695 :フォレストン:2014/06/26(木) 12:06:09
チートの基本は計算器から
夢幻会。
列強筆頭にして、世界最強国家である大日本帝国を影で操る秘密結社というのが、関係者の一般的な認識なのであるが、その活動が本格的に始まったのは日清戦争の前後とされている。
未来知識を持つ逆行者であるが、日清戦争どころか遡れば平安時代には既に存在していたことが後世になって確認されている。しかし、過去の時代の逆行者達は基本的に単独で行動していた。
これは簡単な話で、その時代に20世紀の価値観を持ち込んでも理解出来る者が存在しなかったからである。(影響を受けた者はいたが)
同様の価値観を有する逆行者達が手を組めれば最善なのであるが、その当時の情報伝達手段では逆行者同士が出会う確立は限り無く低かったのである。
結局のところ、逆行者同士が存在を確認して夢幻会を設立することになるのは、電信機や新聞等のマスメディアが発達し始める近代に入ってからとなる。
さて、ここからが本題である。
趣味や欲望に走った者を除いた、いわゆる一般的?な逆行者が一度は挑戦し、そして挫折したものが存在した。
20世紀の人間からしてみれば、存在自体がありふれ過ぎてイマイチ有り難味を実感出来ないもの。ずばり計算器である。
何かを作るためには必ず計算しなければならないのであるから当然であるが、簡易な計算なら算盤で十分なのであるが、より大規模に大量に計算するとなると、どうしても計算器が必要だった。そのため時代を問わず、逆行者達は計算器の作成に手を染めることになるのである。
計算というと、普通は機械式計算器を指すのが一般的であるが、原理そのものは17世紀には確立し、その後世界各地で試作されている。
当然、逆行者達もそれに倣ったのであるが、機械式計算器の構造を理解している人間が少なかったことと、金属加工技術が未発達であったために最終的に全て失敗に終わったのである。
時代は明治に入り、本格的に活動を始めた夢幻会でも計算器の開発は重要課題となっていた。
1874年に開発されたオドネル型計算機を真っ先に輸入し、当時としては破格の奨励金を出して国内のメーカーに国産化を図らせたのである。
計算の結果を出すという意味では、計算器のカテゴリーに含めても良いであろう計算尺が実用化されたのもこのころである。
1895年に逸見治郎によって完成された計算尺は、精度が非常に優れており、また価格も安かったことから、貴重な外貨稼ぎの手段として大々的に輸出されたのである。
一時期は世界シェアの9割を占めるほどにまでになるが、戦後の電卓の発展により衰退していくことになるのである。
現在も少数ではあるが生産され続けており、職業毎に目的を特化した計算尺は概算を知るうえで重宝されている。
計算器開発のもうひとつの流れとして、矢頭良一の自働算盤がある。
歯車式で1個の円筒と22枚の歯車から成り、算盤と同様の二五進法による独特の入力方式であり、乗算の桁送りも自動で行われ演算終了も自動であった。
機械式手回し計算機としては、当時最大の桁数8桁までの計算ができるもので、これらの機能においても外国製と比べて優れていた。
史実では1902年に開発、翌年に特許を取得しているのであるが、早くから目をつけていた夢幻会によって、資金提供が行われた結果、史実より数年早く実用化されて陸軍省、内務省、農事試験場等の公的機関に配備されたのである。
日露戦争時に陸軍が大々的に採用し、兵站総監部で膨大な兵站を管理するために使用されたのであるが、当時としては高価な計算器が一人一台配備され、担当仕官達が黙々とハンドルを回す姿はある意味異様であったと、当時の関係者が述懐している。
なお、陸軍だけでなく海軍にも採用されており、黄海海戦、日本海海戦において砲戦時の緒元計算の補助として用いられていた。
このように優れた性能を持っていた自働算盤であるが、入力方式が二五進方式であるため数値の入力に慣れが必要なことと、オドネル型をより高性能化した国産の機械式計算器が台頭してきたことにより、徐々に数を減らしていったのである。
696 :フォレストン:2014/06/26(木) 12:14:04
奨励金を出して国産化に励んだ結果、史実より5年早い1918年に大本鉄鋼所(現:タイガー計算機株式会社)よりタイガー計算器が発売された。
史実とは異なり、最初からタイガー計算器として売り出した背景には、社長である大本寅治郎に知人からの助言があったと言われるが定かではない。
これを皮切りに続々と後発メーカーが計算器市場に参入し、熾烈な開発競争が行われることとなる。
当時の計算器は非常に高価であったため、最初は官公庁への納入がメインであったが、夢幻会による大々的な宣伝と購入助成のための補助金のおかげもあって、急速に普及していくことになる。
これほどまでに夢幻会が、計算器の普及に力を入れたのは、産業の育成・発展のためでもあるが、もうひとつ理由があった。
1923年。
神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の巨大地震は、史実では多大な犠牲者と経済的損失を発生させたが、夢幻会が事前に手を打っていたため人的損失は最小限に抑えることが出来た。
しかし、主要インフラが壊滅的打撃を受けた事、さらに多くの建物が倒壊してしまったことにより、速やかなる復興が必要であった。
鉄筋・鉄骨造の建築物や大工事には強度その他の計算を必要とし、しかも算盤や筆算では間に合わず大量の計算器が必要とされたのである。このころになると、機械式計算器は全国に普及しており、膨大な計算を片付けるのに大いに役立った。
急速な復興の影では、技師達が腕も折れんばかりに計算器のハンドルをぶん回していたのである。
1925年。
第一次五ヵ年計画が施行された。これは大規模な軍縮を進めると同時に、日本の重工業の育成を促進するものであり、製造部門の近代化や技術研究に大量の予算が投下されたのである。
計画の実現のために大量の計算器が必要になったのは言うまでもない。
当時の機械式計算器は小型高性能化が進み、価格も安価となり補助金無しでも庶民の手に届く物となっていた。
ライバルメーカーに差をつけるべく、各社が工夫を凝らした新製品を次々と発表していたのもこの時代である。
1930年代になるとトランジスタの開発に成功し、これによりコンピュータ開発の道が開かれることになるのであるが、夢幻会はこれを機密事項として厳重に秘匿したので、戦前から戦後に至るまで、庶民の計算機は手回し式の歯車計算機であった。
697 :フォレストン:2014/06/26(木) 12:29:48
第2次大戦後、電卓が開発されると計算器メーカーは岐路に立たされることとなった。
計算器メーカーの大半が廃業するか、電卓の生産に移行したのであるが、別の道を選んだメーカーも存在した。
タイガー計算機株式会社、日本計算機、パイロット萬年筆株式会社の3社は海外に活路を見出したのである。
列強の中でも最も早い時期に機械式計算機が普及した日本であるが、国内需要を満たすのが精一杯で海外へはほとんど輸出をしてこなかった。
機能を限定してコストダウンしても割高であったが、メイド イン ジャパンというネームバリューがあれば、インドネシアやベトナムをはじめとした親日国家に売れるのではないかと考えられたのである。
最初は日本と同じく官公庁への納入が主力であったが、経済発展に伴う建設ラッシュにより大量の計算器が必要となり注文が殺到した。
現地の代理店の在庫はあっという間に底を尽き、手に入らないのに業を煮やした現地の建設会社が、直接日本まで買い付けに来ることもあったという。
親日国家だけでなく、敵対的な欧州枢軸にも日本製機械式計算機は輸出された。
欧州への輸出はイタリア王国を介して行われたのであるが、これは当時の統領ムッソリーニが、日本との関係を強化して日欧の仲介者となることを目論んでおり、日本との本格的な貿易を望んでいたからである。
欧州へ輸出された機械式計算機であるが、コストダウンしたモデルだけでなく、高級機も輸出された。金額ベースで見るならば、むしろそちらがメインと言っても良いぐらいである。
価格を安くしても、どうせ関税を取られるのだから付加価値の高い商品を輸出しようというわけである。
肝心の高級機であるが、当時の日本人の凝り性と変態技術がふんだんに盛り込まれていた。
- 高出力モーターと精密加工ギアによるフリクション低減による超高速電動計算器。
- 平方根展開、任意の場所で四捨五入が可能な全自動電動計算器。
史実では、機械式計算器の最終発展型として発売されたものばかりである。
『試作はともかく、量産は不可能である』
解析にあたったブルンスピガ社の計算器技師の言葉が全てを表していると言えよう。
同等品を作ることは可能であっても、関税を含めても日本製よりも割高になることは避けられないため、欧州の企業はこぞって日本製の機械式計算器を導入したのである。
このころになると、既に国内では電卓戦争が始まっており、政府(夢幻会)の指導により、1965年に機械式計算器の製造権を設備もろとも欧州枢軸側へ(高値で)売却。
その後は、各社とも概ね史実にそった事業を展開していくこととなる。
この結果、欧州では機械式計算器が主流となり、さらなる小型高性能化が進められていった。
文字通りの手のひらサイズの手回し式計算器や、モーター駆動型のクルタ計算器など、史実とは全く異なった異様な進化を遂げることとなる。
ちなみに同じ欧州でも英国は論外…もとい、例外であり欧州とはまた違った進化を遂げており、パラメトロンを使用した電卓(アレフゼロ 101相当)が開発発展していくことになるのであるが、それはまた別の話である。
698 :フォレストン:2014/06/26(木) 12:41:45
あとがき
というわけで、計算器について書いてみました。
正直、チートな日本の支援SSなんて書いてもしょうがないなとも思っていたりするのですが、ネタの神様には逆らえませんでしたw
近代科学は計算無くして語ることは出来ません。それゆえに憂鬱日本では、かなり早期の段階から計算器の製作を試みていたはずです。
ただし、以下の理由で明治になるまでは試作はともかく量産することは不可能と思われます。
- 金属加工技術の未発達(木製で代用しようにも気温湿度による伸び縮みで誤差が出る)
- アラビア数字が無い(導入されるのは江戸末期から明治初期)
なので、発足したばかりの夢幻会では計算器開発は至上命題だったと思うのです。
チートを実現するには地味で膨大な計算が必要なのです。
計算器の一種として、計算尺がありますが、あれは目的に特化しないと使い道が無いので、汎用計算器とは言えないですね。
ヘンミの計算尺はは史実では世界シェアの8割(!)を占めていた時期もあったということで、外貨獲得の手段として使わせてもらいました。
機械式計算器の一つの完成形である、オドネル型計算機は1874年に開発されているので、速攻で輸入して国産化すれば、史実よりも早くタイガー計算器を完成させることが出来ると思います。
拙作SSでは奨励金まで出して開発させた結果、史実よりも5年早い登場となりました。
ちなみに、最初からタイガー計算器の名前で販売するように入れ知恵した知人はもちろん逆行者ですw
で、この機械式計算器をモーターで電動化したのが電動計算器です。
h ttp://www.youtube.com/watch?v=8WJk8rQse-I
上記の動画は電動計算器の一つであるモンロー型計算器です。計算尺とタイガー計算器も出てきます。
電卓戦争は史実では、1960年代後半~1970年代ですが、憂鬱世界では下手すると20年早い1940年代後半…さすがに夢幻会が止めそうなので、1950年代半ば以降ですかねぇ。
さすがに電卓が実用化されると、価格はともかく性能では太刀打ち出来ないので、廃業&事業転換を迫られるでしょう。どうせ捨てる技術なら利用してしまえとばかりに、拙作SSでは夢幻会にミスディレクションの材料として使用しました。
まぁ、開発元の計算器メーカーは全く損をしていないどころか、事業転換のための資金を得ることが出来たので良しとしましょう(酷
ちなみに史実の電卓戦争については、ここが詳しいです。
h ttp://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/history/calculator.html
パラメトロンでも頑張れば電卓になるのです。
生産ラインを完全自動化して生産効率を上げれば、直系2mmクラスのパラメトロンの実装技術がモノになれば、ある程度トランジスタ電卓とも戦えるはず!
計算器というか、コンピュータ関連の次なる革新は、やはりSystem/360でしょうが、こればかりは史実通りにはいかないでしょうね。
相対的に日本が不利になるから、やらないほうが良いと思いますが、あまり格差がつくとかえってやりづらいでしょうし。
史実では1965年に発売されていますが、10~15年くらい遅くなるかと思われます。
英国との関係が修復されて、本格的に交流を再開するかしないかくらいの時期かもしれませんね。
最終更新:2014年06月27日 17:56