戦後夢幻会ネタSS――「再起するもの 1952年」


――西暦1952(昭和27)年3月31日 日本国 首都東京


「ハン。やっぱりマックの差し金だったか」

「そういわずに。閣下が政治家なんてガラじゃないことくらい彼も知っていますよ。
ですが――」

「政治か。『国務省と空軍のミスをおさえて的確な報復を実現した』ウォレス大統領閣下が誰かを後継者に指名するのを拒否しているから共和党の大統領候補の席が椅子取りゲームと化していると。」

公用車の中で、ジョージ・パットン元帥は不機嫌そうな顔をして腕を組んだ。
先ほどまでGHQ本部…いや今は第一生命館本館において日本政府やGHQ職員の人々から渡される花束に笑顔で応対していた姿が嘘のようだった。

すでに本年1月1日のポトマック講和条約発効をもって日本国の占領状態は解除が決まり、接収状態であった各地の建造物も返還が進んでいる。
そんな残務処理を行うために、総理府外局として設立されたばかりの国防庁の管轄下に移った第一生命館は3月31日までGHQ総司令部としての使用を許可されていた。
そして、その最後にあたっては今や「朝鮮戦争の英雄」となったジョージ・パットン元帥が最後にこの地を後にする。
本人にしてみれば、撤収の最後に司令官があたるのは「勇者の責務」なのだったが、そうした部分が「欧州での第三次大戦を防いだ男」ダグラス・マッカーサーにとっては気に入らないのだった。
だからこそ、帰還以後のパットン元帥の任地は今に至っても決まっていないのだ。

彼の上司が「共和党の大統領最有力候補」であるドワイト・アイゼンハワー元帥であったことも不利に働いていた。
まぁどちらでもいい。
そうパットンは思っていた。
核兵器が投入された新世代の戦争を戦い抜くには、合衆国は今やあまりにも未熟である。
であるなら、政治的な何がしかはさておいて彼はブラッドレーやアイゼンハワーの同僚としてあの憎むべきコミーどもに対抗する手段を整えなければならない。
そのためにマッカーサーの虚栄心が役に立つならさせておくべきだと彼は思っていた。

「俺も丸くなったもんだ。」

「閣下?」

「いや、なんでもないさ。これからどんな仕事ができるのか考えていただけさ。」

そうですか。と笑ったのは、彼の副官だった。
名をジョン・メークス中尉。
温和だが有能な男だった。
考えてみれば、彼もまたパットンの変化を強いた人物である。
かつて一等軍曹として欧州戦線に従軍していた彼は、パルレモにおいてパットンによって俗にいう「殴打事件」の被害者となっていた。
だが、シェルショック(戦争神経症)の度合いが比較的軽かった彼は逆に奮起し、復帰がかなわなかった他の兵士たちにかわってウェストポイントに志願。
特に希望して、1948年にパットンのもとに配属されていた。

パットンはこれを大いに喜んだ。

円熟味を増していた彼の人格は、こうした「一時の悲劇から立ち直った勇者」をことのほか気に入るようになっていたためだ。

「強さの中の優しさ、か。」

パットンの胸中に、勝者として敗者でありつつも勇者を有するこの国に赴任してからの日々が去来する。
敗戦に打ちひしがれる人々、生き残ってしまった苦悩を有しつつも義務を遂行しようとする人々。
唾棄すべき人々に惑わされる人々。
混沌の中にあって、パットンに協力的であった人々とともに彼は焦土と化した日本を再建してきた自負がある。
そして幾分かの独善がそこにあるということも。
そんなときには、彼らは、あのヨシダのもとにつどった人々は困ったような表情をして彼をたしなめた。
それが道理に沿っていれば、パットンはその意見を容れた。
基本的にアイゼンハワーにはあまり好かれていないタイプのパットンだったが、共産主義者にたいこうしなければならないという現実を見ていたウォレス大統領は良い意味で「現実的」だった。
だからこそ彼はこれまで7年間をこの地位にある。
そして痛恨の――パットンにしてみれば約束を破ることになってしまった――北海道核攻撃という外的要因があるにせよ、日本人たちはみごとに復興を果たしつつある。



「閣下。」

メークス中尉が彼を促した。
どうやら考え事をしていたらしい。

「どうぞ。」

促されるままに、パットンは公用車からすっくと降り立った。
「こりゃあ…」

ところは、東京都下、羽田飛行場。
そこには、絨毯とその左右に整列する兵士たちがいた。
驚いたのはその国籍だ。
左には、GHQ所属各国の軍人たち、そして右には…

「お前ら…」

日本国防陸軍 および国防海軍 そして国防空軍の軍服を着た兵士たち。
そしてパットンを補佐した「吉田機関」の人々。
首相 吉田茂もそこにはいる。
ターミナルの屋上には、おおっぴらに振ることができるようになった日の丸と米国の旗を持った市民たちがつめかけている。


「閣下。人間はいつでもやりなおすことできます。
ですが、それを認められる人間がそうは多くはないことを私たちは知っています。」


そう。
ここにつめかけた人々は知っている。
懲罰的な対日制裁を目の前の人物が抑制し、極東から見た北東アジアがいかに危険で厄介かを力説し、そして敗者の名誉を守ろうと尽力していたのかを。
大戦末期に発覚したモスクワの陰謀や原子爆弾開発計画の漏えいがアメリカ世論に大きな影を落としていたとはいえ、それに付け込んでまで祖国を――正確に言えばそこにいる勇者を信頼しようとしてくれたことは日本人にとって何よりの救いだったのだ。

公正。これ以上のものはない。

とりわけ昨年の悲劇において、パットンが真っ先に自分が監督する極東米空軍の失態を謝したことは、米国側の危惧をよそに彼の評価を不動としていた。

彼の目の前に現出した光景は、そういった理由であるものだった。


「ジョージ・パットン元帥に、捧ぇ、銃!!」


日本語の号令とともに、軍人たちは敬礼をささげ、文官は正装の帽を胸元へ。
そして一般人は思い思いに敬意をささげる。


「見ていますか?閣下。我々の、友軍です。」


ジョージ・パットン元帥は、「色気のある」敬礼でこれに答えた。
報道記者により記録されたその光景は、彼が自称するところのハンニバル将軍の凱旋式のようであったと称されることになる。
最終更新:2014年07月17日 00:38