152 :ひゅうが:2014/06/29(日) 00:52:01
※ 火葬戦記してみました。



戦後夢幻会ネタSS――その1「戦後の終わり 1951年」



「あいつら…ついにやりやがった!」

「ソ連領内への爆撃は我が国への攻撃とみなす、か。それでいて国連軍主力をつとめるアメリカを直接攻撃したわけではない。」

「そして我々への意趣返しか!」

「米国がわが国にかわって報復してもそれは及び腰となる。いや、憎たらしいほどに奴らは弱点をついたな。」

――ある日の「会合」にて


――1951年1月3日。日本国は再び戦争の悲劇をその肌で感じることとなった。
痛みと共に。
前年から起こりつつあった朝鮮戦争は、日本国の本格的復興の端緒を与えていた。
敗戦国として米軍による占領下にあった日本は、本国というよりはウォレス大統領の穏健的な方針によってイタリアなみとはいかないものの独立を保つことができていた。
これは、大戦末期の日本本土への進駐方針を巡って米ソが対立し、結果としていわゆる「ローゼンバーグ事件」といわれるソ連による合衆国への大々的なスパイ網が摘発されるなどしたことで旧敵国への扱いが少し緩んだことも理由である。
新聞はこぞって「日本に対する共産主義者の工作」を掻き立てており、真珠湾の責任を負う人々やスケープゴートとされた人々を除いては対日政策は比較的穏当であった(いささか独善的ではあったが)。
そして、北方で国境をソ連と接し、さらには劣勢に陥りつつある国民党と共産党が内戦を繰り広げる中華の「後方」日本の戦略的重要性。かくて主として陸海軍を中心とした現実的な人々によって日本占領は推進されることとなったのである。

連合国軍最高司令官として日本に駐留することになったジョージ・パットン元帥は欧州へ行った前任者マッカーサー以上の激烈な反共主義者であり、民主化だのなんだのといったことにはことさら興味がなかった。
そのため、航空禁止令や旧軍の武装解除こそ実施されたものの賠償艦の引き渡しや工業設備の解体などは低調であった。
(この点、ドイツへの苛烈な対応を行ったソ連と比較されることが多い。)

だが、そうしたある種「自由」な風潮の中で行われていた復興計画は周辺環境の変化により激変を余儀なくされる。
大陸における国民党軍の敗退と海南島への脱出、ソ連海軍による北方海域での度重なる挑発、スパイ船の運航、そして朝鮮戦争の勃発である。
もともと終戦の経緯によって強烈な反ソ感情を持つにいたった日本人は、あからさまにソ連が支援を行う朝鮮戦争において彼らへの支援をよしとしなかった。
それどころか、再開された軍需品生産において「兵站基地」としての日本の能力をフルに発揮するという決断をすら政府に強いたのである。

すべては、どさくさにまぎれてかすめとった進駐先の兵士をシベリアへ送り強制労働させるという「シベリア出兵への報復」を行ったスターリンの戦略ミスが原因だったが、これがソ連を激怒させることになる。
なぜなら、日本列島では警察予備隊と海上警備隊という実質的な日本陸海軍が誕生しつつあり、そこから転用された兵力は釜山を陥落させた北朝鮮軍の背後である仁川に上陸。
効果的な兵站遮断とB36まで参加した強烈極まる爆撃により、北朝鮮軍は「対馬へ逃げた軍ごと寝返った」部隊とともに半島南部に孤立することになったのだ。
しかも張り切った米空軍は特殊爆弾「クラウドメイカー」を用いた爆撃で実質的に北の首脳部を機能不全に陥れ、38度線を突破。
そこには国連軍の命令によって5年ぶりに実戦の場へ戻ってきた「日本国防海軍」の姿があった。
スターリンは激怒した。

154 :ひゅうが:2014/06/29(日) 00:53:08

当時、海南島へと追いつめた蒋介石軍への攻撃を強化させつつあった共産党軍は「日本からかすめとった」満州に居座るソ連軍への隔意を持っており参戦を見送り、必然的にソ連軍は「ソ連労農義勇軍」として北朝鮮へと加勢することになったのである。
そして、長すぎる冬が国連軍を壊走させたとき、米空軍はシベリアの諸都市ごと兵站基地を爆撃。
さらに特甲型警備艦「ながと」が国連軍としてウラジオストクを艦砲射撃するにおよび、狂える独裁者はついに禁断の炎を解き放った。

『ソ連軍による北海道 旭川市への人類史上初の核攻撃』

これが鉄の男による「警告」となった。
防空を担当していた米空軍の弁護をするなら、ソ連側が空爆に用いたツポレフTu-4はこのとき初披露された機体でなおかつ米軍のB29にそっくりであり、またソ連爆撃に向かった米空軍機のうち「はぐれた」機体であると誤認したことは、内陸の旭川市へとソ連機が侵入するのに十分な隙を生んでしまっていたのである。
ソ連政府はいった。

「義勇軍は核弾頭を保有せり。」と。


これへの返答は激烈であった。
ソ連ウラジオストクへの「強化原爆による報復攻撃」。
対するソ連側による潜水艦を用いた北海道函館市への核攻撃。
さらにそれに対する「3倍攻撃」での報復。
米ソが冷静になるまでに70万人以上が蒸発した。


この日、日本の「戦後」は終わりを告げる。
日清戦争以前へと極東情勢は後退し、40年もの長き「冷戦」は幕を上げることとなったのだ。
――そして、それはある秘密結社の、夢幻会の苦闘のはじまりでもあった。




【あとがき】――というわけで日本側にショックを与えてみました。
「だいたい米空軍が張り切りすぎたおかげ」といってみればそれまでですが…
最終更新:2014年07月09日 22:28