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―――「波号第200」型潜水艦

全長:61.0m
全幅:4.2m
喫水:3.44m

機関:中速ディーゼル1基
   特E型電動機(モーター)2基直列1軸
   一号33型蓄電池370個

排水量:水上450トン
    水中590トン

速力:水上10.5ノット
   水中21.2ノット(実用19ノット程度)

航続距離:10ノットで4000海里(水上)
     3ノットで180海里(水中)

武装:530ミリ魚雷発射管3門(魚雷最大8発搭載)
   13ミリ単装機関銃1門(三式 ブローニングM2のコピー)

同型艦:波200~波257(終戦時までに就役済の艦のみ)以下40隻建造・艤装中、40隻余起工済み。



【解説】―――日本海軍が近海防衛用に量産した小型潜水艦。
1943年のマル追計画において中型潜水艦のかわりに量産が決定し、海軍水雷学校付へと「自主降格」した阿部俊雄大佐らの主導によって日本海軍初の「水中高速潜水艦」として建造された。
就役時である1944年末においては、アイデアを提供したドイツにおいてもXXI型潜水艦もトラブルに悩まされており事実上枢軸国側唯一の水中高速潜水艦となった。
戦場が日本本土近海となったために単独で沖縄から小笠原方面へ作戦して帰還できる能力を有する本艦は、連合艦隊唯一の「攻撃的作戦艦艇」として輸送船団襲撃や「落ち武者狩り」に猛威を振るうことになった。



【原案】―――日本海軍が水中高速潜水艦の建造を思い立ったのは意外かもしれないが戦前であった。
1938年に就役した第71号艦と称される潜水艦は、水中速度を実に21.3ノットとした画期的な潜水艦として各種実験に供されていた。
しかし、当時の漸減邀撃作戦に見合わぬ短い航続距離からその後のタイプシップとはならずにむなしく時が過ぎる。
これが一気に注目されるのは、大西洋におけるUボートの活躍が伝えられる1940年代。
そして日本海軍にとって衝撃的であった砲塔運搬船「樫野」の撃沈という事件がきっかけとなる。
大和型戦艦の主砲塔を輸送可能であった唯一の艦であった本艦の喪失は、水面下でくすぶっていた3番艦信濃の再戦艦化案を叩き潰す結果となり、また十分な護衛をつけていたはずの本艦の喪失は日本海軍に対潜戦術の不備という現実をつきつけた。

そしてそれを声高に唱えたのが、当時対潜戦の専門家として積極的に論文を発表しつつあった第11駆逐隊司令 阿部俊雄大佐(当時)だった。
結果として彼の助言によって水中聴音器の改善や、対潜戦の強化が1942年後半より順次実施されはじめることになる。
この結果、彼は半ば厄介払いのように南方へ転出するが、彼の声に勇気づけられたかのように現場からは連合軍潜水艦の脅威が報告として入り続けることになる。

この間、艦政本部においては建造されていた甲標的拡大型と並行しての水中高速潜水艦の設計が進行。
その小型版となったのが波200型である。
また、外洋で実施されていた潜水艦作戦において被害が続発していたことも「新型潜水艦」を求める動きと重なった。
そのため計画は、潜水艦隊の肝いりで進行していたという。

この動きは、第2次ソロモン海戦において帰途に被雷し負傷の傷を深めた栗田健男中将が軍令部へと入ると急速に現実化。
1943年に策定されたマル追計画において、駆逐艦隊や護衛艦の強化に加えて、高性能な潜水艦の大量建造が決定した。
これは、当時実施されていた戦線縮小「転進」と、それに伴い予想されたマリアナ諸島や小笠原・沖縄、あるいは根拠地から比較的至近の海域における邀撃戦での使用を想定されたためである。

これに伴い、本土へと帰投していた阿部大佐と木梨鷹一中佐、根木雄一郎技術中佐、江見哲四郎大佐(阿部をのぞきすべてがドイツからの帰還組)らがプロジェクトチームを結成。

半年以内の戦力化を目標として泉州工場での量産体制に入った。
この結果、1944年5月に1番艦波200が起工。
簡易化された設計に加えUボートの量産技術を全面導入したことによりこの時期の護衛駆逐艦群や輸送船団と同様に平均3か月での建造を実現した。
1945年1月までに初期ロットとなる28隻が配備。
沖縄沖海戦時には、実に46隻が作戦に参加している。

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【設計】―――構想段階では涙滴型の船体が構想されていたが、技術的困難から断念。
従来の単郭型船体を流線型とし、徹底して抵抗を排除し大出力電動機を搭載することで水中高速性能を実現した。
計画段階では300トン案や700トン案もあった。
だが300トン案は打撃能力や航続距離が微妙であり水中速力もそれほど高くはならないために断念。
700トン案は量産性のわりには攻撃力が微妙であり、航続力的に過剰性能と判断されたことにより放棄された。(この発展型が仮称艦名伊201型である)

船体はドイツから技術導入し、譲渡潜水艦呂501によってもたらされた高張力鋼St52の全面溶接によって構成。
各所に呂501と同様の防音防震構造を採用していたが、当初計画されていたギア歯車は計画されていた水準より著しく騒音が大きいことが判明。
電動機の片方ずつを魚雷型の二重反転スクリューに直結する第71号と同様の構造をとることで対応した。
これにより機械室の容量を削減し、航続力の低下を補い居住性能を向上させている。
また、現場潜水艦隊からの主張を容れて表面にゴム被膜を、艦内各部に防音ゴムが使用されている。
これらの結果、機械的な無理が極力省かれたことによって安全潜航深度こそ他の艦同様の120メートルほどであったが、実際はその5割増し程度までは潜航できたという。


武装は、魚雷発射管を3門いずれも艦首に装備し、2.5斉射分の8発を確保。
水上武装は航空用に制式化されながらも紫電改などの配備によって比較的余剰となっていたブローニングM2のコピー品三式13ミリ機関銃とした。
セイルは戦後の潜水艦と同様のフィン型で、ドイツから導入したシュノーケルを装備。
これにレーダーを用いてもきわめて発見しにくくなっている。

また、この頃採用された95式改四型53センチ魚雷は走行距離を削減するかわりに炸薬量を1.5倍とし、海軍が44年中に諜報情報より実用化した四式炸薬(英国におけるTOPEX)を採用したことからその威力は従来の8割増しにもなっている。
(ただし、量産が間に合わずに炸薬量だけを増大させたものも多く実戦に投入されている)




【配備と戦歴】―――1944年10月に第6艦隊に1番艦が配備されたが、時期的にはレイテ沖海戦に間に合わなかった。
しかし、12月末までに15隻が配備され実戦投入が可能となり、1月には28隻が急速に配備された。
これらは、いずれも呉軍港周辺の大津野島を訓練基地とし、訓練完了後には宿毛湾基地や佐伯湾基地を拠点として南西諸島やマリアナ諸島前面での哨戒活動に従事。
輸送用として先行量産されていた波100型輸送潜水艦とともに、大戦末期の日本海軍潜水艦隊の主力をなした。

本級が威力を発揮したのは、レイテ沖海戦後にこちらは陥落し、急速に基地化が進行していたマリアナ諸島近海での輸送船団破壊作戦であった。
特に1945年1月3日には、1個輸送船団20隻あまりが群狼と化した第6艦隊第12潜水隊によって消滅。
以後、1週間に5隻以上のペースで終戦まで輸送船と護衛艦艇を狩出していくことになった。

そして、最後にして最大の機会となったのは、3月末から5月にかけての1か月半あまりである。
日本近海である沖縄諸島沖に展開した本型は実に46隻。
戦没艦をのぞけばそのほぼすべてが、輸送船団攻撃と、沖縄周辺での航空攻撃により落伍しウルシー環礁へと下がる艦への通称「落ち武者狩り」に投入されたことにより米軍を恐怖のどん底へと突き落とした。

終戦までに失われた本型は13隻ほどであるが、その10倍以上の艦を撃沈あるいは撃破している。(これは米国が量産したリバティ船や護衛艦艇がその無理な工期から非常に撃たれ弱かったこと、そして大西洋ほどの護衛艦艇を配備できなかったためである。)
排水量あたりの戦果となると実に100倍を超える。

この攻撃により、沖縄本島方面における米陸海軍の作戦は停滞。
終戦時には、ウルシー奇襲攻撃の成果もあって米海軍は深刻な修理補給能力不足に陥っていた。
このため、沖縄沖海戦前哨戦において深刻な損害を受けた空母9隻のうち、終戦後に現役を続けた艦は2隻ほどとなる。
また、大破した戦艦ウィスコンシンが帰途に雷撃を受けて沈没する理由となったのも、本型による攻撃を警戒してハワイまでの最短ルートをとり日本本土から離れようとしたためであった。

716 :ひゅうが:2014/09/20(土) 22:09:38
【付記】―――本型は、終戦後にいわゆる「吉田機関」の分科会であった「Y委員会」において検討された新海軍計画の目玉となるもので、30隻あまりが大湊などに対ソ戦のために配備されると原案には記されていた。
だが、米本国はこの計画に反発し、旧海軍艦艇としては国防海軍への復帰がもっとも遅れることとなった。
したがって、朝鮮戦争時には本型は海上警備隊や国防海軍艦としては参加していない。
ただし、アメリカ極東海軍の指揮下で何隻かが運用されていたことは確かなようである。
最終更新:2014年09月28日 09:34