650 :高雄丸の人:2014/03/10(月) 20:58:06

1916年(大正5年)5月ロレーヌ地方ムーズ県。

「敵襲ぅ!!」

甲高い笛の音と共に、声が聞こえてくる。
そしてそんな音と声に反応して、外套に包まっていた男たちが飛び上がり、すぐ手元にある武器を取り出す。
武器を持った兵士たちから、塹壕の縁へと集まって防御を固める。
全長の短い騎兵用のカービンライフルを手にする兵士が多い一方で、備え付けられた重機関銃に取り付く
者もいれば、兵士一人で扱える軽機関銃を手に備える者もいる。

ここにいる兵士たちは、この地を故郷としている白人ではない。
一般的な白人たちに比べて小柄で、肌の色も薄い褐色と欧州で一般的なコーカソイド系特徴の白とは一線を
画する。

彼らは極東の島国、大日本帝国からはるばるやってきた兵士たちである。

支援SS サムライ、異境の地にて―

1914年、ドイツの総動員からなし崩しに始まった欧州での戦争は、当初の早期終戦予想を大きく外れて
長期戦の体を示し始めた。そして、普仏戦争での戦訓を用いた従来戦術が機関銃と駐退復座機を備えた
後装式火砲の戦線投入によって無意味なものとなり、砲銃弾から身を隠すために長大な塹壕が掘られていった。

独墺両国と対峙する英仏軍は、それまででは考えられない兵員の損耗に驚愕。両国とも失った兵員の補充に
追われることになった。そんな中、第三次日英同盟(正確には日英攻守同盟)に基づいて協商国軍として
参戦した日本へ陸海軍の派兵を要請。これを承諾した帝国は、新型である金剛級戦艦や軽巡洋艦と
駆逐艦からなる護衛艦隊(特務艦隊)、そして帝国陸軍から歩兵2個師団をそれぞれ派遣した。

陸軍は日露戦争で大きな被害を受けており、また工業力と予算の不足から近代化に遅れており
(それでも史実よりかはましだったが)、欧州派遣軍も火砲や銃火器の新型配備を優先して配備することで
何とか面子を保つ始末だった。
そんな中、1916年2月21日からドイツ軍によるヴェルダン要塞への攻撃が始まる。ドイツ軍によって前線は突破され、
フランス軍は次期攻勢作戦のために準備していた歩兵師団を防衛に投入せざるを得なくなり、またその被害も
甚大なものだった。

次期攻勢作戦の頓挫を危惧した英陸軍と兵員損耗に歯止めのかからない仏陸軍は、後方で再編成中だった帝国陸軍に、
ヴェルダン要塞のあるロレーヌ地方防衛線への参加を求め、帝国陸軍は日露戦争以来の陸上戦闘を経験することなったのだ。

651 :高雄丸の人:2014/03/10(月) 21:01:02


対峙するドイツ軍陣地から聞こえてくる、鬨の声。
すでに準備砲撃は行われた後で、塹壕にこもる兵士たちは間もなく見えるであろうドイツ兵たちへ、
銃剣を取り付けた三八式騎銃や各種機関銃の銃口を向けている。

砲撃によって掘り返された地面と奪い奪われ合う各地の塹壕、そして敵の進撃を阻むための鉄条網によって、
日露戦争の時とは違って戦場の見通しはよくない。

時折着弾する砲弾や、敵が発射する銃弾が頭上を通り過ぎる音を聞きながら、静かに待つ。
そして、ドイツ兵たちが確実に命中できるほどまでに近づいてきたところで、

「撃て!!」

現場を統括する士官の声を聴いて、兵士たちの手にした銃火器が一斉に火を噴く。
小銃の発射と装填の音は、断続的に発射される機関銃の発射音に紛れている。だが、それらの音は
ドイツ兵にとって、何ら差別のない死をもたらす不吉なものでしかない。
実際、徐々に近づいていたドイツ兵たちは次々と倒れていく。

とはいえ、ドイツ兵たちも止まることはない。止まれば協商軍の突撃阻止砲撃によって自分たちが
吹き飛ばされることがわかっているためだ。
ドイツ兵たちは弾幕を受けながらも、次第に塹壕へと近づいてくる。そして、日本兵の籠る塹壕とは目と鼻の先になった――

「突けぇぇ!」

「「「「「うぉぉぉおお!!」」」」」

誰が発したかはわからない命令。三八式騎銃での射撃を中断して腰元まで引くと、勢いよく騎銃を突き出す。
それによって取り付けられた銃剣が、ドイツ兵たちの腹や足に突き刺さる。ドイツ兵たちの悲鳴が響くが、
それを越えて更なるドイツ兵が日本兵へと襲い掛かる。ドイツ兵の突き立てた銃剣が、今度は日本兵へと突き立てられる。

そして、一気に熾烈な塹壕内での白兵戦へと移り始めた。


帝国陸軍は、普仏戦争の結果からそれまでのフランス式からプロシア(ドイツ)式へと教育方針を変換、結果として帝国陸軍は
親独派が主流であった。
そのため欧州大戦勃発後、陸軍内では独仏戦でドイツが勝利して大陸への足掛かりを失った英国も停戦せざるを得ないという、
ドイツ勝利の予想が一般的だった。
日露戦争の英雄の一人である児玉源太郎陸軍大将兼参謀総長の強い後押しがあって、結果として陸軍は英国の要請に応じて
歩兵師団の派兵を承認したものの、陸軍内ではあまりやる気の伴ったものではなかった(親英米派の少数派や海軍でも、地球の
裏側である欧州派兵には乗り気ではない者が多かったこともある)。

派兵における人事もその影響を受けた。万一ドイツがこの大戦に勝利した際、派遣軍司令官らは戦犯として扱われる可能性がある以上、
自派閥の者を選ぶわけにはいかない。加えて、戦史に詳しい憑依・転生者たちの推薦と賛同もあって、非主流派である工兵出身の
陸軍大将、上原勇作率いる九州閥(主流派である長州(山口県)以外の九州出身者を中核とする閥)を派遣軍の中心に配置する形となった。

652 :高雄丸の人:2014/03/10(月) 21:04:03

塹壕内での戦闘は苛烈極まりなかった。
ジグザグに掘られている塹壕内で、敵も味方も入り混じっての戦い。小銃はとうに捨てられ、手には銃剣やスコップ、
時には素手での殴り合いとなった。日本人将校の持ち込んだ軍刀もその長さから使いづらく、むしろ付属程度の
小刀がナイフ代わりに愛用される始末であったという。

被害を出しながらも、帝国陸軍将兵たちは持ち場を守り抜くことが出来た。負傷した兵士たちは前線である
第一線壕から連絡壕を通って、後方にある補助壕の医務所へと向かう。軽傷の者はその場で治療を受けた後に
持ち場へと戻り、重症者や戦死者は「聖なる道」と呼ばれた、一日に6000台ものトラックが通過する補給路を通じて、
塹壕を離れていく。

つかの間の休息。塹壕内では微妙な空気を帯びている。
ある者は手紙を読みながら、ある者は隣の戦友と煙草を分け合いながら、ある者は死んでしまったかのように外套で
身を包んで眠りながら・・・
誰もが、今日を生き残れたことを純粋に喜び、そしていつ終わると知れない戦いと失った友へ思いをはせていた。

時には「でっけぇベル太(ディッケ・ベルタをそのまま日本語にした愛称)」の巨弾が飛んでくるものの、それもほとんどが
要塞に向けられているためそこまで気にする必要もない。
次の攻勢が始まるのがいつかはわからないが、少なくともドイツ軍はいったん戦力の再編を必要とするだろう。
そうである以上、本当にわずかな時間ではあるが小康状態になる。
戦場で生きる者とって、そのわずかな時間は自身の“生”を感じられる貴重な時間だった。

日本兵の籠る塹壕の少し離れてた位置に、フランス兵たちが防御線を敷いている。と言っても塹壕自体は直接的に
つながっており、単に所属部隊の際による配置の違いでしかないが。
戦場において、日本人とフランス人の間には差別感情というものが表面上に現れることはなかった。
白人至上主義的な人種差別はこの時代、一般的とはいえ、戦場では敵弾がわざわざ肌の色を考慮して命中することなどない。
日露戦争という結果をぶら下げて来た日本兵を、期待と「本当に使えるか」という疑念を持っていたフランス兵たちも、
ドイツ兵の攻勢に一歩も退かぬとの気概と戦果を挙げた日本兵たちを「戦友」と認めていた。

日本兵たちの作る一風変わったスープ(味噌汁や乾燥野菜などを放り込んだ鍋)や酒、異国の装備品、または彼らの
持ち込んだ私物などを目当てに塹壕を伝っては、煙草やワインなどを片手に日本兵たちとの交流にいそしむフランス兵が
派遣当初から増え続けている。


1916年12月19日まで続いたこの地方での戦いは、増援として派遣された日本軍を含めて400000人近い死傷者を出した。
帝国陸軍はこの戦いの以後、補充を受けながら欧州各地の戦線を転戦。日露戦争での被害から回復を図っていた途上で、
10000人近い戦死者と同等以上の戦傷者を出してしまった。
しかしこの被害をもって、欧州各国に「大日本帝国ここにあり」と示す結果となった。また、高い代償を支払って、更なる軍の
近代化に必要な戦訓をいくつも得る。

後に、「ヴェルダンの戦い」と呼ばれるこの地方一連の戦闘は、多くの日本人にその名を刻み付けた。同時に、この戦いを
経験した多くのフランス人たちは、その後も時を経ても「戦友たち」との友情を忘れなかった。
一時は敵対してしまった祖国と日本だが、その友情が途切れることなかった。そして、この友情が2度目の欧州大戦と
太平洋での戦いを乗り越えた日本との、新たなる関係を築くために大いに活躍することになる。

異国の地で日本兵が戦ったを祭って、日本軍受け入れ港であり、仮設司令部が置かれたトゥーロンに
慰霊碑が建てられた。

「Le Grand Samurais」(偉大なるサムライたち)と、刻まれたその慰霊碑は日仏が対立した時代でも、
献花が絶えなかったという―――

653 :高雄丸の人:2014/03/10(月) 21:05:05
あとがき

というわけで、以前投稿した特務艦隊ものに続く、第一次世界大戦物の第2弾となります。
本編でも特に書かれているわけでもない、第一次世界大戦は割と書きやすいという印象でしたwww

作中で名前の登場した上原勇作大将は、史実ではシベリア出兵で統帥権を盾に政府からの撤退命令を
無視して進撃するという暴挙に出た人物です。
しかし、工兵出身ながら元帥にまで上り詰めて「日本工兵の父」とまで呼ばれ、日清日露では岳父である
野津道貫の下で参謀や参謀長を歴任して従軍、軍功を上げて男爵位を授けられるほど優秀な人物だと
いえるでしょう。
フランス留学の経験があり、フランス語に通じていたという事もあって派遣軍司令官として選ばせて
いただきました。

本当ならば戦闘シーンや得られた戦訓、上原大将ら派遣軍将官らの心情などを描きたいところ
だったのですが、あまりに長くなりすぎるのであきらめましたw

また新作を投稿する機会がありましたら、よろしくお願いします。

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最終更新:2014年03月23日 11:42