日曜日の午後四時頃、渋谷凛は一人銀座の繁華街を歩いていた。
普段は少し崩している高校の夏服をカッチリと着込んだ彼女は周りの風景からは著しく浮いていたが、当の彼女にそれを気にする余裕は無かった。
手には二枚の名刺大の紙。一枚は横須賀で出会った東雲海軍中将の名刺。
そしてもう一枚は銀座にある高級料亭『一輝』のチラシだった。
この『一輝』という店だが、はっきり言ってとんでもない店である。
凛がネットで調べた限り、俗に言う一見さんお断りの店で、予約が無ければたとえ常連でも食事ができない。
店の大きさこそ小さいが出てくる料理は超が五、六個付く一級で、その値段もこれまた超が五、六個付く一級。
政党の党首クラスの政治家や、財閥級の実業家でもここで食事をしたことのあるものは殆どいない、正しく幻といっても良いような店である……らしい。
断言はできないが殆ど嘘だろう、と凛は思っている。
しかし、もらった名刺はどうやら本物らしく、政府と海軍の広報で見た写真は先日横須賀で会った紳士と同じ顔と名前だったし、話した印象からも、凛に悪意があるようには見えなかった。
彼女は悩んだ末にとりあえず行ってみることにした。



【ネタ】渋谷凜は平行世界で二週目に挑むようです【その4】



銀座駅で降りた凛は銀座の近くの住宅街の中の細い路地をウロウロしていた。
もっとはっきり言うと道に迷っていた。
携帯の地図と住所を照らし合わせて何とかここまで辿り着いたが、どうも彼女の携帯の地図にはこの店に至る道が載っていない様なのである。
途方にくれる凛に話しかけた人がいた。

「もし、そこのお嬢さん」

凛が振り向くと、そこには黒いスーツを着てサングラスをかけた大男の姿があった。
年齢は三十台後半ぐらい、短い角刈りで、脇の下に妙な膨らみがある。
漫画か映画で見るようなSPもしくは「その道の人」のようだ。

「道に迷われましたかな?」

語調こそ丁寧だが非常に硬質な響きで、サングラスの奥の瞳は凛の一挙手一投足を見逃さないと目を光らせている。
もし何か下手なことをしたら、凛はここで行方不明になるだろう。
しかし凛も目的があってここに着ている。
凛は震えそうになる声を必死に隠して名刺とチラシを差し出して言った。

「……はい、この店に行きたいんですが……」

大男はそのチラシと名刺を見たが、まったく表情を変えずに凛に尋ねた。

「フム、失礼ですがこれを何時、何処で誰から手に入れられました?」
「えーっと、先週の金曜日の午後八時ごろ、横須賀にある喫茶店「fantasy party」で、五〇歳くらいの男の人からもらいました」
「その店の店主の特徴をわかりやすくお願いしても?」
「左目に黒い眼帯、左足が義足で、左腕に手の甲までの火傷の痕があって、その名刺をくれた人からは「タク」って呼ばれてました。あとウェイトレスが「ナナ」って呼ばれてました」
「その男とは何を話しました?」
「…………私の記憶と今後の目標についてです」
「その目標について聞かせていただいても?」
「……私はアイドルの頂点に立って、そして日高舞を超えます」
「なるほど、大変失礼致しました」

大男はそう言って、凛に向かって頭を下げた。
それも腰を45度以上折り曲げて。

「自分は陸軍中央即応集団特別警護小隊の新堂大尉です。渋谷凛様ですね。上官からあなたがいらっしゃった場合お通しせよ、と命じられております。どうぞ此方へ。各、各、此方新堂。通常の警戒に戻れ」

その言葉でやっと凛は周りの建物の中からいくつもの視線が此方を見ていることに気がついた。
凛はひそかに戦慄した。
彼女もアイドルという職業についてから、人の視線には敏感になった。
しかし、この視線の主たちには言われるまで気がつけなかったのである。

(とんでもないところにきてしまったのかもしれない……)

凛は背筋を冷や汗が流れるのを感じた。

凛は住宅街の一角にある小さな家のシャッターの前に連れてこられた。
新堂と名乗った大男がシャッターの横にある入力パネルを開いて、暗証番号を入力した。
すると、シャッターの横にある壁がちょっと奥に凹み、そして横に開いた。

(…………この仕掛けを作ったのは絶対に趣味人に違いない)

凛は心の何処かでそんな現実逃避なことを考えた。
壁に開いた扉の中には地下に続いている螺旋階段がある。

「階段を下りたら道なりに進んでください」

新堂と名乗った男はそう指示し、凛を扉の中に促した。
凛が階段を下り始めると、彼女の後ろで扉の閉まる音がした。
退路は絶たれた訳だ。

(もうどうでもなれ)

凛は半ばヤケクソで階段を下りた。


凛の覚悟に反して、階段はそれほど長くなかった。
大体二階分を下りたあたりで階段は終わり、奥に扉の付いた廊下が現れた。
彼女は一瞬躊躇し、そして意を決して扉を開いた。


そこには純和風の廊下が広がっていた。
三和土の前には、着物を着た女性が三つ指を着いている。

「ようこそ、『一輝』へ。渋谷凛様ですね。お連れ様がお待ちでございます。お履物はこちらでお脱ぎください」

凛はその言葉に従って靴を脱ぎ、そして着物の女性についていった。
女性はある部屋の前で立ち止まると、膝を付きそして部屋の中に向けて声をかけた。

「失礼します、お連れ様がお越しになりました」

そして、少しづつ襖を開けた。
室内は広く和洋風の造りになっていて、中には円卓が一台、そして二十人ほどの人間の姿が見える。
年齢層も様々で、20代後半から80近い老人まで、男女比は男四の女一。
彼らはそれぞれで談笑していた様だが、外からかけられた声に反応してこちらを向いた。
その中には先日横須賀であった東雲中将の姿も見える。
先日のスーツ姿では無く、白い軍服姿で肩には広い金の帯に桜が二つの階級章がつけられている。
彼はこちらを見て微笑み、軽く右手を上げた。
しかしその眉間には若干しわがよっている。
凛は東雲に軽く会釈をして、そして他の一同を見回した。
他の者の多くはスーツ姿だが、軍服の者も数人いる。
一通り見渡そうとし、そして彼女は硬直した。

「どうもはじめまして、渋谷凛さん。神崎博之です。卑しくも今上陛下からこの国の全権を任されています」

テレビで見た、この国の君主に全ての実権を委ねられた男がそこにいた。

「ああ、どうぞ座ってください」
「…………失礼します」

神崎に着席を促され、凛は開いている椅子に座った。
開いていた椅子は東雲の隣で、反対側には若い、おそらくこの中で凛を除いた最年少の女性が、そして正面には神崎が座っている。

「やあ、凛君。三日ぶりだね」
「はい、お元気そうで何よりです」
「……すまない、迷惑をかけることになりそうだ」
「?」
「伏見博子よ、よろしく」
「あ、渋谷凛です、よろしくお願いします」

凛が席に着いたのを確認して、神崎は切り出した。

「まずは自己紹介といこうか。私は良いとして……」

神崎の左隣から時計回りに名乗りだした彼らの名前と役職を聞いて、凛はめまいがしてきた。
現職の大蔵大臣、貴族院の議長、三菱財閥の総帥、倉崎重工の会長、その他諸々……。
層々たる面子が集まっていた。


「さて、何から聞きたいかね?」
「一から十まで全部、何一つ余さずお願いします」

一通りの自己紹介が終わると神崎はそう切り出した。
対する凛の目は強い警戒を映して神崎を睨んでいる。

「ふむ、一から十までと来たか。だとするととても長い話になるが?おそらく二日はかかると思うよ」
「…………では要点だけ」
「いいだろう。渋谷凛さん、君は前世の記憶があると言ったね?」
「…………」

凛は無言で頷いた。
そして神崎の次の言葉に、凛は一瞬思考が停止した。

「我々にも前世の記憶、人によっては前世の前世の記憶があるのだよ」
「……………………」
「そしてこの国は開国以来、19世紀中ごろから我々のような存在、憑依者、あるいは転生者、もしくは逆行者がその意思決定に密接にかかわってきた」

凛は何も反応できなかった。


「さて、いろいろ質問させて貰ったが、我々に前世の記憶があるということは信じて貰えたかな?」
「…………一応は」
「うん、ではそれを踏まえて言っておかねばならないことがある」
「……何でしょう、正直もう何も考えたくない気分なんですが……」

凛は疲れていた。
先ほどまで神崎からこの国の裏の歴史を聞かされ、たくさんの質問をして、たくさんの質問をされた。
次から次へと明かされる衝撃の事実。
この世界がたどった歴史とその裏で動いてきた『夢幻会』。
知りたくなかった新事実が山のように出てきて、凛の頭はパンク寸前だった。
正直全部嘘です、と嘘でも良いから言ってほしい気分だった。
しかし彼女の理性はこれは真実なのだろうと考えていた。
彼女一人を騙す為に首相にこれだけの人間、そして舞台装置を用意する訳が無いからだ。

「おそらくだが、我々の多くの元の世界は、君の元の世界とは違う世界だ」
「……………………もう勘弁してください…………」

凛は今度こそ頭を抱えた。

神崎曰く、彼らの元の世界は、日高舞というアイドルがいなかった世界なのだという。
当然彼女から始まったアイドル戦国時代も無く、彼らの世界ではA○Bとか言うグループアイドルがブレイクしていたらしい。
凛の元いた世界ではグループアイドルというものはもはや死語、過去の異物となっていた。
日高舞がその強烈な個性でそういったグループアイドル達を絶滅させてしまった。
そういう意味では彼女は相当な恨みを買っている。
凛の所業などかわいいものである。


「さてと、長々話したけど、何か聞きたいことはあるかね?」
「…………いくつかあります」

凛は神崎の目をまっすぐ見て訊いた。

「なぜ、一介の女子高生にこんなことを話したんですか?あなた方の目的は何ですか?そしてあなた方は私に何をさせたいのですか?」

神崎は凛の視線を真正面から受け止めて答えた。

「まず、我々の目的について話そう。我々の目的はこの国の発展だ。何を持って正常と呼ぶかについては議論があるが、概ねこの国が他国に侵される事無く発展を続けていくことと考えて貰って良い」
「…………」
「そして我々が君にして貰いたい事は……君は民○党が政権を取ったときのことを覚えているかね?」
「……はい」
「そのときの国民の反応を見てどう思った?」
「…………よく覚えていません。その頃の私は死ぬ直前で最後の大暴れの準備中でしたから。……ですが正直ああも鮮やかな手のひら返しを見ると呆れる気にもなりませんね」

アイドル業界というのは流行り廃りの影響を強く受ける業界である。
それは凛自身もこの業界に入ったときから覚悟していた事だし、一度ならず他事務所のアイドルを蹴落としてもいる。
しかしその彼女から見てもあのときの国民の反応はあきれ返るようなものだった。
総理の座に返り咲いた政治家が、一度総理を辞めた直後の選挙の街頭演説の映像では怒号と罵声で政治家の声が聞こえないほどだったが、総理への再選を果たす直前の街頭演説では対照的に歓声で政治家の声が聞こえないほどだった。
流行が終わったアイドルからファンが離れていくときでも、そしてそのアイドルが再度ブレイクを果たしたときでも、あれほど鮮やかでは無いだろう。
アイドルとファンはそれでも良い、だが政治家と有権者がそれでもいいのか?と思った記憶がある。
しかしこの一件は元の世界の凛が死ぬ直前の出来事で、当時の彼女にとってはどうでも良い事だった。

「そうだな、だがあの世界の日本はそれでも良かった。しかしこの世界の大日本帝国は列強一位の大国で、核兵器の保有国でもあり、そして世界の破滅を導く引き金を握っている。政治家が無能である事は許されないし、それを選ぶ国民もまた無能であってはならない。彼らが無能である事はこの国だけでなく世界の滅亡に直結するからだ。ここまではいいかね?」

凛は無言で頷いた。

「もちろん我々も自身が賢人であるなどと思っているわけではない。だが……正直この国の国民と政治家の現状はかつての我々がした最悪の想定を下回っている。我々も可能な限り努力はしているつもりだ。だがそれでも一部の業界には手が回っていないのが現状だ。だから……君には最後の安全装置になって貰いたい。」
「…………」
「良くも悪くも今のこの国でアイドルという職業はかなりの影響力を持っている。こちらでも日ノ出新報を中心に報道関係への影響力の強化を図っているが、手が回っていないのが現状だ。だから……もし我々が失敗したときに芸能界から働きかけてほしい。この国と世界の破滅を防ぐ最後の安全装置になって貰いたい。君に我々のことを話したのはそのためだ。若い君にそういった役割を担ってほしいと頼む以上、こうする事が君に頼む上で我々にできる最大限の誠意だと考えている」
「…………」
「他に何か質問はあるかね?」
「……具体的に何をしろと?」
「簡単なことだ、もしそういった事態になったらあるメッセージを持った歌を歌ってほしい。具体的には……ジョン・レノンの「Imagine」や森山良子の「さとうきび畑」といえばわかるかな?」
「…………もし私が拒否したら?」
「特にどうもしない。次善の手、もしくは予備の手を打つだけだ。君自身、前世の記憶がある、なんて公言したら何が起きるかは想像は付くだろう?そして君の事務所等に対する制裁等も特に無い。我々の基本原則として、法律に触れない限りは商業への介入はしない。今回その原則を破っているのは事がこの国の存亡に関り得る事態であると認識しているからだ」
「……即答が必要ですか?」
「いや、ゆっくりと考えて貰って結構だ。うまくいけばそもそも君に頼る事態そのものがおきないかも知れない」
「その頼る事態が起きない可能性はどの程度と見積もってますか?」
「十中八九。だが政治家というのはその一、二に対しても出来得る限りの手を打たねばならない。それが陛下にこの国の全権を預けられた身の責任だからね」
「……もし仮にその仕事を私が受けた場合、私にとってのメリットは何ですか?」
「……君の目標については東雲から聞いた。『自分の力で日高舞を超える』。すばらしい目標だと思う。だからこれについては君にすることは無い。君自身もそれを望まないだろう?だから君の事務所に対して便宜を図ろうと思う」
「具体的には?」
「仕事の斡旋、トレーナー、社員の融通、資金の援助……といったことになるだろう」
「…………しばらく考えさせてください…………」
「結構だ。伏見さん」
「はい、総理」
「すみませんが後はお願いします」
「わかりました」
「さて、とりあえず話も終わったことだし……食事にしようか。女将」
「かしこまりました」

先ほど入ってきた襖が開き、先ほど凛を案内してきた女性を先頭に料理が運ばれてきた。

凛は一人自宅近くの道を歩いていた。
あの後付近一帯を警備していた新堂大尉の部下に家の近くの駅まで車で送って貰った。
脳裏を占めるのは先ほどの話である。
先ほどの話は本来の彼女の立場では片鱗すらうかがえない情報である。
正直頭が一杯で食事の味すらよくわからなかった。

(……この国そのものといっても良い組織からの勧誘……仮に断ったとしても私だけなら問題は……あるけどない。でも……)

神崎は断ったからといってどうすることも無いと言ったが、それを言葉通り信用するほど彼女も子供ではない。
元の世界、彼女が死ぬ直前のCGプロならその状況に追い込まれても耐えられたかもしれない。
当時のCGプロは所属アイドルの数と質を背景として業界で一番影響力を持っていた。
神崎蘭子や十時愛梨、アナスタシア、高垣楓、輿水幸子、城ヶ崎姉妹、双葉杏、諸星きらり、凛自身が所属していたニュージェネレーションやトライアドプリムスといった業界でも有数の強力な面子を抱え、そしてその隙間を補うB、Cランクのアイドルも多数抱えていた。
仮定の話だが凛が死んだ後でも、765プロと961プロを同時に敵に回して全面戦争をやったとしても、最後に立っているのはCGプロだっただろう。
しかし今のCGプロは違う。
元の世界でアイドル界を席巻した主力達はいまだ所属すらしていない、凛一人に頼るしかない零細弱小プロダクション、それが今のCGプロだ。
この状況下で事を構えれば、致命傷になる。

一方で神崎の言うこともわかる。
彼は今この国の安全と繁栄にしか頭が向いていないが、納得できるかは置いておいても言ってることは理解できた。
今いる世界の日本の多くの政治家も、新聞社をはじめとしたマスコミも信用できないというのは同感である。
政治報道のグダグダぶりや、些細な失言を取り上げては鬼の首を取ったかのごとく喚き散らす、本音を言えば癇に障っていたのも事実である。
まともな報道をしている新聞社はごく一部といってもいいだろう。

(どうすれば良いのか?)

凛の思考は袋小路に入っていた。
メリットデメリットで言うならば答えは承諾しかない。
だが事務所の今いる全員、そして未来に所属するかも知れないアイドル達に対して影響のあることを彼女の独断で決めるわけにはいかなかった。

(……ん?事務所?)

脳裏に浮かんだ単語に凛は思わず噴出しそうになってしまった。
自分の事に気を取られるあまり、社長なり、プロデューサーなり、ちひろなりに相談するという選択肢が頭からぽっかりと抜け落ちていたからである。

(まず誰に相談しよう?)

まず社長はいるかどうかわからない。
彼は日本全国スカウトの旅なるものに出かけている。
先日など夕張メロンと台湾産バナナが一緒に贈られてきて、社長は今一体どこにいるんだ?と議論になったりもした。
プロデューサーも微妙だ。
彼は営業に交渉にとあちこちを飛び回っていて、事務所に戻ってきたとしてもすぐに飛び出していくという勤務状態になっている。
労働基準法とかに引っかからないのか心配になってくる。

(確実にいるのはちひろさんか……)

ちひろは確かに事務所にいるだろうが、彼女は彼女で書類仕事をしたり、方々に電話をかけたり、なにやら怪しげな薬を調合していたりと急がしそうだ。
なにやら一つ妙なのが混じっていた気がするが、凛は気にしないことにした。

(…………)

金に汚い所があるが、本質的にはちひろは善人で働き者、そして世話焼きだ。
それは、元の世界でもこの世界でも変わっていない。

(明日ちひろさんに相談してみよう)

凛はそう考えてようやく家に向かって歩き出した。


しかし翌日、一週間ぶりに事務所に顔を出した凛は思わぬ出来事に遭遇することになる。






以上ここまで。
一応補足しておくと、嶋田さん改め神崎首相の特に手を出す気が無いというのは本音です。
そんな事態になったのなら、そんな事をしてる場合じゃないでしょうから。

反応がすごく怖い……。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2014年08月27日 15:44