727 :グアンタナモの人:2014/08/17(日) 23:19:46
大日本帝国海軍横須賀鎮守府を間近に望む海軍記念公園の一角に、ある軍艦が展示されている。
かつて連合艦隊の旗艦として日露戦争を戦い、現在は記念艦となっている<三笠>の隣にあるその軍艦は、
戦艦である<三笠>の十分の一にも満たない排水量と、一〇〇メートルを下回る全長しか持たない小さな軍艦だ。
だがしかし、その軍艦が築いた数々の偉業は、<三笠>に負けずとも劣るものではない。
日本初の国産完全鋼製軍艦として生まれ、<三笠>と並び立つまでに至った伝説の軍艦。
その軍艦の名を―――<畝傍>と言う。
――― 提督たちの憂鬱支援SS・軍艦畝傍 ―――
一八八四年半ば。
<畝傍>は日本初の国産完全鋼製軍艦として、二番艦の<海門>と共に当時の横須賀造船所で相次いで起工された。
これは間近に迫っているとされた清国との軍事衝突に備え、
海軍卿の川村純義が提出した軍艦船増強の建議が基となっている。
なお建議の時点では、三隻の大甲鉄艦を海外より購入する計画であったのだが、
軍艦の国産化を推進するという別の建議との兼ね合いにより、
二隻の大甲鉄艦(*1)の購入と、二隻の国産中甲鉄艦の建造に修正された。
このうち、国産中甲鉄艦と定められたのが、<畝傍>と<海門>であった。
<畝傍>型の設計は初の国産完全鋼製軍艦と言うこともあり、武装をやや控える代わりに復原性へ特に重きが置かれた。
これは設計に携わった日本人造船技官達の罷り間違っても沈めてはならない、という気迫が篭っていたとされ、
当艦の設計に協力していたフランス人造船技官らをして、設計に関して日本人は頑固で偏執的(*2)とまで言わしめたとされる。
また<畝傍>型のもう一つの特徴として、可能な限り速力を高めた点が上げられるだろう。
当時、<畝傍>型が獲得した二〇.五ノットもの速力は紛れも無い高速であり、
大日本帝国海軍が保有していた全ての軍艦の中で最速を誇るものであった。
こうした軽武装、高速力という特徴が、後に当艦が日本初となる〝通報艦〟に定められる切っ掛けになったと言われている。
しかし、肝心の建造の方は初の国産完全鋼製軍艦ということもあり、少なからず難航した。
特に<畝傍>は途中で新装備の追加が決定されたことにより、計画から一年遅れの一八八七年に就役。
本艦の半年後に起工し、建造がそこまで進んでいなかったが故に、
新装備追加にも迅速な対応ができた<海門>の方が早く就役してしまう奇妙な事態を引き起こしている。
されど、この際に<畝傍>へ搭載された二つの信号灯―――現在で言うところの探照灯の存在が、
後に本来の役目とは異なる形で大いに役立つこととなった。
それは<畝傍>就役から三年後の一八九〇年九月に起こった、エルトゥールル号遭難事件の際である。
一八九〇年九月一六日夜半、紀伊大島の樫野崎東方海上でオスマン=トルコ帝国海軍のフリゲート<エルトゥールル>が遭難。
六五六名の乗員が夜間の荒天下の海上に投げ出される事故が発生する。
この際、偶然にも台風を避けるために同島の樫野港へと避難していた<畝傍>が動いた。
当時、開庁を間近に控えていた佐世保鎮守府への物資輸送任務中であった<畝傍>は、艦内に救命浮き具を積んでいたのだ。
そして、<エルトゥールル>遭難の報が住民から齎されるや否や、
十数名の救助活動指揮要員を残して、即座に<畝傍>は抜錨。事故現場である樫野崎へと急行した。
これらの行動は<畝傍>艦長の独断であり、二次遭難の危険を孕むものであったが、
この迅速な行動が投げ出された<エルトゥールル>の乗員達にとって、大きな救いとなる。
艦長の機転により、信号灯で前方を照らしながら進んだ<畝傍>は、<エルトゥールル>遭難から間もなく現場海域に到着。
救命浮き具を次々に海中へ投下すると共に、艦舷へ縄梯子を垂らすなどして、<エルトゥールル>乗員の救難活動を行った。
また、その際に件の信号灯は海上を煌々と照らし続けており、
生存はしていたものの気力を失いかけていた<エルトゥールル>の乗員達を勇気付け、
さらに明かりの存在による効率的な救難活動の実施、という重要な役割を果たした。
そして最終的には夜間、かつ荒天下という悪条件にも係わらず、
紀伊大島の住民に救助された者も含めて、六五六名中一〇七名もの<エルトゥールル>乗員が生還する(*3)ことになる。
728 :グアンタナモの人:2014/08/17(日) 23:21:19
このエルトゥールル号遭難事件における救難活動で一躍有名になった<畝傍>であったが、
二〇世紀に入る頃には無線通信技術の急速な発達により、本来の通報艦としての役割を果たせなくなりつつあった。
これは<畝傍>の設備が専ら長距離信号灯や信号弾に頼ったものであり、無線通信設備を一切持たなかったためだ。
無論<畝傍>を改装し、無線通信設備を持たせる計画自体も一時は考えられたものの、
改装するには規模と艦齢が中途半端であり、また日清戦争において同型艦の<海門>が戦没していたことも関係して、
費用効果の面から新造の通報艦を整備した方が得であるという判断がなされていた。
しかし艦齢に反し、船体自体はまだまだ使用に耐えられるだろうという事実。
そして、<畝傍>の持つ高い名声が、当艦の退役を関係者に躊躇させていた。
そこで持ち上がったのが、潜水艦用救難設備を搭載した実験艦への改装である。
当時、新兵器として一九世紀末から導入が進んでいた潜水艦であるが、新兵器故の小さな事故が後を絶たなかった。
幸い死者が出る事態にこそ至っていなかったが、
最悪を見越した大日本帝国海軍は世界に先んじ、専用の救難設備の研究開発を行っていたのだ。
だが、わざわざ実験段階のそれを搭載するためだけに新造艦を建造する余裕までは持っておらず、
既存艦を改装し、研究開発を継続する方向で纏まりつつあった。
そこで白羽の矢が立ったのが船体に余裕があり、
なおかつ救難活動を行なった経歴を持つために験を担げそうな<畝傍>であったのだ。
かくして日露戦争の翌年、一九〇六年に<畝傍>は潜水艦用救難設備を搭載した特務実験艦に改装。
実質的に世界初となる、潜水艦救難艦としての道を歩み始めた。
改装後、<畝傍>は第六潜水艇事故(*4)の救難活動を皮切りに、大日本帝国海軍唯一の潜水艦救難艦として、
度々起こる潜水艦事故の際には必ず救難活動に携わった。
特に知られているのが、本艦の退役間近に相次いで発生した第七〇潜水艦と第四三潜水艦の救難活動であろう。
一九二三年八月、淡路島仮屋沖で公試運転中だった最新鋭の第七〇潜水艦が
機械故障の影響で水深二五メートル地点に沈没する事故が発生。
その際、公試に帯同していた<畝傍>が直ちに救難活動を実施し、ドイツ製廃潜水艦(*5)を利用した浮揚を慣行。
乗員四四名と乗り合わせていた造船技術者四四名、合わせて八八名全員の救助を成功させた。
そして翌年、一九二四年三月には佐世保港外で演習中の軽巡洋艦<龍田>と衝突し、
衝撃で機能を喪失した第四三潜水艦が水深三〇メートル地点に沈没。
これまた演習に備え、佐世保に停泊していた本艦が急行。
今度は当時としては最も先進的と言われていた救難潜水球(*6)を駆使し、四五名全員の救助を見事成功させている。
いずれも沈没から二十四時間以内という早業であり、
かつてのエルトゥールル号遭難事件で見せた迅速な救難活動を思い起こさせ、
退役間近でありながら、<畝傍>の知名度を再び押し上げることとなった。
729 :グアンタナモの人:2014/08/17(日) 23:25:32
こうして最後の最後でまたしても一躍有名となった<畝傍>であったが、やはり船体の老朽化にだけは耐えられなかった。
そして就役から三八年目となる一九二五年五月、後継の潜水艦救難艦として通報艦からの改装を終えた
<千早>型潜水艦救難艦の就役をもって、<畝傍>はついに帝国海軍を退役することとなる。
しかし、その退役に際してはその知名度故に関係各所から様々な声が寄せられ、
特に第四三潜水艦沈没事故の報道で本艦の退役が間近に迫っていることを知ったトルコ共和国などからは、
記念艦として売って欲しい、という連絡まで齎されていた。
されど、老朽化した船体でトルコ共和国までの航海は難しいという判断により、
政府は同国からの申し出を丁重に断ったものの、日土友好の観点から本艦を解体せず、記念艦にすることを決定した。
かくして現在、記念艦として竣工当時の姿を取り戻した<畝傍>は、
生誕の地である横須賀の海軍記念公園、かの戦艦<三笠>の隣にて余生を送っている。
今日では最早知らぬ者は居ない大日本帝国海軍の歴史を語る一隻として、本艦を訪れる人々は今も後を絶たない。
そして<畝傍>という艦名もまた、命名規則上の例外として、
今日に至るまで帝国海軍の潜水艦救難艦の艦名(*7)に採用され続けている。
(終)
*1 これは英国製の<浪速>型巡洋艦を指す
*2 後に<金剛>型設計の際にも、防護力向上を主張する造船技官らに対し、英国の造船技官が同様の感想を抱いたとされる
*3 この救難活動により、<畝傍>の名はことにトルコ共和国においては高い知名度を誇っている
*4 この際救助された佐久間海軍大尉以下乗員に纏わる逸話は有名。また、大尉は後に潜水学校長ともなった
*5 第一次世界大戦の戦利艦として獲得した七隻のUボートのうちの一隻
これらの戦利Uボートは研究後に廃艦とされたものの、その船体は潜水艦救難設備として長らく使用された
*6 諸外国で言うレスキューチェンバーに相当
*7 太平洋戦争時には<千早>型の後継として、二代目<畝傍>型潜水艦救難艦が就役している
日本初の国産完全鋼製軍艦にして、日本初の通報艦。
さらに世界初の潜水艦救難艦という多くの初めてを掻っ攫った軍艦に纏わるお話でした。
詳しい装備については、艦船設定スレをどうぞ。
……畝傍の名前を縁起物として扱って欲しくて盛りに盛ってやった。
後悔もしていないし、反省もしていない(キリッ)
最終更新:2014年08月18日 00:24