18 :鎖国前のオセアニア:2013/11/03(日) 17:44:39
オセアニア暗躍の歴史みたいな物と勢力圏のお話。
嶋田さんたち不在。
19 :鎖国前のオセアニア:2013/11/03(日) 17:46:13
鎖国前のオセアニア
合衆国オセアニア。
遙かな昔、この世界に幾つか存在していたとされる古代文明勢力の一つが現在の日本やブリタニアの地で栄えていた勢力との争いに敗れた後に、流れ着いた豪州で起こしたと伝えられている、南太平洋に存在する侵略性の高い覇権主義国家。
昔から割と閉鎖的な国ではあったのだが、鎖国体制に入る150年前より以前は、この国もそれなりに海外への進出を行っていた。
欧州・
アジアの列強が海外に進出していくなか、国内の開発に勤しんでいた当時のオセアニアは、日本やイングランドに出遅れながらも1700年代後半の産業革命を機に西方への進出を企図していた。
本音は近隣である東南アジア――北への浸透と拡大を図りたかったが、当時既に東洋の列強国、日本と中華連邦がその支配領域を拡大している最中であった為、
北へ向かい両国とぶつかるのは得策ではないと判断した結果、やむなく自国領ココス諸島より更に西への進出を試みたのである。
ただ、進出しようと計画しても経由地を確保していない以上インド洋へと乗り出すのは危険だ。
まだ本格的な蒸気軍艦が登場していない時代であり、下手な航海や冒険は命が幾つあっても足りない無謀な行為。その為、経由地が必要となった彼らはインドに接触を試みた。
中華連邦の体制というのは、所謂絶対王制のように一人の王が全てを決める独裁的な国家とは違って緩やかであり、国家全体との方向性が大きく異なるようなことさえ無ければ、基本的には各軍区事に独自に動けるというものだ。
言い換えれば中華中央の指示をある程度までならはね除けられるので、接触してきたオセアニアに言い値で条件を呑ませ、同国船の経由地としての立ち寄り許可を出す事も可能であった。
インド側の条件を呑んだオセアニアは、当然ながら中華と事を構えるつもりはないという意思表示として、中華中央にも挨拶に窺い、相応の贈り物をして時の天子や大宦官の御機嫌伺いもしていた。
曲がりなりにも大国であるというのに誇りは無いのかという程の低姿勢であったが、彼らは利用できる物は全て利用すればいいといった具合に割り切った考え方を持っている。
所詮外交とはそういう物。下手に出るという行為が利用できるのならば頭を下げるなど容易い事。
但し、自分たちの獲物が中華連邦であると定めた瞬間、彼らは隠していたその刃を平然と振り下ろすであろうが。
それは後々、仮想敵国として静かな対立関係となる事からも良くわかる。元より自力は中華と遜色ない物を持っているのだから。
国と国の関係はある種狸の化かし合いに似ていた。
謙っているからと言って忠誠を誓っているのでも無ければ、信頼を置いているという訳でもない。
20 :鎖国前のオセアニア:2013/11/03(日) 17:46:45
『国家間には真の友情など無く、食うか食われるかである』
それは今も昔も変わらず、油断したその瞬間に喉元を食いちぎられる。国と国との関係とはそういうものだ。
この絶対的とも言える法則に一石を投じたのが、後の大日本帝国と神聖ブリタニア帝国、そして欧州王侯貴族の連盟であるユーロブリタニアなのだが、それはまた別のお話。
こうしてオセアニアがインドという経由地を確保した同1700年代後半。
フランスに端を発した民主共和主義革命の動乱の中、彼らは帰属未定地であったチャゴス諸島の領有を宣言し南下、モーリシャスへと達したところで、同地の統治が不安定になっている事に目を付けた。
当時モーリシャスを支配していたのはフランス。その本国が革命の嵐で揺れに揺れているのだから、遠隔地……それも絶海の島嶼地域の統治など上手くいくはずもなく、現地が不安定な情勢になるのは考えるまでもない事。
無論、この状況を利用しないというオセアニアではない。
混乱のない列強(日本・中華)の勢力圏に手を出すのは危険だが、混乱の坩堝にある欧州列強の勢力圏なら話は別だとばかりに、早速現地へと送った使節に同地の詳細な状況を調査させたオセアニア政府は、
1790年5月、同地制圧を目論見36門帆走フリゲート6隻を送り込んだ。
フランス革命(民主共和主義革命)の最中、想像だにしていなかった遠隔地に対する東方からの侵略に、本国からの支援は絶望的であると判断したフランス植民地モーリシャス守備隊は、
同地に配備されていた28門帆走フリゲート4隻と、同32門2隻の計6隻でこれを迎え撃った。
しかし、砲の数でも船の性能でも劣っていたモーリシャス守備隊は、比較劣勢を覆す事無く28門フリゲート2隻が撃沈、1隻大破、1隻拿捕。
32門フリゲート1隻撃沈、1隻中破のち拿捕されるという大敗を喫し敗北。一方でオセアニア側の損失は2隻のみと、未だ4隻が健在。
海上戦力の喪失と、本国の援軍も望めず孤立したモーリシャス植民地政府は、翌1791年初頭に降伏。同年10月にはモーリシャスの領有を宣言し勢いに乗ったオセアニアは、
無事であった4隻と拿捕した2隻のフリゲートに加え、更に本国から応援として36門フリゲート5隻と補給のための弾薬を積んだ船団を派遣して北方のフランス領セーシェルを攻め落とし、マダガスカルへと手を掛けた。
かなり矢継ぎ早の無茶な拡大政策であったが、国内の開発と軍備増強を優先した結果、海外進出の出遅れと引き替えにしてある程度の無理が出来る体力が備わっていたのである。
それでも本国から海を隔てた遠隔地、離れすぎている欧州に比べればまだましな方ではあったが、決して楽が出来るような距離ではない。故に欧州で革命戦争が続いている間に自国勢力圏を広げておく必要があった。
21 :鎖国前のオセアニア:2013/11/03(日) 17:47:54
1798年、マダガスカル広域を支配するメリナ王国と接触したオセアニアは、メリナによるマダガスカル統一の支援と、既にマダガスカル統治権の主張をしていたフランスを完全排除する見返りに、貴国と友好条約を結びたいと申し出た。
現地での商行為を認めてくれるだけでいいという使節に対し、当初メリナ王アンドゥリアナムプイニメリナは警戒心を抱いていた。費用対効果を考えれば誰でも分かる事であったが見返りが少な過ぎるのだ。
普通、このような提案をされたら手放しで喜ぶか、それとも何か裏があるのかと疑いを持つというもの。
メリナ王が後者の人間であったのは、流石マダガスカルの広い範囲を支配下に収めただけの名君であった言えよう。
暗愚な王であったならば、広いこの島の過半を支配するのは不可能であったと思われる。
だが、そんな慎重な王は、思わぬ処から出された意見に、提案拒否という選択肢を潰されてしまった。
アンドゥリアナムプイニメリナ王の息子であるラダマに、オセアニアの申し出を受け入れるべきであると主張されたのだ。
息子ラダマは先進的な考えの持ち主であり、国民の教育水準を引き上げてオセアニアの知識と技術を取り入れなければ、早晩メリナは欧州の革命勢力によって植民地化されてしまうと進言してきた。
如何に我が子と言えど自らの方針に口出しすることは揺るさん。半人前のお前に政治の何が分かる。本来ならそう一笑に付して終わるはずが、彼には息子の意見を無碍には出来ない理由があったのだ。
マダガスカルの過半をメリナが支配できたのは、王の手腕もさることながら、息子の知謀のお陰でもあった。
彼が提案する歴代のメリナが持ち得なかった先進的な発想に助けられてきたからこそ、マダガスカル統一が現実性を帯びてきていたのだ。
そんな聡明な愛息子の意見と、そして欧州革命勢力の危険性を訴えるオセアニア使節に、メリナ王は「貴国の誠意を見せて貰おう」と返答せざるを得なくなる。
無碍に追い返すのは簡単だ。だが、あの希代の知謀の持ち主であるラダマが友好関係を結ぶべきと主張し、ラダマ・オセアニア使節の両者から、欧州列強と革命勢力が如何に危険であるかと連日連夜言い聞かされたメリナ王は。
(一度試してみてから結論を出してもよいか)
そう考え、オセアニアと協力してマダガスカルのメリナ王国による統一と、欧州列強革命勢力の排除を目指す事となった。
結果として、この選択は間違いではなかった。
マダガスカルはメリナの名の下に統一され、援助を申し出たオセアニアからもたらされる欧州列強と遜色のない技術と教育により、王国は年を追うごとにその力を増していく。
“メリナの未来は明るい”
誰もがそう思い、メリナを強国に導いた王と、その切っ掛けを与えてくれたオセアニアに感謝した。
この間、友好条約から同盟へと段階を追って発展してきた両国の関係は、メリナの地にオセアニアの海軍基地や造船所が建設される程の蜜月関係に入っていく。
但し、それは未来に於いて太平洋を二分する大国が築き上げた本物の友情から来る物では無い、偽りの蜜月関係。
気付いたその時には最早手遅れとなってしまったメリナ王国滅亡の序章であった……。
22 :鎖国前のオセアニア:2013/11/03(日) 17:48:31
1812年欧州革命の混乱から抜け出つつあるとみたオセアニア、欧州植民地への侵攻を断念。
1813年オセアニア、コモロ諸島制圧・併合。
1817年オセアニア・メリナ、オマーン帝国影響下にあったタンザニア・ケニア・ソマリアに相次いで進出。
1822年タンザニア・ケニア・ソマリアに影響力を持っていたオマーン帝国と衝突(東アフリカ戦争)
1829年タンザニア・ケニア・ソマリアからオマーン帝国を排除。
1846年オセアニア・メリナ、アフリカ東部沿岸地域の共同統治宣言。
未開の蛮人だと見ていたマダガスカルが遥か東方にある大国オセアニアと手を組み、欧州影響圏ではなかった当時のアフリカ東部沿岸地域を勢力圏に取り込んでいく様を見ていた欧州革命勢力は、
この海の向こうからやってきた新たな脅威を前に手を拱いていてはならないと、個々の自治州が持つアフリカの植民地、また未だ植民地として組み込んでいなかった地域への武力侵攻・弾圧を積極的に進め、
1860年アフリカ大陸は東海岸沿岸部を合衆国オセアニアが。その他の全域――大陸の凡そ90%が欧州勢力圏へと分割されてしまうのであった。
(欧州勢力は、元々自国領であり革命の混乱期に奪い取られたセーシェル・モーリシャスについて最早奪還は不可能と判断し、オセアニアの支配権を認める)
無論のこと、この間に欧州革命勢力と合衆国オセアニアは数回に渡りアフリカの大地でぶつかっていたが、東から来た蛮族だとばかりに考えていた相手が自分たちに勝るとも劣らない銃やフリゲートを保有し、
独自の進化を遂げてきた文明国であったと知り、また幾度もの敗北を重ねた事と、革命後の国内発展にも尽力せざるを得ないという事情もあり、結果としてアフリカ圏の欧州による独占はできぬままに膠着状態を迎えたのであった。
一方、自国の勢力圏を一定範囲で確保し、欧州と一進一退の攻防を繰り広げてきたオセアニアであったが、1868年、突如アフリカ勢力圏を現地勢力に任せて鎖国するという、到底理解できない行動に出る。
(これにはチャンスと歓喜した欧州勢力であったが、オセアニアの東アフリカ派遣軍がメリナを完全に拠点として根付いたと知るや、やはり多くの犠牲が出ることが考えられる上、距離的に補給が難しく手を出せずじまい)
中華連邦インド軍区に得ていた拠点も全て引き払つつ、メリナ王国にのみアフリカ勢力圏を防衛可能な戦力を残し、メリナの工業化を完遂させてから去るという奇妙な方針転換もさることながら、3年後の1871年にはもう一つ大きな出来事が起こった。
オセアニアがアフリカ侵攻の拠点としていたメリナで政変が起き、王制が倒れたのだ。
それも王制を打倒したのが愛国心溢れる時の国防大臣だったというから不可解としか言いようがない。
新たに首班となった国防相は、合衆国オセアニア・マダガスカル自治政府首班を名乗り、合衆国の一部になるという亡国への道を選ぶ。そして、これに反対する国民や政治家を次々に粛正し、恐怖政治を敷いていった。
一方、大陸でもオセアニア・メリナ占領地であった地域が独立宣言を行っていた。
(タンザニア・ケニア・ソマリアの3州で構成される統一国家=合衆国東アフリカ)
しかし、その実態は傀儡国家としてであり、独立した大陸の旧占領地が依然オセアニア勢力圏であることに変わりはない。
事実、メリナに駐留しているオセアニア軍と、現在は合衆国オセアニア・マダガスカル方面軍となった旧メリナ王国軍革命派が大陸の東アフリカと轡を並べて防衛に辺り、欧州勢力圏に対し目を光らせている。
それは、例え鎖国し、自国内に引き籠もったとしても、アフリカの勢力圏に手を出せば全面戦争となる事も侍さないという無言のメッセージであり、メリナや合衆国東アフリカに駐留するオセアニア軍の戦力も合わせて欧州への圧力となっていた。
1880年合衆国東アフリカ、マダガスカル自治州政府軍と共に弱体化したオマーンへ侵攻。
1889年合衆国東アフリカ、マダガスカル自治州政府軍、オマーン帝国よりイエメン地方を割譲させ講和。
1892年イエメン民主共和国独立。合衆国東アフリカの影響下へ。
こうして約100年の間陰謀を巡らせ暗躍した合衆国オセアニアは、これより永の鎖国体制に入り、アフリカの窓口であるマダガスカル自治州を残して歴史の表舞台から姿を消すことになる。
そして1940年8月8日、南太平洋にて再び猛威を振るい舞台上へと帰ってきた彼らに鉄槌が下るのは、1995年の春のことであった……。
23 :鎖国前のオセアニア:2013/11/03(日) 17:50:28
南アフリカケープタウンから出港する一隻の船。南ブリタニアへと渡るこの船の行き先は近年独立したアラウカニア=パタゴニア王国。
その貨物室に密航者と思われる襤褸を纏った一人の少女が縮こまっていた。煤と泥で随分と汚れていたが、明らかにアジア系の血を引く整った顔立ちをしている。
彼女は正体を見た。
協力者、友人、恩人、メリナを強国に導いてくれたと思っていた者達の正体を。
妙な思想を世に流布してメリナの民を煽動していった彼らの素顔を。
煽動された人々や革命軍は王宮へと雪崩れ込み、破壊の限りを尽くしていった。
父が殺された。
母が殺された。
弟も妹も家臣達もみんな殺された。
メリナは決して奴らを招き入れてはならなかったのだ。
弱いままでも平和な国で有り続けた方がよかった。
そうすれば自由も国の名も奪われることはなかったというのに……。
今は抵抗する術を持たず、親しい人々の助けを借りて逃げることしかできない。
その者たちもまた逃亡の幇助、反動分子として処刑されているはず。
悔しいっ! 一矢報いたい……っ! だが……。抗う術のない今の自分では、ただの無駄死にとなるのは目に見えている。
死ぬことは怖くない。
家族の惨たらしい死を目にしたから。
母、弟、妹、そして私の命だけはと縋る父の目の前でまず妹の首が跳ねられた。
泣き叫ぶ母と弟と私を尻目に次は父が……。その次に母と弟が殺された。
そして最後に残った私だけが助かった。
容姿が良い、若い、それだけを理由に慰み者として生かしておいてやろうという大臣は私を牢獄に閉じ込めたが、昔世話係だった侍従長の手引きでこうして生きながらえている。
最早“死”など恐るるに足りぬ。
だが。
自分を逃がしてくれた人々の想いを無駄にはできない……。
だからこそ今は逃げる。
だが……。
だがいつの日か必ず……。
憎しみの炎を宿す瞳が薄暗い室内に爛々とした輝きを放つ。
その瞳の持ち主は後に神聖ブリタニア帝国へと渡り、祖国奪還を決意して欧州貴族連盟ユーロブリタニアの門を叩くことになるのだが。
その、姓に【メリナ】の名を持つ彼女の子孫が、いつの日か祖国奪還を果たすことができたのか。
それは誰にも分からない……。
24 :鎖国前のオセアニア:2013/11/03(日) 17:52:33
終わりです。
最後の少女のように、合衆国にこのような目にあわされた人もいるというお話です。
最終更新:2013年11月04日 17:37