678 :フォレストン:2014/05/12(月) 07:32:19
川の流れのように~♪
英国では戦前より、ジェットエンジンの開発が進められていた。レシプロエンジンではいずれ性能向上の限界が来ることが技術的見地から予言されていたからである。
1926年に英国軍技術将校のアラン・アーノルド・グリフィスは、『タービンの空力的設計』(An Aerodynamic Theory of Turbine Design) と題した学会発表の中で、従来の軸流式圧縮機に用いられていた羽子板状の直線翼の失速(サージング)現象を解明し、圧縮機とタービンのブレードに航空機の翼型を適用して効率向上させることで、ターボプロップエンジンが航空機の推進力として成立しうることを示した。
一方、航空士官学校からケンブリッジ大学に派遣されていたグリフィスの弟子の下士官フランク・ホイットルは、構造が単純な遠心式ターボジェットエンジンこそが早期の実用化に適すると主張する論文を軍需省に上申したが、論文を精査したグリフィスは計算間違いを指摘し、遠心式は大径かつ非能率で、航空機推進用には適さないとコメントした。
その後、ホイットルは遠心式ターボジェットエンジンを特許出願し認められたものの、軍需省の支持が得られなかったため十分な研究予算が付かず、特許は更新料未納のまま失効してしまった。このことが原因でホイットルはグリフィスに敵愾心を抱くことになる。
なお、ホイットルの特許は機密扱いされず専門誌などで広く紹介されたため、各国の空軍や技術者が注目し一部では後追いが始まったのであるが、当時盛んに行われていた
夢幻会主導のヘッドハンティングにより、ハンス・フォン・オハインをはじめとした優秀な技術者を引き抜かれたドイツのジェットエンジン開発は史実よりも大幅に遅れることになる。
679 :フォレストン:2014/05/12(月) 07:43:12
1939年。
このころのホイットルは、幾多の困難にもめげずに遠心式ジェットエンジンの開発に邁進していた。
英国空軍実験隊に籍を置きつつ、蒸気タービン大手ブリティッシュ・トムソン・ヒューストン (British Thomson-Houston, BTH) 社工場の一角に、同僚とパワージェッツ社を立ち上げて遠心式ターボジェットエンジンの実証に没頭した結果、初号機WU(Whittle Unit)の試運転に成功しており、さらなる性能向上を図っているところであった。
なお、遠心式ジェットエンジンを構成する重要な要素技術である予燃式気化器、クリスマスツリー型遊合フランジによる組立式タービンディスク、筒内圧力分布の考察、動翼の捻り等は、このころにホイットル自身が考案している。
グリフィスもホイットルの成功を黙って見ていたわけはなく、別のタービン機関大手メトロポリタン=ヴィッカース(メトロヴィック)社に試作を下命している。
しかし、グリフィスは最初から軸流式ではあるが、ジェットエンジンを製作する気は無く、ターボプロップエンジンを製作するつもりであった。
メトロヴィック社では、いくつかの実験モデルを経て、実用モデルの開発に着手した。
グリフィスのターボプロップエンジンは、9段軸流圧縮機とアニュラー型燃焼器、独立パワーリカバリタービンを持つ二重反転軸流式ターボプロップであったが、複雑過ぎて設計に手間取り、そうこうしているうちに、同年4月にホイットルがWUの20分間の連続全開試験に成功し、軍需省の予算を得て実用モデルW.1の製作にかかると、グリフィスとメトロヴィック社の技術者達は複雑なターボプロップ案を放棄し、副案の単軸純ジェット版の完成を急いだのである。
その後、BTHはメトロヴィック社に吸収合併され、会社こそ違うものの、同じ工場内で軸流式ジェットと遠心式ジェットが試作されることになる。
1941年初頭。
遠心式ジェットエンジンの実用モデルであるW.1は、耐熱合金ナイモニック80(ニモニック、Nimonic)の採用により、拡大に伴い新たに生じた暴走、過熱、振動、共鳴、サージング、バックファイアー等の問題を解決。
同エンジンを搭載した実験機の製作が始まっていた。
一方で軸流式ジェットは、設計が終わって製作にかかろうという段階であり、このままだと年内に火入れが出来るかどうかも危うい状況であった。
軸流式は遠心式よりも制御パラメータを多く取ることが可能であり、理論的には後者より高出力なのであるが、その分設計が複雑化してしまったのである。完全に手探り状態での設計ということも、設計の遅れに拍車をかけていた。
680 :フォレストン:2014/05/12(月) 07:45:38
1941年6月。
ドイツが英国本土へ侵攻。バトル・オブ・ブリテンが始まった。
迎撃のためのスピットの大増産の号令がかかる一方で、現状で使い道の無いジェットエンジンの開発の予算は削られたのである。
ホイットルのW.1は同年5月に実験機グロスター E.28/39の初飛行に成功した実績のおかげで、さほど予算を削られることなく、研究が続けられることになったが、その割を食ったのがグリフィスの軸流式ジェットエンジン、メトロヴィック F.2である。
未だ製作途中であったこのエンジンは存在意義すら疑問視され、開発中止寸前にまで追い込まれた。
グリフィスの必死の説得により開発中止こそ避けられたが、予算は大幅に削減されてしまい、ただでさえ遅い開発速度がさらに遅くなってしまったのである。
1942年2月14日。
英国を盟主とした連合国とドイツを盟主とした枢軸国の停戦交渉が合意に至った。
英国のペテン師染みた外交手腕が発揮された結果、この停戦は実質的に現状の承認を行うものとなった。
ドイツはポーランドの併合、独仏の新国境、オランダやベルギーなどに立てた親独政権をイギリスに承認させることしか出来なかった。
片や英国は現状を承認するだけで、再戦に備えるための準備期間を得ることが出来たのである。
1942年中旬。
遠心式ジェットエンジンW.1を3倍にスケールアップした実戦型W.2の開発が進んでいた。
しかし、パワージェッツ社には生産能力がなく、軍需省は自動車メーカーのローバーに量産化を委託したが、開発を巡って、ホイットルは後にランドローバー開発主任として知られるモーリス・ウィルクスら、ローバーの技術陣と激しく対立したのである。
確かにホイットルはターボジェットエンジンの先覚者の1人であったが、自信家で偏狭な性格が災いし先々で軋轢を生み、何かと問題を引き起こした。
やたらと設計に介入してくるホイットルは、ローバーの技術陣と激しく衝突し、開発が進まないのに業を煮やしたホイットルは、独自にロールス・ロイスの航空機エンジン部門の責任者アーネスト・ハイヴスと、同社でレシプロエンジンの機械式過給器の専門家だったスタンリー・フッカーに接触し、部品調達の約束を取り付け、ローバーとは別に独自改良版の製作に着手したのである。
なお、ホイットルが製作した独自改良版はW.2/500~/700と呼ばれていた。
パイロットでもあったホイットルは自らE.28/39の操縦桿を握りつつ開発に没頭したのである。
このためW.2はローバー版とパワージェッツ版の2機種が併存する異常事態になったのであるが、いずれも実用化には程遠く、混乱を重く見た軍需省はフランク・ハルフォードに W.2の詳細データを渡し、より構造が簡素なH.1(後のデハビランド ゴブリン= de Havilland "Goblin") を並行試作させた結果、H.1が先に実用段階に達してしまうのである。
このことが軍需省並びに空軍上層部が、ホイットルとローバー社の開発能力を問題視し、後のジェットエンジン開発に影響を与えることとなる。
681 :フォレストン:2014/05/12(月) 07:52:47
1942年8月16日。
大日本帝国政府はアメリカ合衆国に対して宣戦を布告。
英国にとっては、遥か遠い場所の戦争のはずであった。
大西洋側の沿岸地帯が、高速で突き進む5mの津波の直撃を受けて大打撃を蒙るまでは。
津波により、ポーツマス、プリマス、カーティフは甚大な損害を被り、リバプールもかなりの痛手を受けた。
首都ロンドンやマンチェスター、バーミンガムのような内陸の工業都市、北海に面している港は比較的損害は軽微であり、復旧が可能な範囲であったのがせめてもの救いであったが、続々と届く被害情報に政府首脳はもちろん、官僚達も青ざめるを通り越して卒倒した。
英国海軍の主力艦艇こそ目立った被害は出なかったものの、シーレーンはずたずたになっており、経済的損失は計り知れなかった。英国連邦諸国からは支援船団が出航し、ただちに被害復旧にとりかかったのであるが、本国が大打撃を受けたという情報が広まるにつれ、植民地の各地で不穏な空気が漂うことになる。
1943年初頭。
進まぬエンジン開発とホイットルに手を焼いたローバーはW.2B計画を放棄してロールス・ロイスに生産契約ごと譲渡することにし、ジェットエンジン専用に立ち上げたバーノルズウィック工場と、ロールス・ロイスのノッティンガム戦車エンジン工場とを、人員ごと等価交換した。
このころの英国は、津波被害からの復旧とバトル・オブ・ブリテンで被った損害の穴埋めに手一杯であった。
空軍上層部では、ジェットエンジンを開発する人材と設備を新型スピットの開発に転用する意見が大勢を占めていたのであるが、ホイットルとグリフィスの必死の説得により、どうにか開発は続けられることになった。もちろん無条件というわけにはいかなかったのであるが。
- 軸流式は開発を凍結し、遠心式を優先して開発すること。
- 年内に実用に足る遠心式ジェットエンジンを製作すること。
かなり厳しい条件であったが、空軍側としてもこれはギリギリの妥協案であった。
現状でドイツ空軍に攻撃されたら英国空軍に勝ち目は無かった。停戦が成立しているとはいえ、横紙破り上等なドイツのことである。いつ停戦を破って再侵攻してくるか分かったものでは無かった。
空軍としては1機でも多くのスピットを欲していたのである。
W.2Bの開発を承継したフッカーらロールス・ロイス社の技術陣と、ホイットル、グリフィスをはじめとする混成開発チームは、新製したシースルーモデルで気流解析を重ね、原設計の欠陥を把握。
ローバーで改良作業が進んでいたW.2B/23案に技術的洗練を加えたものをウェランド(Welland)と名付けた。
ウェランドは同年5月に初火入れが行われ、各種試験に供された。
その結果、性能・信頼性共に実用レベルであることが確認されたのであるが、既に改設計で性能が向上したダーウェント(Derwent)が実用間近であったため、少数生産で終わっている。
開発リソースを遠心式ジェットに集約出来たことにより、開発スピードは史実よりも早くなり1943年中にダーウェントの生産が開始され、遠心式ジェットの決定版とも言えるニーン(Nene)の開発も急ピッチで進んでいた。
驚異的なスピードで開発が可能だったのは、開発ソースが集約されただけではなく、ホイットルが自重したことも大きかった。
我を通してジェットエンジン開発そのものが中止されてしまうのは、彼としても本意では無かったのである。
ちなみに、ロールス・ロイスで生産されるジェットエンジンには河川名の愛称が与えられ、以後も継承されていくのはこのときからなのであるが、経験論に拘泥し反進歩主義に陥って散々に現場を引っ掻き回してくれたホイットルへの皮肉と、エンジン内の気流が「川の流れのようにスムーズ」という意味が込められている。
ホイットル本人がこの事を知らずに済んだのは幸いであった。
682 :フォレストン:2014/05/12(月) 07:57:16
1944年1月10日。
サンタモニカ会談によって世界は日英独の三大国家によって統治されることになった。
事実上の第2次大戦の終焉である。
このとき既にジェット戦闘機であるグロスター ミーティアの開発が開始されており、同年2月にダーウェントを積んだ機体(史実F.3相当)の量産が開始されている。
とはいえ、空軍上層部の中にはジェット機の存在意義に疑問を感じている人間も多く、既存のスピットを生産するためにラインを占められていたため、生産はスローペースであった。
1944年4月。
史実よりも4ヶ月早く、遠心式ジェットの決定版と言うべきニーン(Nene)の火入れ式が行われた。
ニーンは、フランク・ホイットルの基本レイアウトを継承し、単板圧縮機の両面にインペラとガイドベーンを配置する側面吸入方式を採りつつも、原設計に残る試作色を排し、航空機レシプロエンジン用機械式過給器の専門家だったスタンリー・フッカーらのチームの手で、白紙状態から設計し直されたエンジンである。
ホイットルが固執していた蒸発管式気化器、反転型燃焼器、外部水冷タービンなどが排除された一方、同社のレシプロ用過給器で実績のあった可変式ガイドベーンの導入によって、効率・安定性共に格段の性能向上に成功したのである。
ここでもホイットルが自重したおかげで、実にスムーズに開発が進んでいる。
ただし、自重もそこまでであった。その後のホイットルはジェットエンジン開発で好き勝手やりまくって、現場を混乱させたあげくに、とある機関に配属されたのであるが、それはまた別の話である。
結局のところ、英国は第2次大戦中に実用的な遠心式ジェットエンジンを実用化することには成功したものの、軸流式ジェットエンジンについては、ドイツに大きく水を開けられることになった。
後の日本のジェット艦載機による、いわゆる『疾風ショック』やドイツのMe262を見て、軸流式ジェットの開発の遅れを痛感した英国は、あらゆる手段を用いて巻き返しを図っていくのであるが、それは後の話である。
683 :フォレストン:2014/05/12(月) 07:58:48
あとがき
設定板で話題になっていたので、憂鬱英国のジェットエンジンの開発事情を書いてみました。
本編を読み直した結論として、何をどうやっても戦時中に軸流式ジェットの実用化は不可能ということでした。だったら、開発リソースを集中して遠心式ジェットを実用化してしまえというわけです。
反面軸流式はロクに試作も出来てない状況なので、ここから巻き返せるのか不安になります(汗
史実よりも早い、遠心式ジェットの決定版たるニーンの実用化ですが、おいら的には一応可能だと思っています。
- ドイツに比べて夢幻会から(比較的)人材その他を毟られなかった(はず)
- 史実よりも苦しい台所事情により、開発リソースの集中が行われたこと。
- 実績のあった遠心式ジェットに、開発リソースを注ぎこめたこと。
- ホイットルの御大が空気を読んで自重したことw
ぶっちゃけホイットルの御大が現場を引っ掻き回さなければ、それだけで半年くらい稼げたような気がします。それに加えて軸流式ジェットの開発スタッフも加わったのですがら、開発速度は劇的に上がったのではないでしょうか。4ヶ月どころか1年早めても良かったかもw
曲がりなりにも実用ジェットエンジンを手にすることが出来たので、英国は当分は遠心式ジェットを搭載した戦闘機を主力とするはずです。英国面?なんのことやら。
実はこのSSは続き物だったりします。
というか、1回じゃ内容が多すぎてとても書ききれません…(汗
次回は疾風ショック直後から始まります。各国の空軍関係者のSAN値直葬イベント後、英国はどのように対応したのか…乞うご期待?
最終更新:2014年05月12日 18:47