655 :SARU ◆CXfJNqat7g:2014/03/18(火) 02:05:41
前置き
この
支援SSは実在の人物とは割と関係ありません。
1945年、大独逸帝國ダンツィヒ=西プロイセン大管区某所
目の前にある盥一杯の馬鈴薯を洗って皮を剥く──それが少年が武装親衛隊の一員として最初に与えられた仕事だった。
以前居た労働奉仕団での仕事と大して変わりはしない。制服こそ襟に大仰な髑髏のシンボルが付けられてはいたが、寧ろ見た目の落差を酷くしているだけだった。
「なあ坊主」
殆ど差し向かいで同じ作業をしていた五十絡みの男が声を掛けて来た。自分同様木箱に腰掛けているので分から無いが、戦傷の為に右足を少し引いて歩く。
同じ制服で出身地もほぼ同じ。実戦部隊を希望するも志願者が定員を大きく上回る大盛況で支援部隊に回されたのも同じ。
そして自分と同じ──訂正、半分は同じ民族だ。
「組織の一員として与えられた任務を全うするのが軍人じゃないか?」
それはそうだがもう少し待てばダンツィヒで独逸人の父親を持つ在外独逸人(フォルクス・ドイツェ)として国防軍に志願出来たにも関わらず、より一年早く入隊可能な親衛隊を選択した意味が無くなる。
本隊は治安活動に従事しているのに、後方で炊事の補助だなんて!
武装親衛隊には二つの源流が存在する。親衛隊の軍事組織として誕生した親衛特務部隊(SS-VT)と、治安組織としての親衛髑髏部隊(SS-TV)である。
部外者には一見して区別の付き辛い略称を持つ両者ではあったが、主に大戦間期にヴェルサイユ条約で科せられた軍備制限を補完すべく整備された警察組織から人員を抽出した前者は、
国防軍から転籍した職業軍人達が設立・指導に当たった親衛隊士官学校等、徹底した軍事組織化を前提として形成された。
一方、後者は“赤色反動(ゾチ)”をはじめとする国家社会主義の潜在的敵対者を予備拘禁によって隔離する施設──矯正収容所(KL)の運営に不可欠な警備部隊として編成され、やがては限定的な
戦闘能力を持つ治安組織として来るべき戦争の後方で活動する事を想定されれていた。
独墺合邦(アンシュルス)で実質的な初陣を飾った武装親衛隊であるが、師団編制を見据えた将来的な組織拡張に対する不安は対波戦で損耗率の高さとなって現れ、泥縄式に編入された
髑髏部隊──第三親衛師団『髑髏』は対仏戦で無秩序な捕虜処刑という不祥事を起こし親衛隊上層部を懊悩させた。
これによって武装親衛隊を“国家の精鋭”と考えるシュタイナー、ギレ、ハウサーと、“党の軍事力”と看做すヒムラー、ディートリヒ、アイケ等の間に大きな溝が出来上がった。
一時期は組織防衛から人的資源を確保すべく在外独逸人(フォルクス・ドイツェ)や同盟国・占領地のゲルマン系だけではなく、反共反ユダヤの
非ゲルマン系外国人までも武装親衛隊が編成権を握ろうとした事で、親衛隊の存在意義すら危うくなっていた。
この危険な状態はしかし対英日戦の終結で軍事的圧力が弱まった事で変化を迎えた。
髑髏師団を率いて転戦していたアイケは視察中に蘇聯機の襲撃で乗機が不時着、辛くも一命を取り留めたが両脚を膝下で失い、回復後も体面を保つ為に捨扶持同然の名誉職を宛がわれ文字通り“失脚”した。
ディートリヒを大西洋大津波で混乱の極みにある旧米地域“救済”の為に急遽編成された第一武装親衛集団(第一親衛装甲擲弾兵師団『総統』を基幹とした部隊)と共に欧洲聨合軍へ厄介払いしたヒムラーは方針を
転換し、シュタイナー達職業軍人と共に武装親衛隊を原点である“民族の良選である精鋭”への再編に着手した。
髑髏師団は一旦解体されて元の収容所付警備部隊となり、改めて通常の部隊として編制される運びとなった。又、国防軍との差別化を図って歩兵を“擲弾兵”と呼称変更し、更には
聯隊以上の部隊編制はゲルマン系のみとし、それ以外の人種は基本的に大隊規模として占領地での治安任務に充当した。
656 :SARU ◆CXfJNqat7g:2014/03/18(火) 02:06:59
剥いた馬鈴薯を今度は水で軽く洗い、荷車の上に置いた盥へ放り込む。予め置いたのは配属初日に洗った馬鈴薯で一杯の盥を持ち上げ損なったという戦訓からだ。
荷車を押して“シチュー砲”──野戦炊事車の置かれた広場へ出る。自分の所属する兵站管理部隊は近隣へ展開している髑髏大隊を統括する上級組織に所属している。本来なら精々が聯隊規模の部隊に
師団に準じた段列を付けるのは異例なのだが、部隊の投入された状況を見れば手厚い支援は不可欠だ。
ああ、自分も髑髏大隊の一員として戦列に加わっている筈だったのに……
民族別編成を意図した髑髏大隊の拡大については最初の段階で誤算が生じた。
東欧の占領地では従前の体制下で抑圧されて来た諸民族が裏返る様に親独的傾向を見せ、中でも旧バルト三国や大戦間期に旧ポーランド領域及びその周辺だった地域では
歴史的経緯からポーランド人やロシア人に対して強い敵愾心を抱いていた人々が次々と志願し、現地の募兵事務所では想定を大きく上回る数に担当者が目を回していた。
その為、一民族一大隊という計画は早々に廃棄され、ふるいに掛けても尚多い志願者達には本格的な教練が施され、各民族に複数編成された
髑髏大隊は有事動員に備えて基幹部隊だけが残されていた『髑髏』師団での訓練と、地域別に統括する旅団相当の上級組織下での前線勤務とを輪番で行う事となった。
旧ポーランドではリトアニア人部隊の『メーメル』『ヴィルナ』、ウクライナ人部隊の『ルテニア』『レンベルク』、そして独逸第二帝國から旧ポーランド支配下を
経て第三帝國へ復帰した少数民族・カシューブ人部隊の『ポンメルン』『ダンツィヒ』等が治安回復任務に従事し、“消毒小隊”や“煙幕投射小隊”の増強を受けて武装反動勢力を殲滅していた。
現地住民の巻き添えも厭わないその苛烈さは一時期存在した特務部隊(アインザッツグルッペン)とは別の意味で反独勢力に恐れられ、時には独逸人親衛部隊が介入、掣肘する必要さえあった。
657 :SARU ◆CXfJNqat7g:2014/03/18(火) 02:07:31
目の前に幌付トラックの隊列が現れ、そこから斑模様の服を着用した一団が降りて来た。左袖には控えめなカフタイトルで
『オストマルク-ポンメルン』──髑髏集団『オストマルク』揮下の髑髏大隊『ポンメルン』所属である事を示している。
「さて、奴さん達の腹を満たすとするか」
傷痍軍人オスカー(名前は後で聞いた)が足を引き乍ら立つのを見て自分も後に続く。『ポンメルン』の擲弾兵達が段列の用意した食器を手に給食の列を成す。
その野戦服と自らの制服を一瞥しつつ、今の役目は焼きたての麺麭と野菜シチューを滞りなく配膳する事だと納得させた。
其の日、ヴァイクセル蜂起として歴史に刻まれる事件が起こった。
後に旧ポーランド情勢が安定し大管区設置とそれに伴う管区界の見直しが行われる頃には独逸支配下の中小国が続々と再独立を果たし、非ゲルマン人髑髏大隊の大半は解体され隊員達も
祖国の軍備再建を果たす為に各々帰国を果たし、そして元来が独逸国民であるカシューブ人達には異なった意味での厚遇が図られた。
旧ポーランドでに於ける治安活動で少なからぬ犠牲を払い多大な功績を得たカシューブ人を名誉ゲルマン人として帝國領域内では独逸人と同等の扱いを受ける事となり、更にはポンメルン、
ダンツィヒ-西プロイセン、ヴァルテラント各大管区の管区界を調整し、新たにカシューベンラント大管区が設置され、半ば形骸化していた州と同等の地位や郷土部隊としての聯隊区も与えられたのだ。
結局、独逸人とカシューブ人の混血である少年は『オストマルク』兵站管理部隊所属のまま遂に前線へ出る事無く親衛隊を除隊した。カシューブ人髑髏大隊が解体、
国防軍のカシューベンラント聯隊へと再編される時に余剰人員として復員させられたのだ。
後日、著名な作家となった嘗ての少年が(主に反独的傾向の国々から)過剰な暴力の代名詞とされるヴァイクセル蜂起──ヴァルシャウ(ワルシャワ)市近郊での武装集団の
同時多発的決起と髑髏集団『オストマルク』による殲滅同然の鎮圧──について、
自らも現地髑髏部隊の構成員であった事実を公表し国内外に大きな波紋を投げかけた。
英國BBC記者による詰問同然のインタビューに対し、作家は「玉葱や馬鈴薯の皮を剥くのが過剰な暴力だと云うのならそうなのだろう。
貴女の良心とやらに於いてではあるが」と返答し、それ以上の言及はしなかった。
『馬鈴薯の皮を剥き乍ら』
終
最終更新:2025年02月10日 17:59