414 :倉崎ネタの人:2013/11/17(日) 16:00:25

倉崎重工の飛躍、あるいは日本航空業界の怪物的進化。

1923年9月1日関東大震災が発生した。
大陸化したこの日本では史実通りの災害が起こるか不明だったが、やっておいて損はないとばかりに9月1日に防災訓練を実施していたために被害は最小限で済んだ。この際に都市部の木造建築は大半がつぶれその後の火災で焼失したが、三菱や倉崎・川崎等がINKで開発したトラック用ディーゼルエンジンにポンプを積んだ初期型の消防車が役に立ち、史実よりも延焼は食い止められた。
その後、日本各地に備蓄してあった携帯口糧壱型や毛布などの災害・戦時用の緊急物資を放出して行くと同時に、医師や医薬品を輸送するなどしていた。その際に複葉型の八二式輸送機が各地からの物資や医師などの医療関係者を運ぶなどして活躍していた。

この八二式は史実のフォードトライモーターである。
エンジンは史実寿エンジン1型があったため、そちらを利用しているために史実よりも航続距離と積載量が増していた。
このため、震災救援の初動が速くなりより多くの人命を救うことができたことにより、旅客機以外でも緊急輸送機や軍用輸送機としての需要ができた。
さらに、この輸送機は海外にも輸出され多くの国でライセンス生産をされることとなり、倉崎・三菱・中島飛行機の平時における主要生産機となっていった。

関東大震災における震災復興において後藤新平による帝都大改造計画が持ち上がったが、史実通りに予算不足に悩まされることとなった。そこで、倉崎潤一郎は三菱や三井、川崎等の大企業を中心に震災国債を買い集めその予算不足の解消に一役買った。このことは、企業イメージのアップとともに帝都とその周辺の工事による需要、モータリゼーションを見据えた都市計画を実現することで、将来の自動車需要により国債で使った資金は回収できるという計算があったからである。
実際、都市計画が始動したことで建設用の重機とトラックなどの需要が舞い込み、約5年の間で国債買い取りで使った資金を回収出来てしまったのであった。

そんな中、INKに川崎重工が加わったことで船舶用のディーゼルエンジンも開発プロジェクトが始動する。
また、この時期に実用性が見出されていたガスタービンエンジンについても、研究を行うこととなった。(発電用・船舶用が主、小型化は技術が熟成してからジェットエンジン開発と並行して研究することとなった。)
そういった状況下で研究開発が進んでいたが、輸送機や戦闘機・爆撃機などの開発と試作が次々と作られ風洞実験なども行われ、開発研究が徐々に研究資金多岐にわたったことで資金が足りなくなってきた。また、ジェットエンジンやガスタービンエンジンの開発も徐々に行き詰まりを見せていた。


415 :倉崎ネタの人:2013/11/17(日) 16:00:57

そんななか、1924年からのダウ平均株価の上昇に伴う株式取り引きで倉崎重蔵は大金を集めることに成功していた。
史実知識からアメリカの投機熱を知っていた倉崎は自分の個人資産や株式を抵当に入れた資金で株式を取得、1929年9月にはすべて売却して巨額の利益を上げていた。もちろん、重蔵個人ならばたいした金額にはならない。
このとき、倉崎だけでなく三井、住友、三菱をはじめとする大企業が売却を開始した。また、夢幻会を主導する会合でも同じ動きを一般会計に乗らない機密費やロマノフ王朝の皇女アナスタシアを救出したことでアラスカに建国した極東ロシア帝国(日本の宮家が婿に行っている)の財産も運用して行い、一斉に大陸日本で保持されていた、株式や国債、債権が売りに出されたことで一時的ににダウ平均株価が下落した。その後一時的に持ち直したが翌月に一気に下落する。
(これも辻主導によるものと言われている。)

このことにより、アメリカの株価が10月24日に大暴落し平均株価が15パーセント下がるといった事態を引き起こした。
その際に巨額のマネーゲームのごとく空売りを含めた行動によりさらなる利益を得るに至って、大陸日本には当時の200億ドルに近い資金の流入があったといわれている。
(このとき史実よりも高額の資金が動いたこともあり、アメリカは400億ドルの資金が溶けて消えたといわれている。)
この金額は、第一次世界大戦で消費した戦費を軽く上回り世界中の富の半分以上を日本が持っていると後に言わしめる事態となった。
この、アメリカ発の株価暴落により、世界は一気に大恐慌を迎え始めていた。そんな中、日本は手に入った資金を元手にアラスカ・カムチャッカ・樺太の開発を行い始める。さらに、英国に対してはブロック経済を発動されない様に、満州や遼東半島の開発やカナダを通じてアラスカ開発にかませるなどしていくことで、英国ブロック経済に組み込まれるように画策する。
また、アメリカ・ドイツの技術者や科学者を大量にヘッドハンティングし有望な企業を吸収・合併していくことに成功した。それ以外でも、ソ連が発生したことにより、ソ連に対する盾としてロシア帝国にカムチャッカとチェコトを割譲した。
(その際にロシアから1億ドルほど支払いを受けている。)

また、ウラジオストック等の領有を認めそちらの開発をロシア帝国の主導としたことで、日本は樺太や千島列島等の北海道地域の開発と沖縄・台湾などを中心とする南方地域の開発・軍事基地の整備を開始する。
とくに、フィリピンが近い沖縄や中華大陸からの侵略を最初に受け止めることとなる台湾の開発は急務だった。
(夢幻会はアメリカが敵に回ることを確信していた・・当たり前である)


416 :倉崎ネタの人:2013/11/17(日) 16:01:54

このとき倉崎重蔵は大量に手に入った資金で研究費のめどがたち、個人の資産も増えたことで世界中からの技術者・科学者を招聘する。
倉崎重蔵はこの世界では初の木制モノコック構造の飛行機をとばし、実用全金属制の戦闘機・爆撃機を作ったことで航空業界の権威となっていたこともあり、前回よりも多くの人間が倉崎のもとに集まって行った。特に、ハンス・フォン・オハインとハインリッヒ・フォッケを招聘出来たことは大きかった。
また、イギリスと経済協力を行い、英連邦各国に対しての経済支援を行っていたこともあり、イギリスとの間に技術協力ができたことも大きい。1929年から大型のガスタービンエンジンと船舶用エンジンの開発をイギリスと協力して行うことで発電用のガスタービンエンジンや船舶用のエンジンの実用化の目途が立ってきた。

ジェットエンジンはオハインと倉崎の技術者、アメリカから移転したダグラス・ノースロップの技術者(ダグラス・ノースロップは恐慌のあおりを受けて倒産しかけたところを倉崎の出資で持ち直し後に合併する)やボーイングやロッキードなどから引き抜いた技術者を使いターボプロップエンジンやターボジェットエンジンの開発とそれに伴う機体開発を行っていくことになる。
ここで、重蔵が10年の時間をかけて研究してきたことが実を結んだ。
コツコツと基礎技術や流体力学・航空力学・素材開発を行っていたことでジェットエンジン開発に必要なものはあらかたそろっていた。ジェット燃料もINKを中心に開発し耐熱性・腐食性の高いニッケル合金やコバルト合金を完成させ、さらには住友金属工業がINKと共同研究で超超ジェラルミンを完成させたことにより、1935年には実用ジェット試作機を作るめどが立ったのである。

しかし、今までは基礎技術のみの研究であり、実際にジェットエンジンを組み立てたことなどなかったためジェットエンジンの開発はすぐには終わらなかった。何せ、部品一つとっても既存のものとは違うものなので試作機を作るのに時間がかかった。しかし、転生者たちは基本構造や必要な部品は知っており、とくに2回目の転生者は1度開発を成功させていることもあり、他国の技術者が(こいつら、なんでこんな簡単に最適解を見つけるんだ?)と不気味に思っていたぐらいである。

前回の経験に加えて、早期開発環境が整っていたこともあり、実用ジェットエンジン(ターボジェット)は1938年12月には実用ジェットの試作機が完成したのである。非転生者の技術者や海外から来た技術者はみな、ボー然としていた。
それはそうである、普通なら何とか飛行可能なエンジンが5年で完成すればいいほうだと予想したのに、たった、3年で実用ジェットエンジンが完成したのだから。しかも、驚愕したのは英国と共同開発していた船舶用のガスタービンエンジンが船舶のエンジン・発動機として採用されて世界に先駆けてガスタービンエンジンを使用した船舶が就航することが決定されたことである。それは空母に利用されていくこととなる。


417 :倉崎ネタの人:2013/11/17(日) 16:02:59

さらに、ジェットエンジンが完成したことによりジェット戦闘機の開発にも着手することとなる。もちろん、倉崎が作るのは前回作った疾風である。
F-5とF-4Jを組み合わせた戦闘機はノースロップやダグラスの技術者(人間)と倉崎の技術者(変態)、ドイツから来た技術者(変態)が共同で開発していったため、1940年に試作型が完成しお披露目となった。
また、ボーイングやロッキードから来た技術者たちは爆撃機の開発に着手することとなった。ターボプロップエンジンを付けた4発爆撃機を作ったのである。これを見た夢幻会は
B-29を作ってどうしようというんだ?アメリカ(祖国)に核で爆撃でもしろということか?
と疑問に思ったという。もちろん、それ以外にも連山や彗星、銀河などは開発されていた。

疾風お披露目の日、一部海軍の大将閣下が世界大戦の開始とそれに伴う遣欧軍の派遣のために積まれた書類と調整に胃を痛くしているなかで、倉崎のテスト飛行場では2機のジェット戦闘機(制式配備されれば零式戦闘機)が滑走路に並んでいた。
テストパイロットは夢幻会のエスコン愛好者たちで編成されたジェット戦闘機専門の飛行士であった。
彼らは、マスクを装着しさらには耐Gスーツを着込んでいた。海軍・陸軍と各航空関係のお偉いさんが見守る中、疾風は空へと飛び立った。なめらかに飛行するその姿には多くの関係者が簡単の声をあげていた。
しかし、エスコン愛好者はジェット戦闘機ということでハッスルしていたのだろう。航空ショーのようなアクロバット飛行を行い、
倉崎の技術力の高さを印象付けていった。この姿を見た軍事関係者は側このジェット機の制式配備を進めることとしたが、ここで嶋田大将から待ったがかかった。

この飛行機を配備するのには機体コストが高いため数を揃えられず、空母や空港もそれ用に整備しなおす必要がある。また、遣欧軍に参加させるにしても機体への習熟が住んでいる九三式(憂鬱九六式強化版)や九六式(憂鬱烈風)を使うことになり、早期配備はせず運用試験や操縦方法の練習を行うための少数生産にとどめることとなった。

ヨーロッパ戦線では英国に対する援軍として九三式戦闘機を優先供与し、レーダーなども配備されていた。さらに烈風や烈風改(ターボプロップ使用)も日本軍が持ってきたことからドイツ空軍は壊滅状態に陥ってしまった。
また、ロッキードが作った戦略爆撃機≪富嶽≫はアラスカ・カナダ・アイスランドを経由してイギリスへ配備され、第一次世界大戦と同じ恐怖をドイツに与えた。烈風や烈風改の護衛があるため航空機での迎撃は難しく、空飛ぶ要塞と言われたこの機体の防御力もあり有効な迎撃が行われないまま、都市部やルール工業地帯などへの爆撃を許したのであった。

連日連夜行われる爆撃についにドイツの継戦能力が喪失し最終的にはイギリスと講和を結ぶに至る。
イギリスはドイツと講和と不可侵条約の締結、フランスの独立を条件に講和を行った。
賠償金や領土をとらない代わりにさまざまな技術情報はむしり取るつもりであった。
(本土がほとんど攻撃されていないこともあり英国は復讐するという気持ちがなかったのも大きく、ソ連と噛みあわせて共倒れをねらったのもある)


418 :倉崎ネタの人:2013/11/17(日) 16:03:30

倉崎重蔵は落ち込んでいた、ドイツとの戦争に疾風を使うことができなかったからである。
前回(憂鬱)ではドイツとの冷戦状態になりドイツ空軍と直接日本の疾風が戦ったことはなく、今回そのうっ憤を晴らすつもりでいたからである。
(ドイツからしたら酷いいじめである)

しかし、倉崎はあきらめなかった。ヨーロッパは間に合わなかったが太平洋戦線があるさと自分を慰めていた。
ドイツが講和しイギリスが無傷の状態であったが、ルーズベルトの後の大統領となったロングは国内の不満をそらすために中国で満州事変を意図的に起こして、日本に対していいがかかりともいうべきハルノートを突き付けた。その中に、天皇の退位と現政権の退陣要求(このときは近衛内閣)と民主化を行うことと、さらに軍事施設への強制査察と暗号を含めた技術情報の開示が書かれていた。
しかも、在日本資産の凍結と日系企業の資産没収を図ろうとするにいたり、国民の怒りが頂点に達してしまった。ここに1942年日米が開戦する。

疾風は太平洋戦争初期は完熟訓練と数を揃えるために実戦投入されなかったが、1943年のハワイ沖海戦において初めて実戦投入をされることとなる。
大鳳型空母から飛び立つ疾風はアメリカの最新鋭戦闘機F8FやP51を歯牙にもかけず叩き落して行った。その時のキルレシオは10:1以上であったといわれている。後に、日本の航空パイロットのなかでは
「エースパイロットになるにはドイツ軍機は15機以上、アメリカなら10機以上は落とさないとエースになれない」
といわれていた。
これがジェット戦闘機だと
「アメリカの戦闘機15機以上落とさないとエースじゃないよね」
と言われていた。

このように一方的な敗北によりハワイが陥落しアラスカに配備された、1式弾道弾が五大湖に落ち始め、しまいにはビキニ環礁にて核実験を成功させその映像をアメリカに向かって流したことで西海岸と5大湖周辺の州が停戦を叫びだし、東部との激しい対立の末、ロングが退陣しその後あらたな大統領により、日米の講和が成立した。


419 :倉崎ネタの人:2013/11/17(日) 16:04:58

以上になります。
投下して気付いたすっげえ読みにくい。もしだめでしたら、もう一度読みやすく
してから再投稿します。

もう、wikiと本編の設定を見直す作業に疲れました。w
 

最終更新:2014年01月18日 10:49