます。親子の縁は今回通用しません。春仁殿下(※12)も向こう側な以上、
 父兄より今はご学友の方に耳を傾けるでしょう。こう言うのは心苦しいのですが……頑張ってください」

「」

 冗談じゃない、俺は家に帰るぞと現実逃避する本庄の退路が次々と断たれていく。
そして止めの一撃を侍従長・鈴木貫太郎が放つ。

「もし失敗しても僕と君が辞めて最悪腹でも切ればなんとかなるでしょ。もう歳だし、いい加減後任に譲らねばと考えていたからちょうどいいかな」

「何言ってるんですか閣下」

 鈴木の言葉に困惑しながらも、本庄は思う。

(腹を切るってなんか史実通りになりそうだな……。まあそれは無事説得が終わってから考えよう。後任は……畑君(畑俊六)でいいな。
 うん、それでいいや。あっはっはっは。  ……はぁ。)

 数日後、とある酒場にて長年の盟友であり転生者の同志である真崎甚三郎と自棄酒をしている所が目撃されている。

528 :石人:2013/10/29(火) 00:23:20

 さて、結果を言えば説得は成功した。
流石に拙いと感じていた山口を引っ張り出したことが決め手になった。
結果遣欧、いや遣芬軍に皇族の従軍は見送られたがしばらく皇族間 ―特に昭和天皇兄弟間― にしこりが残った。

 転機は大戦真っ只中の1940年6月。秩父宮雍仁親王が肺結核に罹り一時入院。
幸い史実と違いスプレプトマイシンを始め抗生物質が開発済みなこと、十分な医療体制が整っていたことで後遺症もなく回復。
 この時兄弟全員が秩父宮を見舞いに行ったことでようやく和解した(※13)。

 その後対中・対米関係が悪化し始め戦争が不可避の状況になると再び同じような騒動が起こるのだがまあここは置いておこう。

 ちなみに説得成功後、今回の騒動の責任を取る形で鈴木と本庄が辞職を希望するも、侍従長と侍従武官長が同時に辞めるのは前代未聞として
慰留を要請、結果高齢と心身を考え鈴木のみ辞職、本庄は残留となった。
 その後本庄はコロコロと変わる世界情勢に振り回され苦労と疲労を重ねながら、
己の職務を果たし定年を迎えるも急速な日本の孤立化で再び状況が一転。
夢幻会、そして会合は少しでも軍の混乱を防ぐべく(※14)、戦時下を理由に続投を『奏上』、昭和天皇もそれを望み本庄に残留を『依頼』。
 『特例』によりサンタモニカ会談で新たな戦後体制ができるまで何とか勤めあげ、すぐに退役した。
 何かと義息のことで悩まされることが多かったが後にその功績から

 『大侍従長』 鈴木貫太郎と対称で 『大侍従武官長』 と呼ばれた本庄繁の軍歴は終わったのであった。

529 :石人:2013/10/29(火) 00:23:58

  【余談 兼 解説】

   (※1) 秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王。大正天皇第二・第三皇子にして昭和天皇長弟、次弟。
      大日本帝国初の皇弟。それぞれ陸軍、海軍に所属していた。
       昭和天皇と異なり、スポーツを好んだことで知られる。

   (※2) 山階宮武彦王。 山階宮菊麿王第一王子。通称空の宮様。
      史実では関東大震災で懐妊中の妻が薨去し精神を病むも憂鬱世界では防災訓練により生存。
      結果、徳川好敏の後を継ぎ空を目指す。
       第一次上海事変に従軍、日本軍初の空戦撃墜の栄誉を手に入れる。

   (※3) 海軍はまだ戦闘機不要論の実践演習の記憶が生々しく、陸軍もちょうど永田や東条による大掃除の最中であった。

   (※4) 三笠宮崇仁親王。大正天皇第四皇子、昭和天皇末弟。
      史実ではこの時期陸軍騎兵学校に在籍、翌年陸軍大学校入学予定。

         ちなみに今なおご存命。

   (※5) 昭和天皇と三親王の仲は非常によかったとされる。特に昭和天皇、秩父宮、高松宮は年齢が近く幼少期一緒に育っている。

   (※6) 朝香宮鳩彦王 通称ゴルフの宮様
       賀陽宮恒憲王 通称野球の宮様
       秩父宮雍仁親王、竹田宮恒徳王 通称スポーツの宮様

   (※7) 陸士32期:賀陽宮恒憲王    陸士33期:(山階宮)芳麿王
       陸士34期:秩父宮雍仁親王   陸士35期:(久邇宮)邦久王   
       陸士36期:(閑院宮)春仁王    ちなみに山口一太郎、陸士33期。色々とどんぴしゃりである。

   (※8) 夢幻会重鎮の伏見宮は従兵を同人誌作成のアシスタントとして使っていた疑惑がある。
      後にその役割は嶋田に移るが。

   (※9) この時昭和天皇が欧州を歴訪していたのが羨ましかったのだろうと推測されている。

   (※10) 1925年オックスフォード大学に留学、1937年昭和天皇の名代としてジョージ6世の即位式に出席、欧州歴訪をしている。
       史実ならドイツにも訪問するのだがこの世界ではヒトラーが 『我が闘争』 で日本人をボロクソに扱き下ろし、
       最悪過激派ナチ党員に襲撃される恐れがあるので見送られている。
       その代わり帰路で再びイギリスに立ち寄り、ジョージ6世とテニスをしている。
        その理由はまだ日英同盟が継続中だったので歓迎されていたこともあるが、先代国王にして兄のエドワード8世がいわゆる『王冠を賭けた恋』
       で退位。国王としての教育も不十分なまま戦争の緊張も続き重圧に苦しんでいたところ、
       皇太子が生まれるまでほぼ同じ立場だった秩父宮が親身に相談に乗り歳の離れた友人関係となって状況が一変。
        両者とも性格はともかくスポーツ(特にテニス)好きであり日本の皇室も大分融通が利くようになったおかげで急遽実現した。

   (※11) 華頂宮博信王。伏見宮博恭王第三皇子、海兵53期。 高松宮は海兵52期なので一期下の後輩になる。

   (※12) (閑院宮)春仁王。閑院宮載仁親王第二王子。史実で同性愛疑惑があったが兄の 『教育』 により野球狂と化した。
       今回の騒動でも
       『我がまま言ってんじゃねえ、大人しくしてろや!(意訳)』
       『親父と兄貴が戦争行ったのに俺だけ行かないのは変だろ、あと我がままなら兄貴が野球広めたのは違うのかよ!(意訳)』
       と壮絶な口論をしている。

   (※13) もし仮に戦時下の欧州で結核を発症していたら助かる可能性は少なかったかもしれない。
       ちなみに史実では昭和天皇は前例が無いよいうことで見舞いも葬儀も行けなかった。

   (※14) せっかく反主流派を排除したのに天皇に近い位置の役職に入り込められたら情報伝達に支障をきたす危険があった。

530 :石人:2013/10/29(火) 00:24:29

  【あとがき】

    後半も以上です。いや本当に無駄に長いしすいませんでした。
   途中から自分でも何書いてるかよく分からなくなってます。読むのが苦痛だったかもしれないです。
   なんかもう疲れたんで終わりにします。


    最後にテツ様、ひゅうが様。許可を貰っておきながらろくに話に絡ませられず申し訳ございませんm(_ _)m ゴメンナサイ

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最終更新:2013年11月04日 15:51