251 :トーゴー:2014/04/10(木) 23:38:25
気分転換に書いていたAEUvsEU正統政府モノが完成したので、一応5分後に投稿します。
注意
私は軍事の素人であり、架空戦記もそんなに読んだりしていませんのでツッコミどころが多数あるとは思います。
そもそも気分転換に書いたものですし。
- EU正統政府は大半がロクデナシ
- オセアニアの諜報組織凄い
ということで多少はこじつける感じでお願いします。
252 :トーゴー:2014/04/10(木) 23:43:25
ユーロ・アフリカ戦争 中東戦線
ユーロ・アフリカ戦争(別名:アフリカ解放戦争)とは、アフリカ大陸の過半を領するEU正統政府が
AEU領イベリア半島、イタリア半島、バルカン半島及びパレスチナ王国に侵攻して始まった戦争である。
EU正統政府軍の侵攻部隊はイベリア方面軍、イタリア方面軍、バルカン方面軍、中東方面軍の四つであったが、
このうちもっとも戦果を上げたのはEU正統政府が最も期待していなかった中東方面軍であった。
その要因としては、
- 中東のAEU領は旧EU時代に欧州に比べて冷遇されており、その分オセアニア諜報組織が浸透していたこと。
- 中東のAEU領には旧EU時代からの有能な政治家やユーロブリタニア貴族がおらず、人材的に劣っていたこと。
- 中東のAEU領には有力な軍事力を擁する国家は存在せず、増援を送ることが可能な国からも遠かったこと。
- EU正統政府の有能な将帥は大半が冷遇されていたが、政府から最も地味な戦線を思われていたので彼らが投入されたこと。
等が挙げられる。
では、その中東方面軍がどのような道程を辿ったのかを見ていくとしよう。
253 :トーゴー:2014/04/10(木) 23:44:38
1.戦前の情勢
アドルフ・ヒトラーがユーロブリタニアとの統合を決定して以降、列強の一角EUは二つに分裂することとなった。
一つはヒトラーらEU主流派とブリタニア大陸より帰還したユーロブリタニアが統合した、欧州を治めるAEU。
もう一つは、ユーロブリタニアを認めないEU反主流派によって設立された、アフリカを治めるEU正統政府。
国力ではEU正統政府が劣勢であったが、彼らには合衆国オセアニアが影から支援を行っており、
EU正統政府首脳部もまた意気旺盛であった。
両者は相容れぬ関係であり、いつ軍事衝突してもおかしくないことは誰もが承知していた。
AEUはEU正統政府の攻撃を予期していたものの、それへの対応以外にもやらなければならない事が多かった上に
オセアニアの策動により各地に潜伏する共和制シンパの狩りだしも上手くいっていなかった。
よってしばらくは攻撃が予想される地域に軍を集中し守りを固めつつ、反乱分子の排除を進める他なかった。
一方のEU正統政府首脳部は欧州に解放軍(EU正統政府主観)を送り込めば、
民衆は歓呼してEU正統政府軍を迎え進んで協力するであろうと根拠の無い自信を抱いていた。
オセアニアの協力もあり相応の軍事力とそれを支える兵站能力を持ち各地に工作員を送り込んだ彼らであったが、
何年も経てばAEUは体制を固めるであろうから、早期に戦争に打って出るべしという意見が主流であった。
(もっとも、それは名目で本心では失った地位や利権を取り戻したい・ユーロブリタニアに欧州ででかい顔をさせるのが我慢ならない・そもそもアフリカになどいたくない等々の個人的な理由で早期の侵攻を望む者も多かったのであるが。)
しかしながら軍事力そのものはAEUが上回っていることも承知しており、
その分は謀略に長けるオセアニアの協力の下、
各地の工作組織を使って武装蜂起やテロを行わせAEU軍を撹乱、足止めさせて補うとされた。
よって、開戦後のAEU領各地では扇動された共和主義者が蜂起する。
特に広大な為に付け入る隙の多い旧ロシア自治州では、清経由で工作が行いやすかったこともあり各地で反乱が発生。
中核部や軍事基地周辺などは問題なかったものの、辺境では共和制シンパに占拠される地域も出ることとなった。
254 :トーゴー:2014/04/10(木) 23:45:48
2.EU正統政府の戦争計画
EU正統政府軍の欧州解放作戦『ジャッジメント』の一翼を担う中東方面軍の作戦は『ケンタウルス』作戦と命名された。
計画段階において、中東方面軍はまずパレスチナ王国を占領し、そのままレバノン、シリア、トルコと北上して
その後は一軍をもって西進させバルカン方面軍と握手、主力は共和制シンパの蜂起で混乱するコーカサス三国を攻め落とし
共和制シンパによって『解放』されたロシアの北カフカース地方へ入城するという作戦を行うことになっていた。
この計画の問題点として、パレスチナ王国を攻撃することにより
パレスチナが属する西アジア条約機構(WATO)の参戦を招くことになるという意見が挙がったが、
西アジア条約機構軍の多くは長きにわたる平和によって弛緩している上にまともなKMFが存在せず、
独自に開発したKMFもどきの機動兵器バミデスを持つのみであり、
また盟主サウジアラビア王国は数年前に強力なカリスマをもって中東を纏めてきた国王を亡くしており、
中東第二位の国力を持ちサウジアラビアとは仲の悪いイラク王国が独自の動きを見せ始めていたことから
戦えば必ず勝てると考えられ、むしろ西アジア条約機構を屈服させ財産を巻き上げ、肉壁を用意させようという結論になった。
(パレスチナを通らず海路を用いてレバノンへ上陸するという手段もあったが、大半の輸送船が他の戦線に回されてしまっている為現実的ではなく、結局AEU海軍に周辺海域の制海権を握らせない程度の海軍が投入されることとなった。)
中東方面軍の計画は変更され、パレスチナを制圧しレバノンとシリア南西部を攻略した後は同地周辺の維持に注力し、
主力をヨルダン王国に侵攻させてそのまま南下しサウジアラビアを攻撃、西アジア条約機構を屈服させ、
その後にAEU領への進撃を再開するとされた。
また西アジア条約機構加盟国でまともな軍事力を持つのはサウジアラビアとイラクのみであることから、
イラク政府に接触してサウジアラビアに代わる中東の盟主の座をちらつかせて味方へ引き入れる、
それがかなわなくともイラクにおける共和主義者の蜂起を偽装してイラク軍が遅れる名目を作り、
事実上の不参戦に持ち込むこととされた。
(西アジア条約機構加盟国全てを占領下に置き収奪と奴隷化を行うべしという意見もあったが、一時的ならともかく恒久的な中東全域の占領には兵力が不足しているとされ見送られた)
255 :トーゴー:2014/04/10(木) 23:47:04
3.EU正統政府軍の攻勢
EU正統政府軍がAEUに宣戦しイベリア・イタリア・バルカンで同時攻勢に出たのに遅れて、中東方面軍は北上を開始した。
まさか自分が攻められるとは夢にも思っていなかったパレスチナはたちまち制圧され、
EU正統政府軍はそのままAEU領レバノン・シリアへと雪崩れ込む。
シリア・レバノンは元々国力があるわけではなく、ユーロブリタニアに属する貴族もいなかったことから軍事的には弱体であり、
一応EU正統政府軍の侵攻に備えてAEU連邦軍が配置されていたものの、
エジプトのEU正統政府軍が動くこともなければ同地で共和主義者が蜂起することもなかった為、
バルカン半島への攻撃や北方の混乱への対応の為に大半が移動してしまっていた。
オセアニア諜報部(EU正統政府諜報部に非ず)の活動によって
EU正統政府は西アジア条約機構の参戦によってAEU軍が中東経由でEU正統政府軍の側面を突くことを恐れており、
中東方面軍にも十分な数の輸送船が配備され、それを用いて強襲上陸を行ってくるとの偽情報を信じ、
海軍さえ置いておけば多少陸軍を手薄にしても防御施設を用いての防衛が可能と判断されたことも大きかった。
パレスチナが攻撃されるとAEUは慌てて両国の防御を固めようとしたが、
北カフカースを占拠した自称『カフカース共和政府』が混乱が続くコーカサス三国への介入の構えを見せたことと、
オセアニアの扇動による共和主義者の蜂起によってレバノン・シリア南部への兵力移動は困難を極めた。
結局AEU軍は残っていた兵力のみでEU正統政府軍を迎え撃つこととなったが、
レバノン・シリア軍と少数の連邦軍だけではEU正統政府軍の攻勢を押し止めることはかなわず、
多くの防御施設も海上からの攻撃に主眼が置かれ陸軍の北上には無力であった。
レバノン・シリア両軍主力を粉砕しダマスカスを落としたEU正統政府軍は、
レバノンとシリア南西部の守りを固めると、守備部隊を残してヨルダン王国へと侵攻した。
既にイラク政府との取引は終わり、味方には引き入れられなかったが事実上の不参戦に持ち込むことに成功していたのだ。
数でも質でも勝るEU正統政府軍は抵抗するヨルダン軍を蹴散らし首都アンマンを占拠するが、
その頃ヨルダン南東部にはサウジアラビア軍を中心とする西アジア条約機構軍が展開していた。
彼らは砂漠地帯で地の利を生かしてEU正統政府軍を食い止め、さらなる進軍を阻む。
加えて中東方面軍の後方をゲリラ的に襲撃して補給線を荒らす手段に出た。
元々中東方面軍は他方面の部隊に比べて兵器の質が低い。
AEU軍もまた中東には比較的旧式の兵器が配備された部隊を置いていたのでAEU軍との戦いでは問題なかったのだが、
中東方面軍の兵器には西アジア条約機構軍の地の利を覆すだけの力が無かった。
また、補給面でも最も優先順位は低く扱われており、その上補給線を荒らされたので本来の実力を出せなくなっていた。
最新型のKMFが多数配備されていれば、補給が万全であれば、西アジア条約機構軍を退けるのも不可能ではなかっただろう。
しかしそれは、EU正統政府の高官たちに疎まれている中東方面軍の将軍たちにはどうにもならないことであった。
また、そもそも中東方面軍にとって西アジア条約機構軍との戦闘は寄り道のようなもので、本命はAEU領への侵攻であることから、
西アジア条約機構軍との戦闘で無理をして戦力を消耗したくないという心理も攻勢を鈍らせていた。
EU正統政府軍はどうにか敵軍を突破しようとするも、西アジア条約機構軍は天候にも助けられ善戦を続ける。
一向に好転せず時間が経つばかりの戦況に、
中東方面軍参謀長のエラン大将はここで時間を浪費するより主力をシリアに戻して北上を再開すべし、
西アジア条約機構軍は守勢には強くとも単独で本格的な攻勢に出る力はないのだから
ある程度の守備隊を置けば放置して構わないはずと進言するが、
中東方面軍司令官のガムラン上級大将は西アジア条約機構如きに引き下がっては弱兵と侮られると却下し、
正面からの攻勢を続行させるが、戦果は上がらず戦況は膠着する。
256 :トーゴー:2014/04/10(木) 23:48:44
4.AEU軍の反撃
こうして中東方面軍が砂漠に足を取られている頃、他方面のEU正統政府軍は敗走しつつあった。
イタリア方面軍はAEU軍に手も足も出ず、イタリアへの攻勢はドイツ軍やイタリア軍に活躍の機会を与えるだけに終わる。
イベリア方面への侵攻も失敗に終わり、バルカン方面軍はまだ欧州で戦っていたが、
体制を整えたAEU軍は続々と前線に増援を送りこんでおり、いずれ地中海に叩き落されることは確実であった。
慌てたEU正統政府は少なくとも負けてはいない中東方面軍から部隊を引き抜き、他の戦線に充てさせたが、
兵力減少した中東方面軍では疲弊の色を見せ始めた西アジア条約機構軍を撃破することは出来ず、
かといって主力を北上させても既に北シリアには有力なAEU軍が展開し、
ダマスカス奪回の為に南下しているという状態であったから守勢に回らざるを得ない、という手詰まり状態に陥ってしまった。
周辺を荒らすはずだったカフカース共和政府も、チェチェン人等の少数民族の抵抗組織によって思うように動けないまま
周囲の共和主義組織共々AEU軍に鎮圧されつつあり、中東方面軍は孤立無援となりつつあった。
それでも尚意地になって攻勢を命じるガムラン上級大将の下、
西アジア条約機構軍との戦闘に拘泥する中東方面軍司令部に凶報が飛び込んできた。
AEU連邦軍がヨルダン東部に出現、さらにイラク軍が進撃を開始したのだ。
257 :トーゴー:2014/04/10(木) 23:49:42
5.中東方面軍の後退
EU正統政府軍と手を結んだかに見えたイラク王国であったが、それは偽りであった。
イラクはサウジアラビアを嫌ってはいたが、それ以上にEU正統政府への不信感が強く、
白人至上主義の傾向にあるEU正統政府に西アジアを委ねることを良しとしなかったのだ。
イラクはEU正統政府と取引したように見せてサウジアラビア及びAEUと連絡、
密かにAEU軍を中東に招き入れ、タイミングを見計らってEU正統政府軍を横から殴りつける手はずになっていた。
無論中東方面軍にしてもイラクを全面的に信用していたわけではなかったが、
予想以上の奮戦を見せる西アジア条約機構軍や劣勢の他方面の友軍に気を取られ、イラクへの注意が疎かになっていたのだ。
これはこれまで諜報面でEU正統政府を支援してきたオセアニアが、
EU正統政府軍の不甲斐なさにEU正統政府を見限り、非協力的になっていたのも大きかった。
地理の不案内なEU正統政府軍は、イラク軍の助力を得て密かに接近していたAEU軍に気づくのが遅れた。
急遽アンマンから出撃したブレジェン少将が遅滞戦術を行い時間を稼いでいたが、
このままでは中東方面軍主力の後方拠点となっているアンマンの陥落は不可避であり、
中東方面軍主力はサウジアラビアへの侵攻を断念してアンマンへと後退した。
幸い西アジア条約機構軍に本格的な追撃を行う余力はなく、AEU軍より先にアンマンに到着することができたが、
AEU軍の増援はトルコ・シリアからイラクを経由して続々と進軍中であり、
中東方面軍司令部はアンマンの防備を固め立て籠もるか、放棄するかの決断を強いられることとなった。
アンマンは中東方面軍にとってサウジアラビア侵攻の為の後方拠点でしかなく、その防備は整備されているとは言い難い。
中東方面軍主力が籠れば接近中のAEU軍とイラク軍の兵力では攻め落とせないだろうが、
このままAEU軍の兵力が増大していけばどうなるかは分からない。
そもそもアンマンはEU正統政府軍にとっては死守しなければならない土地ではなく、
アンマン保持の為に兵力を擦り減らすのは中東方面軍司令部にとって避けたいところであった。
しかし中東方面軍の兵士たちは西アジア条約機構軍との戦闘と砂漠での強行軍によって疲弊しており、
迅速な撤退が可能とは思えず、撤退を強行すればAEU軍の追撃によって大損害を被るおそれもあった。
この時、中東方面軍主力は損害覚悟で撤退すべきであったのかもしれない。
しかし、ガムラン上級大将はこのまま撤退しても本国で責任を問われるだけではないかとの思いから決断できず、
中東方面軍主力は撤退の機会を逃すこととなる。
258 :トーゴー:2014/04/10(木) 23:50:27
6.中東戦線の集結
AEU軍とイラク軍がアンマンへの攻撃を開始した頃、戦争全体の戦況は完全にAEUに傾いていた。
バルカン方面軍を撃破し欧州からEU正統政府軍を駆逐したAEU軍は逆侵攻に入り、
北アフリカ各地にAEU軍が上陸していた。
兵力を消耗し侵攻などできる状態ではなくなったEU正統政府は、中東方面軍に中東からの完全撤退を命じるが、
アンマン攻撃軍にはAEUの後続部隊は元より休息・再編成を終えた西アジア条約機構軍主力まで加わり、
アンマンに容赦のない攻撃を浴びせていた。
中東方面軍主力はそれを防ぐのに手一杯で撤退の準備をするような余裕はなく、
無理に撤退などしたらそのまま全軍潰走となりかねず、撤退したくてもできない状態に陥っていた。
こうして打開策のないままひたすら守りを固める中東方面軍主力にも、最後の時が訪れる。
AEU軍の猛攻に耐え続けていたシリア戦線がついに崩壊。守将オルリー大将は討死した。
シリアのAEU軍はそのまま南下してパレスチナに侵入。退路と補給線を断たれた中東方面軍の命運は決した。
パレスチナよりAEU軍が出現するに至り、ガムラン上級大将は抗戦を断念し降伏勧告を受諾。
EU正統政府中東方面軍は消滅した。
この頃AEU軍は既に北アフリカの過半を制し、EU正統政府は裏切り・投降が相次いで崩壊が始まりつつあった。
汚名に塗れたEU正統政府の歴史の中で、中東方面軍の戦歴は唯一輝きを放つものであり、
中東方面軍の将帥たちは(一部を除いて)我欲によってEU正統政府に参加したのではなく、
武人として古きEUに殉じた者たちであったと評された。
259 :トーゴー:2014/04/10(木) 23:58:58
以上です。
中東戦線しか書かなかったのは、他の戦線はわざわざSSに描くほどマトモな戦争になってないからです。
イタリア戦線なんて本編でも書いてあるようにドイツ・イタリア無双ですし。
あ、ドイツはともかくイタリアが無双した理由としては諸説ありますが
一説には、イタリアで大人気のアイドルグループが設立にドゥーチェが関わっていた為に
EU正統政府軍に酷い目に遭わされるかもしれない、という噂にイタリア兵たちが奮起した為と言われています。
オセアニアが欧州各地に潜り込ませた組織を派手に暴れさせたのは、
AEUのEU残党狩りにオセアニア勢力下の組織が巻きこまれることを嫌い、
派手に暴れさせつつも一部の組織には潜伏を命じ、
これだけ大規模に暴れたのだから手駒を全て動かしたのだろうとAEUに思わせる為という目的もあります。
そう上手くはいかなかったのですが。
ちなみにサウジアラビア軍を指揮していたのはオズの宰相閣下です。
また、オルリー大将を討ち取ったのはオルフェウスだったりします。
何故彼がAEUにいるのかは後々…
最終更新:2014年05月25日 19:28