730 :フォレストン:2014/09/26(金) 09:54:36
日本刀は美術品ではなく兵器である
一般に日本刀という言葉を聞いて何を思い浮かべるであろうか。
ある者は、その美しさを賞賛するだろう。
また、ある者はその切れ味を賞賛するかもしれない。
いずれも間違ってはいない。ただし、美術工芸品というジャンルにおいては、という前書きが付くが。
史実の、特に戦後の日本刀は鑑賞目的に特化したシロモノであり、兵器としての観点から見ると、これらは駄作、いや兵器ですらない。
日本刀はその名のごとく武器であり、兵器である。少なくとも、生み出されたときはそうであった。
その特徴的な二重構造も、美しい刀紋も、劣悪な鋼しか手に入れることが出来なかった当時の刀匠達が、創意工夫の果てに完成させた物なのである。
史実では廃刀令によって一度滅び、歳月を経て軍刀として復活するも、敗戦と戦後の刀剣界の方針により、日本刀は美術工芸品としてのみ生き残ることが許された。
しかし、憂鬱日本における日本刀は史実とは違う道を歩むことになるのである。
731 :フォレストン:2014/09/26(金) 09:58:16
「人と鉄は時代が下るほどに悪くなる」
江戸時代の刀匠の言葉と言われているが、けだし名言である。事実、兵器としての日本刀が、武士階級の装飾品に成り下がったのがこの時代である。
泰平250余年、長きに渡る平和は日本刀から兵器としての本質を奪い去ってしまった。
切れ味や耐久性といった実用性は軽んじられ、見た目の美しさが評価される時代となったのである。
投機やコレクションアイテムと化したこの時代の日本刀の品質は劣悪であり、後世の研究者の中には最悪と評している者もいるくらいであるが、そんな状況は幕末期になると一変するのである。
薩摩や長州といった、いわゆる外様の雄藩が、倒幕のために独自に近代的な軍隊を整備する必要に迫られたのであるが、その際にサーベルの代わりに日本刀を採用したのである。
史実では、近代的な軍制度や兵器をゼロから全て輸入する必要があったために、サーベルが採用されたのであるが、細身で強度に欠けるサーベルでは白兵戦に向かなかった。
この時代の日本刀(いわゆる新新刀)でも、強度的にはサーベルに勝っていたのである。事実、この時代の内乱において、日本刀と打ち合って一方的にサーベルが打ち負けたという記述が多く存在している。
当時の薩摩や長州の中枢に喰いこんでいた逆行者たちが、転生知識で近代的な軍隊の組織作りに成功した結果、スナイドル銃の輸入だけで事足りたのである。
まして、サーベルに出来ることは、日本刀でも出来るのである。敢えて強度の劣るサーベルを導入する理由はどこにもなかったのである。
明治維新後の国軍の創立にあたっても、この流れは引き継がれており、陸軍は当然として海軍も日本刀を装備し続けて現在に至っている。
ただし、この時代の日本刀は品質のバラつきが大きかった。元々大量生産を前提にしていなかったからであるが、近代的な軍隊には不向きであった。そのため、刀剣界の一部で日本刀を兵器として再考する運動、いわゆる軍刀作りがスタートすることになるのである。
732 :フォレストン:2014/09/26(金) 10:03:46
明治9年3月28日
史実と同じ日に廃刀令が施行された。
内容も史実に準じてはいるが、適用基準がゆるくなっており、所有自体は無許可でも可能であった。
帯刀に際してのみ帯刀許可証が必要となったが、これも役所に住所等の届出をすれば、(金銭的な問題に目をつぶれば)比較的簡単に手に入れることが出来た。
また、制服着用時の警官や軍人等、職務上必要と判断された場合は、帯刀許可証無しでも帯刀することが可能であった。
事実上のザル法であるが、これは政府側の配慮であった。佐賀の乱や神風連の乱などに代表される、いわゆる士族反乱において、政府軍は軍事的弱さを露呈したのであるが、これをカバーするべく、新政府の一派(
夢幻会の前進)が士族を大々的に取りこむことを狙ったのである。
逆行者達としては、廃刀令自体を廃案にしたかったのであるが、当時はそこまでの影響力を持っておらず不可能であった。
警官や軍人になれば無条件で帯刀出来る。
撃剣興行も不発に終わり、新たな生活の糧を求めていた士族達には大変魅力的であった。
喰うに困った士族達は当然、募集に殺到したのであるが、さすがに無条件で採用するほど甘くは無く、厳しい試験を突破した技量優秀者のみが採用された。
ただし、実力が足りていなくても、見込みがあると判断された場合は、紹介された剣術道場(道場主は逆行者)で住込みで修行することが認められており、そうでないものも金を払えば同様の扱いを受けることが出来た。修行して実力が認められれば、警察もしくは陸軍に採用されたのである。
不平士族にとって、不満なのは生活の糧を奪われたことである。帯刀はどちらかと言うとおまけに過ぎない。大多数の士族は帯刀と職さえあれば満足したのである。
全国各地の不平士族が警察や陸軍に再就職した反面、人材を引き抜かれたせいで士族反乱の規模は史実よりも小規模なものとなった。反乱鎮圧にかける労力が少なくて済んだため、浮いたリソースを富国強兵政策に回すことが出来たのである。この功績により、逆行者たちの一派は影響力を高め、夢幻会を設立することになるのである。
733 :フォレストン:2014/09/26(金) 10:08:13
幕末より、刀剣界の一部に兵器としての日本刀を追求する一派が存在していることは、既に上述したとおりであるが、このころには軍刀鍛錬会として積極的に活動を行っていた。
刀剣界の主流派から蛇蝎のごとく嫌われたのであるが、彼らは既存の日本刀の限界を知悉していたのである。
彼らが行った軍刀作りの功績は多岐に渡るのであるが、特に大きな影響を与えたのは以下の点である。
- 略刀帯の実用化。
- 戦場における取り回し、蛮用に耐える拵え(外装金具)の実用化。
- 特殊合金製の刀身の製作・量産化。
軍刀作りにあたって彼らが最初に行ったことは、軍服で帯刀するための略刀帯の開発であった。
元来、日本刀(江戸時代以降)は着物の帯に鞘を差込み、さらに鞘に付いている下緒を帯に結びつけて脱落を防止していたのであるが、軍服は洋服であるため同様の方法では帯刀は不可能であった。
そのため、専用ベルトに軍刀を吊るす金具を取り付けた略刀帯が開発されたのである。
略刀帯自体は、史実と同様のものなのであるが、逆行者達が開発に関わったせいか、史実よりもかなり早い段階で実用化されている。日清戦争時には軍刀装備の士官・下士官共々、全てに行き渡っていたのである。
なお、外装金具(鞘も含む)も略刀帯と同時期に実用化されている。(陸軍は史実の九四式相当、海軍は史実の太刀型相当)
下士官の軍刀と士官達の軍刀は、基本構造は同じであるが、細部に違いが存在した。
基本的に官給品である下士官用の刀は、装飾は最低限で実用一点張りなのであるが、基本構造は同じでも自前で用意する必要のある士官用の軍刀は、予算に応じてある程度のオーダーメイドが可能であった。
低予算だと真鍮で装飾する程度であるが、金に糸目をつけずに金銀宝石で装飾するものなどもおり、そのバリエーションは多岐に渡ったのである。
なお、変わったところだと、陸軍航空隊の第7飛行集団第3飛行戦隊第2中隊の乗員が装備していた、通称アイ○ス刀がある。鍔や刀身にお気に入りのキャラが彫られており、鞘にいたっては…もはや言うまでもない。
夢幻会の良識派が見たら、卒倒すること間違い無しのシロモノであった。この手の軍刀は、逆行者達の中でも、特に重度のオタが所持しており、性質が悪いことにオタは金を持っていることが多いために、嫌な方向に金と気合の入った軍刀が多く存在したのである。
彼らが戦死したら、遺品として靖国に祭られることになるのであるが、それが実現するかは神のみぞ知ることであろう。
734 :フォレストン:2014/09/26(金) 10:12:21
良く言われる日本刀の性質に『折れず、曲がらず、良く切れる』という表現がある。
折り返し鍛錬を行い、心鉄を入れて硬軟の鉄を組み合わせた日本刀独特の鍛錬法がこれを可能にした…世間一般で良く言われているいわゆるテンプレであるが、これはある意味正しく、ある意味間違いである。
そもそも日本刀が、このような独特の製法を持つに至ったのは、国内では劣悪な劣悪な鋼しか入手出来なかったからである。その時代の刀匠が、国内産の低品質な鋼(和鋼、玉鋼とも)を創意工夫でなんとかしようとした結果なのである。極端な話、高品質な鋼が手に入るのであれば、あんな複雑な工程を踏まずとも性能は出せるのである。
事実、日本刀の中でも、鎌倉時代以前に作られた古刀は二枚構造にはなっておらず、それでいて江戸期以降に作られた新新刀よりも優れた性能を持っていた。成分分析をすると、当時の日本国内では手に入らない鋼が使用されていたのである。
軍刀鍛錬会は、日本刀に科学的なメスを入れ、上記の事実を突き止めたのである。
日本刀が、その時代に手に入る材料で最良の物を作るべく、時代によって製造法を変遷させていった以上、高品質な鋼が輸入出来るのに敢えて和鋼を使う理由はどこにもなかったのである。
複雑な製法は品質にも悪影響を及ぼしていた。あまりにも刀匠の技量に依存してしまい、品質のバラつきが大きかったのである。さらに和鋼の生産性が低く、軍刀需要を満たすのは到底不可能であった。
高品質な洋鋼を一枚鍛えで作刀する。これが軍刀鍛錬会の結論であった。
軍刀鍛錬会の依頼を受けて、村田経芳(陸軍少将男爵)は軍刀の作刀に着手。
宮本包則、横山祐包等の指導を受け、スウェーデン鋼と和鋼比率を六対四で細切りし、これを1500℃で溶解。丸鍛錬して油焼き入れをした刀身を明治24年に完成させた。いわゆる村田刀である。
安価で、尉官将校でも入手し易いため、後の日清・日露戦争で大いに使用され、錆に強く良く切れる実用軍刀であることを実証した。
史実との違いは、外装がサーベル風でなく、日本刀になっていることである。(外装は史実九四式相当)
735 :フォレストン:2014/09/26(金) 10:14:57
明治27年7月
近代国家となってから初の対外戦争となる日清戦争が開戦した。
この時代には既に帝国陸海軍共に火力偏重の傾向があったのであるが、未だ不十分であったため、夜襲や塹壕戦において日本刀が活躍する余地は十分に存在したのである。
一部の士官達が、伝家の刀や金に飽かして買い求めた名刀を軍刀拵えにして、戦場に持ち込んだのに対し、村田刀は主に下士官兵に官給品として支給されたわけであるが、結果は歴然であった。
従来の日本刀(特に新新刀)は、簡単に折れて使い物にならなくなったのに対し、村田刀は過酷な使用にも耐えたのである。刀身が曲がってしまっても、一枚鍛えの村田刀は簡単に修復出来たのに対し、2枚構造の従来刀は構造上の問題で修復には高度な技術を必要としたのである。
日清戦争は歴史上、初めて大規模に、組織的に軍刀が運用された戦争であったわけであるが、当時の兵士達の証言を総合すると評価は『概ね良好』であり、大多数の兵士達の支持を受けていたのである。
この事実に焦ったのが、刀剣界の主流派である。彼らからしてみれば、軍刀は邪道であり、日本刀と呼ぶのも憚られた。そのため、従来の製法を信仰している彼らは、軍刀のイメージダウンを画策したのである。もっとも、その都度に軍刀鍛錬会は、科学的なデータをもってして反論したわけであるが。
数値に裏付けされた理論的な反論に、刀剣界の主流派は念仏のごとく持論を展開するのみであった。
一般大衆がどちらを信じるかは自明の理であろう。
736 :フォレストン:2014/09/26(金) 10:20:30
明治37年2月
国家存亡をかけた日露戦争が開戦。
ここでも村田刀は存分に活躍した。先の日清戦争時と性能は変わらないものの、作刀に機械鍛造を取り入れて、もとより良好だった量産性はさらに向上していた。
当時の陸軍の制式小銃である三十年式歩兵銃に装着する銃剣も、同一の素材で作られており、さらなるコスト低減が図られていた。
鋼の組成、鍛造回数、焼入れ温度等、科学的な見地によって完全に規格化された村田刀の品質は極めて安定しており、性能・コスト・量産性という兵器として必要な要素を完全に満たしていた。
日本刀は軍刀と名を変えて、武器として、兵器として返り咲いたのである。
しかし、軍刀の進化はまだ終わらなかった。
旧来の日本刀が持つ欠点、低温脆性と錆びに対する弱さ。これらを克服してこそ日本刀は、真の兵器たりえるのである。
実際、日露戦争で得た満州や樺太の寒冷地域では、旧来の日本刀は脆くなり、実戦での使用に耐えなかったのである。
村田刀も旧来の日本刀ほどでないにしろ、脆くなることが実験により確認されており、何らかの対策が必要であった。
この問題に、軍刀鍛錬会は耐寒刀身の開発に着手。
逆行者たちの転生知識の助けもあって、史実よりも20年以上早く実用化に成功した。
特殊鋼 (タハード鋼) の丸鍛錬、特殊塩水温浴、水焼入れで造られた刀身は、マイナス40℃でも損傷・折損しないことが確認された。
この軍刀は振武刀として、樺太常駐の部隊に優先的に配備された。同様の試みは、民間である満鉄でも行われており、こちらは満鉄刀として、満州に展開する部隊に配備されたのである。
錆び対策については、特に海軍から強い要望があったとされる。四六時中、塩気に晒されているわけであるから頷ける話である。
陸軍でも過酷な前線に携行される日本刀の錆に悩まされていた。敵と対峙する戦闘行動下で、軍刀手入れの時間的余裕がある筈もなく、『錆びない軍刀』を陸海軍共に熱望していたのである。
この要求に応えて作刀されたのが、耐錆鋼刀(ステンレス刀)である。
錆びにくいために、手入れする手間が省けて前線の兵たちからは好評であった。
俗にステンレス刀は、斬れないといわれているが、劣悪な環境で使う軍刀にとって、刀身の錆は切味などを論じる以前の深刻な問題である。雨や塩害で直ぐに錆びる日本刀と、防錆手入れ不用のステンレス刀のどちらが実用的かは言うまでもない。切味等は二の次、三の次ぎの問題であった。
737 :フォレストン:2014/09/26(金) 10:27:11
日清・日露戦争で見せた軍刀の威力は、日本の刀剣界の勢力を大きく書き換える結果となった。
軍刀を認めようとしない、江戸期以来の製法と材料を信仰していた主流派は、大きく勢力を減じたのである。
旧主流派は、美術工芸品としての日本刀に価値を見出し、刀身の美しさや装飾に重点を置いていくことになる。
軍刀鍛錬会とそれに同調する新興勢力が主流となった刀剣界は、科学的見地に基づいた意見が大勢を占めるようになった。
新たな主流派となった彼らは、新進気鋭の刀匠であると同時に、冶金学の権威でもあった。
年齢や序列を気にせず意見を交わし、貪欲に技術を吸収していったのである。
大正時代になると、軍刀は完全に量産規格品となっており、陸海軍工廠または民間メーカーで生産されていた。
しかし、新しい理論の実践や、新素材を試す目的で、個人レベルでの作刀は続けられていた。そういった意味では彼らは、軍刀の刀匠と言えるだろう。
この傾向は、戦後も続き、20世紀末になると金属探知機を欺くための非鉄金属刀(セラミック刀)や、より軽量で携行しやすい特殊軽金属刀などが実用化されている。特殊部隊向けに鞘に各種ツールを内蔵した特殊軍刀も少数ながらも生産された。
ちなみに、刀剣界でも無視出来ない勢力になっていた『る○剣作刀委員会』により、某刀狩りの持っていた刀の一部再現に成功している。
逆行者のみで構成され、源流を辿れば明治時代にまで遡れる、由緒正しきこの団体は、名前通りの団体であり、某剣術漫画の○空の作品を再現することに全てを捧げている狂信者たちである。
時代が彼らに追い付いたというべきなのか、新たに開発された新素材が、彼らの悲願を叶えたのである。
2014年現在、逆○刀、連○刀の再現に成功し、引き続き薄刃○太刀、無○刃の再現を試みるとのことであるが、割とどうでもよいことである。
夢幻会の方針により、陸海軍共に火力万能主義に傾倒していった。それに伴い、軍刀の需要は減減り続けていくのであるが、兵士達の精神の拠り所として、現在も生産が続けられている。
738 :フォレストン:2014/09/26(金) 10:41:53
あとがき
日本刀を武器として、兵器として、追求したもの、それすなわち軍刀です。
日本刀を兵器と考えれば、最も成功したものが軍刀であり、評価されてもよいはずなのですが、未だに名誉回復されていないのが残念でなりません。
せめて憂鬱世界では活躍して欲しくて書いた次第です。
この世界だとサーベル風外装なんてものなしで、最初から日本刀らしくなっています。
警官もサーベルではなく日本刀装備です。かっこいい!
途中ネタに走ったところもありますが、そこはご勘弁を。
痛い子中隊の連中なら、絶対やってそうですし、るろ剣ファンな逆行者が刀匠になったら、間違いなく作ろうとするでしょうしw
実際問題として、村田刀や満州で作られたスプリング刀(兗洲虎徹)の切れ味は凄まじく、人を2、3人斬っても、刃こぼれすらなかったとのこと。こんなのを、SIMAZUに持たせたら、恐ろしいことになるでしょうね…))))))ガクガクブルブルガタガタブルブル
最終更新:2014年09月29日 19:08