146 :ひゅうが:2013/12/27(金) 19:05:36


大陸日本ネタSS――参考 「日本大陸の三異教について」



1 異教伝来の背景


【遣唐使成立と日本の宗教政策】

前大和政権において成立した日本の国家システムは、当初からその権能はともかくとして権威において皇室をトップとして政治機能を豪族や親王家が分担する形をとっており、そのために中華システムを特徴付ける朝貢はいずれも皇室ではなくその下の親王家や豪族、あるいは国家機関である太宰府などが代替して行っていた。
ただし、その例外となったのが遣隋使と遣唐使である。
日本側が自ら「皇」を名乗った有名な国書は伝統的な中華の権威からの独立を主張し、これにとかく暴君のイメージがつきがちな煬帝が一定の容認路線を示したことから日本と中華世界のほぼ唯一の「直接国交の期間」が生まれたのである。

日本側は日本本土に対する中華権威を認めず皇帝による王への封号を辞退していた。しかしながら中華圏における中華の権威はこれを認め、臣下の礼をとるという「棲み分け」方式により対処が行われたのである。
この方針は、日本側が形だけでも服属することで中華のプライドを満足させつつ日本側の敵対をあおらないという利点があった。
事実、この時代に唐王朝の官吏となった日本人は数多く、また唐王朝は日本の律令編纂を黙認している。
これは、ベトナムや渤海などへ「中華の特権」としてこれを許さなかった厳しい対応とは一線を画している。
トルコ系鮮卑族による征服王朝らしい柔軟な対応であるといえよう。
そしてその柔軟な政策は、交易と宗教政策にも反映されることになる。
――つまりは、黙認と実利の享受である。


かくて、日本は本格的な教派宗教の整備と伝来を迎えるのである。
それまでの神道などの伝統宗教の体系化と再編、そして日本の宗教観を特徴付ける「本地垂迹説」を中核にした神仏習合が進行し、この合間にネストリウス派キリスト教やゾロアスター教、マニ教などのいわゆる「奈良三教」と仏教の天台宗・真言宗を中心にした「奈良二宗」といわれる新しい思想が伝来したのがこの時代であった。
特筆すべきは、この伝来が日本側の国費留学によって半ば野放図にかつ大々的に行われていることであろう。

この時代の漢訳宗教関連書の大半が写本として日本国内に移入され現在に伝わっていることはその証左である。
このことは、唐の時代のよくいえば無頓着な、よくいえば自由闊達な風潮を日本国内にもたらすことになり、遣唐使留学経験者の要職抜擢とともに、朝廷による一定の保護のもとでの布教容認が図られたのであった。
ただし、これには条件がついた。

「国家安康に反せぬ限り」という。

これは、飛鳥時代に危うく神道と仏教で宗教戦争をやらかしかけたがゆえの日本側の切実な事情によるものであったともいえよう。
日本のトップとなる皇室はその権威の源として長期存続する家系としてではなく神をまつる祭祀によってその権能を獲得するという仕組みになっていたうえに、諸豪族による連合政権から中央政権へと脱皮を果たしたばかりであるために皇室の絶対王政化という中華的な手段は取り得なかったのである。
そのため、宗教を利用した権威の強化よりは「既存の宗教勢力の対抗馬」としての役割が伝来宗教には期待される。

そのため、現代で言えば公共の福祉に反しない限りにおいては宗教的に自由闊達な雰囲気がこの時代から平安時代初期にかけて続くことになったのであった。

147 :ひゅうが:2013/12/27(金) 19:06:18



【長安と平城京に花開いた異教】


ここまで前提を書いてようやく、景教などの「奈良三教」について語ることができる。
すでに述べた通り、これらの宗教は唐王朝から遣唐使を通じて伝来した宗教である。
唐王朝が長大な東西交易路を掌握し、その富をもって往来するソグド人などの西域の人々と深い関わりを持った鮮卑系の人々を祖先としていたために彼らは東西交易路を通してもたらされた新たな宗教については比較的寛容であった。
すでに中華中原には2世紀頃に仏教は伝来していたものの、こうした方針によってその花は大きく開く。

アレクサンダー大王の東方遠征に伴い、インド北部からアフガニスタン、そしてイラン高原にかけてギリシア系王朝が成立し、その王が仏教僧と教義の問答をするという仏典「ミリンダ王の問い」をその代表とする東西の文明の出会いは、唐王朝において百花繚乱ともいうべき宗教の百貨店じみた状態を現出させた。
そのため、唐の都長安においては、たとえば仏教寺院から2ブロックもいったところにはゾロアスター教寺院が、その二つ隣にマニ教寺院があるといったモザイク画のような光景が出現したのである。
しかも、唐王朝はこれらの宗教思想をその後期を除いては弾圧せずにむしろ寄付を行い保護を行うことまでしたのだ。
日本とは違った事情であるが、唐王朝は征服王朝であるがゆえの中華中原の思想への対抗を必要としていたのだ。
とりわけ流行したのが、これまでにも述べてきたように「仏教」「景教(ネストリウス派キリスト教)」「ゾロアスター教」「マニ教」の4つである。
これらは当然のごとく日本にも伝来。
唐王朝後期の騒乱によりこれらが弾圧され、結局は中華中原の思想と混交した秘密結社化をしていく中で日本国内においてある程度の分立を守りながら現在まで続くことになるのである。



2 奈良三教について

すでに天台宗や真言宗などについては多くの文献があるためここでは述べない。
そのかわり、奈良時代から平安時代にかけて伝来したいわゆる「奈良三教」あるいは「奈良三異教」について概説と日本における立ち位置の変遷を述べることにする。


【景教=ネストリウス派キリスト教】

キリスト教は、言わずと知れた世界宗教である。
しかし、統一的な教会組織が生まれるとともに、それまで百花繚乱的に拡大していた諸宗派は教義の統合を余儀なくされた。
中でも、最初期の異端とされたのがネストリウス派である。
キリスト教の教義は、「イエス=キリストは完全な人間であり完全な神性を有する」また、「神は天上の父とその子である地上のイエスと、世界におわす聖霊の三位一体である」、そして「キリストは全人類の原罪と将来の罪をあがなうために十字架にかけられ、そして完全な形で復活し天上へ帰った」ということがその基本である。
しかしネストリウス派は、このうち最後の「完全な形で復活した」ということに異を唱えた。

彼らいわく「復活したキリストは、神として復活したのであって完全な人性を有していたわけではない」。
つまりは人が生きたまま天上へ昇天するという点に異を唱えたのである。
この点をもってエフェソス公会議においてネストリウス派は異端とされたのだった。
しかしながら、続くカルケドン公会議において異端とされた諸派「非カルケドン派」と同様、いやそれ以上に熱心に東方へ伝道したのである。

アナトリア半島から当時のパルティアやササン朝ペルシアを経てイラン高原からインドア大陸へ至る。あるいは、イラン高原から中央アジアへ至り、シルクロードを経て西域へと移動して中国へ至るというルートは他の諸教と同様である。
その過程において、仏典と同様にペルシア語やソグド語、ウイグル語に訳されているため、敦煌文書やカシュガル文書といった形で文書が数多く残っている。
そしてネストリウス派は、仏教とほぼ同時期の紀元後2世紀後半に中華中原へ伝来。
唐王朝の時代に入ると異端宣告からほぼ1世紀を経て移動してきた集団が定着し、「三夷教」のひとつとして唐の都長安に拠点を構えるに至った。
信者は主として交易に従事していたソグド人やペルシア人、あるいはウイグル人であったとされる。

148 :ひゅうが:2013/12/27(金) 19:07:33
日本への伝来は、遣唐使によるものが大きい。
平安京への遷都以後に布教が公認され、嵯峨天皇の時代において景山と名付けられた一山を与えられ、また京内に一寺を構えるに至った。
しかし、厳格な一神教であったはずの景教は長安において「天帝」を訳語としていたために日本国内の本地垂迹思想と高い親和性を有していった。
あるいは、日本人らしいいい加減さであったともいえるのだが。
彼らは、「天照大神をはじめとする日本の諸神は天帝が形を変えて現れたもの」とし、父と子と聖霊という三位一体構造を敷衍する形で積極的にこれを推し進めていった。

その一環として「蔵王権現は天帝の化身である」という海外の人々が聴けば卒倒するような教義が中世にかけて生まれている。

比叡山延暦寺や根来寺などが僧兵を強化した時代においては山岳密教道場やその布教者「御行」との関係を強化することで乗り切り、現代に宗派を伝えている点は他の三教と同様であるが、彼らはその特徴から山岳においてではなく地方の大都市において勢力を拡大して近世を迎える。
(日蓮宗との問答などがあるがこれについては割愛する)
彼らが歴史の表舞台に再び登場するのは、戦国時代のカトリック伝来においてである。
景教という形で日本に土着していた彼らは、九州の大名が実施していた奴隷貿易に反対していたのである。
そこでカトリックと景教は再び出会った。
しかし、異端とされた人々への当時のスペイン人たちの嫌悪感はすさまじく、多くの場合景教諸派の虐殺がキリシタン諸大名の手によって横行する結果となる。
この動きが織田信長や豊臣秀吉を刺激し、最終的には禁教令に基づく鎖国体制へと移ったことを考えれば彼らの歴史的な役割はプロテスタント、すなわち「抗議する者」と同様であるといえよう。
そして江戸時代においては幕府公認の「三異教」のひとつとして旧天草のカトリック圏においてほぼ置き換わる形で信徒を拡大。
実のところ、景教側からみると、奇跡とされた「信徒発見」は複雑な感情を喚起せざるを得ないものであったことがこの流れからはよくわかるであろう。
カトリックの敬虔な人々が「殉教」する傍らで景教に吸収されていったことは景教側からすれば「狂信的」であり、同じ啓典の人々を殉教させたことは悪感情を沸き起こらせるのに十分であったのである。

こうした歴史的経緯から、カトリック諸派との関係は初期を除けば明治中期の1889年におけるローマへの使節派遣までぎくしゃくしたものであった。
現在の日本においてキリスト教の最大宗派であり、九州北部や近畿地方、関東地方の地方都市部や北海道に一定数の人々が存在することは日本人の対外認識において一定の親近感をもたらす役割を果たしているといえるだろう。
極端な話、「彼らがいなければ日本人はもっと対外恐怖症であった」とさえ笑い話として語られていることはあながち間違いではない。

149 :ひゅうが:2013/12/27(金) 19:09:08
【ゾロアスター教】

ゾロアスター教は、よく知られるように善神アフラ・マズダと悪神アーリマンの二元論を用いた神話を有する。
ササン朝ペルシアの国教であったために、ペルシア人の信者は数多く、景教よりも比較的容易に唐の長安へ移入することができた。
しかし、ササン朝ペルシアと唐王朝はタラス河畔の戦いにおいて交戦経験があり、ペルシア人の移入はそれなりに限定されている。
であるため、景教とほぼ同様に日本への移入において絶対数は限定されていた。
ゾロアスター教の特徴となるのは、善神アフラ・マズダを象徴するものが火であることにある。
そのため拝火教という名があてられることが多く、その性質から山岳系神道と親和性が高かった。
さらには戒律的な面での縛りが一般信徒に対しては緩く、神官たちに対しては逆に強固であったために日本国内においては「権現崇拝」と習合されて中部地方の山岳地帯において大きな広がりをみせていった。
平安京においても拠点寺院「火天院」を有していたが、白山信仰や諏訪信仰の一形態として発展していったのである。
その過程で、ペルシアでは断絶した本家ではなかった竜神(蛇)信仰も習合され、相互に影響を与え合っていることは特筆すべきであろう。
元寇に際しては火龍権現元帥法といわれる火と龍(もともとはアーリマンの象徴であった)の双方を用いた呪法を用いていることは、この時点ですでに日本人的ないい加減さが発揮されていることをよく示しているといえよう。

この後、ゾロアスター教は日本人にとって神道の一種であると認識されていった。
後述するマニ教とは違い聖と賤を区別しつつ、災害などの非常時においてはこれを習合するという形は神道と非常に近い印象であったのだろう。
特に修験道において両者の区別は困難であった。
そのため、明治維新を下手両者の分離以後も神道との関係は良好である。
神道と同じく、都市民というよりは地方や村落の宗教であるといえよう。




【マニ教】

マニ教は、仏教とキリスト教、そしてゾロアスター教の習合的な宗教であった。
これら三者の教えの中に真の理を見いだすという形であるのは、日本の神仏習合の思想と親和性が非常に高かった。
その思想的特徴は、現世を汚れたものとしており、魂の救済を神によってなすというところである。
霊魂は清いものであり、神によって作られたが悪神により盗み出され、物質世界に閉じ込められた。
しかし神は救済を志しており、努力次第で昇天による救済がなるというわけである。
そしてそのために節制と修行を行うのであるが、これは仏教との親和性が非常に高かった。
なんとなれば、仏教自体も涅槃を目指すのであるから、それは当然といえよう。

そしてそのために、禁欲を中心にした欲求からの解脱が求められたのであるが、ここで第一の混交が起こった。
インドにおいて発展した後期密教において「聖と賤の逆転」が起こり、その影響が唐のマニ教にも及んだのである。
これは、墓場においてそれまでは禁忌とされた女性との交わりを通じて修行を行うという思わず耳を疑うかのような修行法が言及される(出典ヘービバジュラ・タントラ)後期密教の思想の大転回がマニ教にも移入されたことを示している。
すなわち、極端な禁欲主義をとる僧籍者においても修行の完成には一般の俗欲が必要であり、それから解脱してはじめて修行が完成するという内容である。
この理論を用い、俗世に生きる人々は俗世で生きるという「修行」をしているということになり、喜捨により聖界の修行を代行してもらうという形をとったのである。

150 :ひゅうが:2013/12/27(金) 19:10:00
この思想的な転回により、マニ教の欠点となり大陸での絶滅を招くことになった「禁欲的でありすぎるがための絶対的な信徒数の維持が不可能となる」といった欠点は克服された。
しかしそれは、マニ教をマニ教たらしめていた宗教的な厳密性を大きく変質させる結果となる。
そうしたとき、マニ教は現代でいう諸宗教の統一を目指すエキュメニズム的な哲学の宗教へ変質を遂げたのである。
中世以降の日本の哲学思想においてマニ教は大きな足跡を残す結果となったのであった。
日本の「宣教師の墓場」といわれるようなキリスト教などの化身や他の信仰を認めない一神教への疑義はこれにより培われたとさえいえるのである。
そのため、「日本におけるスコラ哲学」と称されることが多い。
(戦国時代においてはキリシタン大名たちに問答を挑み、景教と違い抵抗できずに殺戮されることとなった)

マニ教は、教祖自ら筆を執り美しい写本を作ったことから分かるように美術に大きな関心を寄せた宗教である。
そして、諸宗教の統一的な思想を目指していたことや元来が都市性の高い宗教であったことから、比較的富裕な都市民とその援助を受ける寺院という型式が室町時代には成立する。
豪華な装飾写本や絵を描くにはこうした資金が必要であるのだ。
こうして彼らは京都を中心として各地の都市に少なくない信徒を獲得した。
ゾロアスター教と違い、都市民の哲学的な宗教であったために現代の日本の大学で研究されている哲学大系に大きな影響を与えたことは無視できないといえよう。






【あとがき】――というわけで、投下いたしました。
まじめに想定していたためにずいぶん時間がかかってしまいました。
最終更新:2014年05月21日 22:02