327 :倉崎ネタの人:2013/11/17(日) 00:24:16

倉崎重蔵の憂鬱

1920年某日

倉崎重蔵は悩んでいた。
1919年に終結したWW1において、全金属フレームの機体を開発したことで航空産業の第一人者としての名声と世界トップの企業となった倉崎重工の創始者である彼を悩ませているのはカネのことである。なぜ、業績が好調の倉崎の人間がカネに悩んでいるのか?それは、彼が倉崎工業を倉崎重工と改名し社長業を息子に譲ったことによるものである。

大陸日本は前回(憂鬱)同様に戦争特需による好景気で沸いていた。現在の内閣は原内閣で夢幻会の意向もあり、教育やインフラ整備に力を入れていた。史実では財閥系を中心に行っていた積極政策も民間に還元するような形をとっていたために原内閣の支持率は高かった。(夢幻会の暗躍もあったが)
そんな状況下で倉崎重工に名前を変えた倉崎工業は社長を息子に変えることで経営体制を刷新していた。息子の潤一郎は経営者としての能力が高いこともあり、現在の状況下ではトラックや農業作業車、建設重機などの需要が高くなることから、自動車部門の増強を決定していた。また、インフラ整備により地方では地方都市と農村との間の交通手段としてバスなどの庶民の足となるものの需要が高くなると考えたためバスやタクシーなどの開発と量産を行うことも決めていた。
さらに、日露戦争・WW1での物資を消費が多いことから大量に前線に兵と物資をおくることができるという点で軍用の輸送トラックやWW1で登場した戦車の需要もあると考えトラックや戦車の開発も見据えていた。
(こちらは三菱が主導権を握ることが夢幻会で決定していたため、主に部品やエンジン・車体のライセンス生産等を考えていたが)
もちろん、大陸化したとはいえ島国であることは変わりないため、将来的には飛行機による輸送というものの需要もあると考えていたため飛行機の開発も行っていくことにはかわりはなかった。しかし、倉崎重蔵が勧めようとしていたジェットエンジン開発とそれにともなう機体開発の予算にはストップがかかってしまったのであった。

「父さん、ジェット機が将来の飛行機のエンジンとして有力なのはわかりますが、現在の状況では開発しても使い物にならないという結論がわが社の技術部と役員会での決定です。株主さんもジェット機は夢物語としているため、反対意見が強いのです。」
とのことで、既存のレシプロエンジンの改良と過給機などの技術を開発していくように言われてしまったのであった。
自分が開発現場に携わりたかったために作った倉崎設計はその名が示すとおりに、倉崎重工が株の45パーセントを握っており、潤一郎が1割、自分が1割残りの2割を社員に分配し、残りは出資銀行が持っている状況になっていた。そのため、倉崎の社長兼個人株主の意向には逆らえなかった。
しかし、その後の一言が倉崎重蔵の心に火をつけた。
「もし、開発するのなら自分でお金を工面してください。もちろん開発チームを作るにしてもレシプロ機や自動車開発の人員は割けないので、新たに人材を自分のカネで雇用してください。それなら会社も黙認するとのことです。」


328 :倉崎ネタの人:2013/11/17(日) 00:24:56

そこから、倉崎重三は金策に走り回った。自分の個人資産を抵当に入れても到底カネがたりない。しかも、銀行に融資を申し込んでもジェットエンジンの開発ではなかなか融資の許可がおりない。
夢幻会の人間に相談しても
「無理に決まっているだろJK」
とか
「今の時期にジェットエンジンとかカネをどぶに捨てるようなものです」
との言葉が帰ってきた。しまいには
「息子さんの言うとおりにレシプロ開発を行いなさい、あと10年したらジェットエンジンの開発もこちらでも支援していくから」
と言われてしまった。

確かに、現在の技術でいきなりジェットエンジンが開発できるとは重蔵は思っていない。しかし、いまから基礎技術や基礎理論、材料の研究などをしていけば前回よりも早くジェットエンジンが実用化できると彼は考えていた。しかし現実は無情であった。誰も倉崎の野望を理解しないため融資も技術者もあつめられず、彼は幾人かのジェット戦闘機愛好家ともいうべき転生者と自分の個人資産の範囲で細々と倉崎設計の片隅で研究を続けていくしかない状況になっていた。

しかし、ここで重蔵にあることが閃いた。
(レシプロ機や自動車開発に人がとられてジェット機の開発の資金や人材が使えないなら、ほかの所から人材と資金を集めればいいじゃない。)
重蔵が思いついたのは史実世界で日本の自動車産業が行っていた、フレーム等の機体の基礎構造を数社で共有することで車の生産コストを抑えるというやり方である。つまり、飛行機や自動車の基本設計部分やエンジン部分を各社それぞれが行うのではなく、複数の会社で共同開発していけばいいんじゃね?と考えたのである。
このことを考え付いた重蔵は息子と三菱や中島飛行機のトップとの協議を行いだす。そのなかで決定したのは、エンジンの基礎の開発・最適な機体構造の研究・開発、素材研究、過給機の開発、将来的なジェットエンジンを見据えた航空力学や流体力学の共同研究を行うことになった。
前述3社とのちに川崎重工が出資した研究機関INK(岩崎・中島・倉崎のアルファベットを並べた)株式会社はのちの航空産業における基礎技術の発展に大いに貢献することとなった。

これにより、倉崎設計の人員と予算にある程度の余裕ができたことでジェット開発の人員が割り当てられ、多少ではあるが予算も下りるようになった。
史実の日本の技術開発のごとく低予算での開発のため基礎理論や設計理論・INKで開発された素材を使った実験などを主に行い、実際のエンジン開発は廃品を流用したり、倉崎設計で作った試作機の部品を流用したりと涙ぐましい開発を行っていくことになる。


329 :倉崎ネタの人:2013/11/17(日) 00:25:44

以上になります。続きは明日になりそう。次は世界恐慌だ。

最終更新:2014年01月18日 10:56