- 123. yukikaze 2011/12/05(月) 22:55:42
- earth様とひゅうが氏に敬意を表して。
こういう視点もありかなと。
1943年3月3日。
後に「涙の雛祭り」と称されるこの日。
前年の戦争で徹底的に追い詰められたアメリカーロング大統領は、ついに
禁断の手段に手を伸ばした。
『オペレーション・ダウンフォール』
これまでの海戦で生き残った、宝石よりも貴重な空母であるホーネットと
エンタープライズを使い、B-25に搭載した毒ガス弾によって、日本の主要都市を攻撃。
日本の中枢を破壊することによって、戦局を一気に好転させようとする、外道ともいうべき作戦は
日本側がアラスカ侵攻作戦を開始したのと合わせて挙行された。
そして日本側の対応は後手に回った。
サンディエゴから彼らが出撃したのは判明していたのだが、日本側はそれを
「アラスカ救援の為」という先入観から、「アラスカーサンディエゴ」のラインでの
索敵を重視し、結果的に日本本土進攻を許してしまう。
更に悪いことに、彼らが発見されても、本土にいた実戦部隊は、「海軍機が空襲するには時間がかかる」
と、判断しており、情報を聞いた夢幻会上層部が、最優先命令で第一種警戒態勢を発令した時には、
B-25はすでに発艦した後であった。
その後は、何としても爆撃を成功させようとするドーリットル隊と、「生物・化学兵器の搭載の恐れが大」という
情報に、それこそ死に物狂いで彼らを撃墜しようとする本土防空部隊の鬼気迫る死闘であった。
何と言っても搭載しているものがものである。仮に撃墜できたとしても、家屋が密集している所に落ちれば
とんでもない事態を引き起こしかねない。
スクランブルした機の中には、それこそ機銃弾が尽きてしまったため、体当たりして落としたのもいたほどである。
だが、防空部隊の奮戦もむなしく、全てを防ぎきることはできなかった。
出撃した16機の内、超低空飛行した2機が成功(のちに撃墜)。更に撃墜した機体が地上で爆発し、ガスが広範囲に漏れるという
事例も1件あった。
これにより、東京・横浜・名古屋において、死傷者が合計一万人を超える大惨事となった。
これは爆撃時間時が正午過ぎであって、ちょうど昼の準備をしている家庭も多く、
毒ガスでの死亡よりも、二次災害の火災によって死亡した人間の方が多かったのだが、
そんなことは何の慰めにもならなかった。
まさに近代日本の戦争の中でも、悲劇的と言ってよい代物であった。
- 136. yukikaze 2011/12/05(月) 23:23:34
- だが、この爆撃における最大の悲劇は、何と言っても横浜の爆撃であった。
当初は横須賀を狙う予定であったが、東京方面に向かった部隊が、次々と
通信が途絶したことに、横須賀の攻撃は不可能と判断した機長は、横浜に
超低空で侵攻。爆撃に成功する。
だが、彼が爆撃をした地区には、捕虜収容所があったのである。
元々は外国人居留地域だったのだが、第二次大戦以来、多くの外国人がこの地を離れ
(亡命ロシア人や帰化人を除く)たまたま空いていたこの地を国が買い取って捕虜収容所としていたのである。
勿論、機長はそんなことも知らず、何かの組み立て工場とそれに隣接する住宅地と思って攻撃したのだが。
そして更に悪いことに、この日、捕虜収容所には、近所の小学校が交流に来ており
ちょっとした催し物が近隣住民たちとともに開催されていたのだった。
第一次大戦以来続いていた伝統であったのだが、この時ばかりは最悪であった。
大人・子供・捕虜の区別なく、多くの子供が犠牲となった。
ある捕虜は、子供を助けようと、自分の胸に抱きしめ、子供ともども絶命したのだが、
そういった光景は至る所でみられることになった。
このロングの蛮行は、まさしく日本人の怒りの最後のトリガーを引き落とすのに十分だった。
女子供だけでなく、自国民すら毒ガスで殺す外道。
そんな輩に怒りを持つなというのが無理であった。
そして、ロングが全く想像できない所で怒りの炎を燃やす者たちがいた。
『全世界の皆さん。私は皆さんに真実を告白いたします』
そういって、ラジオの前に立ったのは、脱出した潜水艦が拿捕され捕虜となった
在中米軍総司令官ジョセフ・スティルウェル中将。
捕虜となった彼は、これまで日本側の尋問に対して常に黙秘を続けていたのだが、
今回の爆撃を聞いた瞬間、日本側の担当官にすべてを告げ、更にそれを自分の口で
全世界に告白してもよいと述べた。
突然の変貌に驚く担当官に、彼は冷たい笑みを浮かべてこう答えた。
『国がわれらを捨てたのだ。ならばわれらが国を捨てたところで文句は言えまい』
スティルウェル中将により、そもそもの戦争の原因となっていた、満州での銃撃事件が
実は張学良による自作自演のものであったことがものの見事に暴露され、更にロングが
それを知りつつ、日本を叩き潰すために利用したことが明らかにされた。
これにより、アメリカの正統性は完膚なきまでに打ち崩され、全世界がアメリカを見限った。
それがどれほどのものであったかは、ヒトラー総統の言葉がすべてを物語っていた。
「これからアメリカがどのような目に会おうとも、誰からも同情されない。未来永劫に」
アメリカが日本の容赦のない報復によって、国が半身不随状態となって無条件降伏するのは
これよりのち1943年8月15日まで待たなければならない。
最終更新:2012年01月01日 19:57