299 :ひゅうが:2014/11/01(土) 00:00:35


 戦後夢幻会ネタ―――閑話「その時歴史が動いた~日本放送機構のある番組から~ その2」




「皆様ごんばんは、松平でございます。今日の『その時歴史が動いた』は、あの大戦を振り返り『提督たちの決断――太平洋戦争』その後篇を、時間を大幅に拡大してお送りいたします。
従来は、悲劇の提督山本五十六や、不屈の名将南雲忠一、闘将宇垣纏などが有名で、彼らを主人公にした映画も数多く作られています。
ですので前編で、阿部俊雄という戦後に頭角をあらわしたと思われがちな人物を登場させたことに驚かれた方も多いのではないでしょうか。
ですが、新発見された資料では、彼が残した業績と影響が、太平洋戦争、いわゆる大東亜戦争の終結に極めて大きな役割を果たしていたことがわかってきました。

ゲストには、引き続き戦中の阿部提督とも親交があった中曽根元総理においでいただいています。
中曽根さん、本日もよろしくお願いします。」

「お願いします。前回の放送は反響が大きかったようですね。」

「ええ。たくさんのご意見をいただきました。
中には軍人の方も。」

「提督は戦後に活躍したイメージが強い人物ですからね。あとで出てきますが空母信濃の生みの親という印象が強いので、口さがない連中などは『運がいいから出世できた』なんていっていました。
そんな連中も戦後の功績は否定できないのがまた苦笑すべきところですが。」

「はい。では、本日は、昨日お送りしました前篇でアメリカ海軍機動部隊を壊滅させた直後から見ていきましょう。」




昭和19年7月。日本国内は戦勝ムードに沸いていました。
これまで転進という言葉でごまかしてはいましたが南太平洋地域からの撤退、そしてよく知られるインパール作戦の失敗など快進撃に陰りが見えていた中で1年ぶりに掴んだ大勝利です。
国民は無邪気に戦争の勝利を確信し、新聞社もまたそれを煽り立てていました。

帰国した機動部隊への熱狂的な歓迎の映像が残されています。
小沢第一機動艦隊司令長官を出迎える古賀連合艦隊司令長官、マリアナの基地航空隊を指揮した南雲長官、そして栗田軍令部次長。
握手をしているのは、首相に就任したばかりの小磯国昭。当時は文官となっていた宇垣一成や、陸相留任となった東条英機の姿も見えます。
華やかな祝祭に、窮乏の陰が見え始めていた国民が勝利に酔う中、人知れずに次の動きははじまっていました。

昭和19年7月14日、帝都東京のとある料亭に、阿部俊雄の姿はありました。
そこに集まっていたのは、軍服もいれば私服も、また洋装もいる奇妙な集団でした。
元駐英大使吉田茂、のちの内閣総理大臣。
日本発送電総裁 下村治。のちの復興局長にして大蔵大臣。
宮内省侍従 徳川義寛
内務省警保局 第二課長 後藤田正晴

そのほかにも、多くの官僚や軍人たちがその席についています。
中には、のちに国防軍統合幕僚長となる「官僚将軍」林敬三や、朝鮮戦争で主力艦隊を率いることになる吉田英三の姿もありました。
この席にはじめて呼ばれた吉田茂は、このように問いかけます。

「大丈夫なのか?とはじめに尋ねた。
東条率いる憲兵隊が目を光らせている中でこんなに集まってしまっては。」

すると阿部はしれっとして答えます。

「大丈夫です。憲兵隊のうち、我々の監視担当は仲間です。それに憲兵隊はゾルゲの一件で騒がしい。
監視対象は岸さんたちに絞られているでしょう。
それにここの主人は私の友人です。」

ゾルゲ事件。
独ソ戦の行方すら左右したこの一件について、最初に気が付いたのは東京憲兵隊だったといわれています。
当時の憲兵隊は全力をあげてそのスパイ網の摘発と対策に及んでおり、その成果は皮肉にも敗戦後に花開くことになります。

300 :ひゅうが:2014/11/01(土) 00:01:18
ともあれ、こうして集まった面々は多くが官僚や軍の間では若手あるいは中堅どころであったため、大物のように政治を動かすことはできない人々です。
集った理由は、みな共通しています。

「終戦工作」。

吉田によると、このときすでに彼らはソ連の対日参戦が既定方針となっていることを確信していました。
特命の情報提供者とのコンタクト、とぼかして記述されていることが多い謎の人物からの情報です。
残念ながら今回の調査でその正体に迫る資料は発見できませんでした。
ですが、阿部と、宮内省の徳川侍従がいつのまにか顔をあわせていたことを考えると、ひとつの仮説が浮かんできます。

「宮中からの内意」

少なくとも賛同以上のものがあったことは確かなようで、宮中の侍従の日記にはこの時期から急に自動車の使用頻度が増えていったことが記録されています。
そしてそうした事情からか、この時集まった人々の結束は固かったと吉田は記録しています。
この日の会議は夜遅くまで続き、ひとつの統一見解に達したといいます。

「昭和20年後半までに戦争を終えなければ、日本経済は破綻し、国民は飢餓により最低でも2000万人が餓死。
その頃には日本本土には米ソ連合軍が侵攻し、それに数倍する犠牲を払い国土は分割。
日本は国家として完全消滅する。」


対ソ情報を統括する立場へと「左遷」させられていた阿部は、ここぞとばかりに陸軍の対ソ情報部と連絡をとり、さらには憲兵隊ともつながりを作っていました。
その結果としてたどり着いたおそるべき想像、そして、そこへ入ってきた超第一級の情報源と目される情報からこの結論にたどり着いたのは、この年の4月であったといいます。

今回発見された彼の手記です。

「米国が原子爆弾を完成させるのは昭和20年7月前後。遅くとも8月初旬までには、5発程度が太平洋戦線へ転用され、そして使用されると目される。
おそるべきことにその情報はソ連に漏れている。2年の幅を見て、昭和21年から23年までの間にソ連もまた保有に至るだろう。
本土決戦など、痴人の夢である。
米国民はもとよりその指導者の対日観を考えれば、欧州でナチスがやっていることをサルと決めつけられている我々に行わないとはだれが言えるだろう。」


今回ご覧いただきたいのは、当時米国政府内部で検討されていたという敗戦後の日本分割計画図です。
阿部が危惧した通り、北海道と東北地区はソ連占領地域に、そしてそれ以外を米英、そして中華民国が占めています。
そして終戦時に素案として検討されていた日本本土侵攻作戦「ダウンフォール」。
そこには、大量の原子爆弾と生物化学兵器の使用、そして200万にも達する連合軍の総力を挙げた侵攻作戦が記されています。
参加航空機1万3000機超、参加艦艇大小2000隻。さらには北方からはナチスドイツを倒したソ連の巨大な機械化軍団が迫ってきます。
もし、戦争が昭和21年にまでずれこんでいたとしたら…

日本は、次々に投下される原子爆弾により都市を焼かれ、阿鼻叫喚の地獄絵図の中で滅びて行ったことでしょう。


吉田や、阿部の腹は決まりました。
なんとしても、こうなる前に戦争を終わらせ、国土を守りきる。
そして、北から迫るソヴィエトに対抗できるだけの力を残す。
親英米派であった吉田はもとより、その場のすべての人々がこれには賛同しました。
阿部は言います。

「国土は占領されるだろう。陸海軍はもとより、その掲げた大義もまた否定されるかもしれない。
だが、国民は残る。それに、この資料で判明した事実をもってすればなんとか最後の衝撃を米国に与えられ、一縷の望みをつなげるかもしれない。」

実はこのとき、政府上層部も終戦工作を開始しようとしていました。
戦争を終わらせるためには、仲介者となる国が必要です。
日本政府が頼ろうとしたのはなんと、ソ連。
当時交戦関係にない唯一の連合国側の大国として期待をかけたのです。
ですが。阿部が手にしていた資料には、そんなことは期待できないという事実が示されていました。

301 :ひゅうが:2014/11/01(土) 00:01:52

「砕氷船理論」

日本と周辺国の争いを助長し、それによって泥沼の果てに荒廃したアジアをソヴィエトが席巻するというその理論が本当にソ連政府の手によって指示されたものであったのかはわかりません。
ですが、当時憲兵隊や各地のシンパから押収した資料の中には、まるで救世主を待望するかのようにそのような言説が文書に記されていたといいます。
決定的だったのは、匿名の情報源からの告発でした。

「米国内高官に、相当数のソ連シンパあり。ことに英国内部においては情報部のごく上層が染め上げられている。」

そして阿部は、交換船で米国から帰国した武官の一人から聞いた話をもとにして、次の結論に達します。

「大統領は知っていたのだ。日本側が先制攻撃に出ることを。」

真珠湾奇襲攻撃の際、日本大使館では翻訳作業に手間取り、厳守とされていた提出期限に30分遅れて宣戦布告文書が手交されました。
しかし、それを見越して、駐在海軍武官であった寺井義守中佐と磯田三郎陸軍中佐は、独断でマスコミ各社に連絡。
「手交期限において重大発表を行う。これは日米関係にある重大な変事が生じる結果となったためである」と言明していました。
しかし、不思議なことに、取材自由であるはずの国務省内のロビーと日本大使館内に指定した会見場には誰も姿を見せませんでした。
「パールハーバー」以後、そのことを尋ねた寺井中佐は、ある国務官僚たちがいたずら電話だとロビーから記者を締め出し、問い合わせをかけた日本大使館と電話がつながらなかったことを知らされました。
真相は、未だに明らかとなってはいません。

しかし、暗号解読の結果当時の大統領が少なくとも真珠湾奇襲攻撃以前に開戦を知っていたことは複数の証言から確実となっています。



ですが、阿部たちは悩みました。
既に日本による卑劣な奇襲攻撃という形でアメリカの世論は固まってしまっています。
いかにして戦争を終わらせ、そして戦後の復讐に名を借りて行われる国力の衰退と、ソ連による国内浸透を防止するのか。
いずれにせよ、手詰まりとなることは確実でした。

情勢の変化を待ちつつ、可能な限り敗北を先送りにする。
平凡ですが、それが彼らのとるべき手段となります。

対潜戦と対空戦の専門家として注目されていた軍人たち、そして官僚たちは連絡を密にしつつ効率化に邁進します。
その過程で、軍令部や艦隊の中でも彼らを認め始めていた人々からの助力もあり、昭和19年10月までに連合艦隊各艦は所定の改装を完了。
基地航空隊の整備とあわせ、量産が開始されていた小型水中高速潜水艦も配備がはじまっていました。

この間に、阿部は、副総理格として入閣していた海軍和平派の領袖 米内光正海相に行動の承認と黙認をとりつけています。
以後の吉田茂と阿部ら一派は、この黙認を後ろ盾にこれまで以上に活動を活発化させることになります。





「いやぁ、中曽根さん。わかってはいてもすさまじい内容ですね。」

「そういう時代だったのですね。現代のように互いの国がどういうことなのかボタンひとつで調べるなんてこともできません。
まだ開発中だった新エネルギーである原子力の危険性もわかっていないことの方が多かったといいます。」

「その点、阿部提督が――いってしまえば節操なく集めた研究者の中に、放射線被曝を研究していた彦坂忠義博士がいたことは極めて効果的に作用していたといえるかもしれませんね。」

「はい。集めたというよりは訪問して矢のように質問を浴びせ口説き落とすのですが、これには軍上層部のほうが驚いていたらしいですね。
何しろ、彼は、日本の原爆開発計画のうち応用と発展を研究していたF計画の中心人物だったのですから。」

「水爆の登場やその後の相互確証破壊までを予見していたという人物ですね。
この番組でも以前取り上げさせてもらったことがあります。
しかし、この匿名の情報源というのは一体?」

「こればかりは私もわかりませんね。そして『わかっていても言えない』と申し上げておきましょう。」

「ではひとつだけ。その人物にお会いしたことは?」

「ありません(笑)。」

「わかりました(笑)。では、次にいってみましょう。
終戦工作を開始した阿部提督ら一派。その動きを待たずに歴史は再び動き始めます。」

302 :ひゅうが:2014/11/01(土) 00:03:10
昭和19年9月。
海軍は情報収集の結果アメリカ海軍の次なる侵攻先をフィリピンと断定。
その際にとるべき作戦について話し合いを持ちました。

会議に出席したのは、連合艦隊司令長官に親補されたばかりの南雲忠一大将をはじめ、航空隊の総指揮官も兼ねる小沢治三郎中将、艦隊側の主だった面々がすべて集まっていました。
軍令部からは、古賀峯一軍令部総長と栗田健男次長。
陸軍からは参謀総長梅津美次郎大将をはじめ、フィリピン防衛を担当する将帥も参加しています。
会議冒頭、作戦計画を練り上げた神重徳大佐と源田実少将らは方針を説明します。

「本作戦の主目標はフィリピンへ侵攻する米艦隊ではなく、米上陸軍部隊である。
これを徹底してたたくことにより米国民の厭戦気分を惹起せしめるのがその目的である。」

この言葉にその場の面々は動揺します。
海軍の目標となると、艦隊というのがその常識。
ざわめく海軍側を尻目に、梅津参謀総長が質問します。

「陸軍としては助力はありがたい。だが、艦隊を撃滅しなければ侵攻意図を挫くことは難しいのではないだろうか?
この作戦の意図を知らせてほしい。」

神は、その場にいた総力戦研究所所長の小川貫爾海軍少将を演壇に呼び寄せます。
小川は言います。

「フィリピンをおとされれば南方航路は途絶し、本土は飢餓状態に陥る。これは戦前に想定されながらも無視されたわが総力戦研究所の図上演習の通りであります。
これを阻止するに、艦隊を狙うのはまったくその通りですが、もはや数が違いすぎます。」

小川がもたらした、フィリピンに襲来する米艦隊の戦力を聞いた陸軍側はざわめきます。
空母20、戦艦15近く。
かのマリアナ沖海戦において大打撃を与えてもなおこれだけの戦力を整え、かつ投入できるアメリカという国のすさまじさを陸軍側ははじめて直視したといってもいいかもしれません。


「艦隊を撃滅することは可能でしょう。ですが、それのみを目的としたのならば連合艦隊は全滅し、その後繰り出される米艦隊によりフィリピン、マリアナ、沖縄と次々に要地が落ちていくでしょう。」

「ならばこの作戦の後はどうするのか。」

「フィリピンを守ることができれば、最低限の南方航路は守ることができます。
その後、敵の侵攻に対し打撃を与え続けて米国内の変化を待ちます。
敢闘精神をもってしても、これから来年度にかけて就役するさらに20隻以上の正規空母と戦艦をすべて撃滅し切ることは困難であります。」

梅津をはじめ参謀本部員たちはうめき、「あいわかった」と返答したといいます。
この会議場には、阿部の姿もありました。
航空作戦における夜間攻撃と敵兵站攻撃の方針について説明するためです。

マリアナ沖海戦の結果判明した米艦隊の強力な電探連動対空砲火や戦闘機誘導などを鑑みて昼間の大規模攻撃の限界が露呈したとして、航空攻撃の夜間化や、電波妨害などの併用を提言した阿部は、ミッドウェー以来連絡をとりあっていた源田実、そして松田千秋や長瀬登らの防空戦闘の専門家たちとともに航空戦と防空戦の方針を艦隊側において転換させていたのです。

この方針を陸海軍共通のものとすべく臨んだ会議においては、極端なものでは「体当たりを前提とした航空作戦」までもが提案されますが、南雲提督や古賀提督、さらには梅津総長の反対で潰えます。
結局「他策なかりしと認む」として方針は既定化されました。
しかし、とりわけ陸海軍将帥を驚愕させたのは、作戦の方針ではなくその方法でした。

「空母機動部隊には防空戦闘に徹し、10隻の戦艦を主力とした水上艦隊を上陸地点と推定されるレイテ島周辺へ突入。輸送船団と支援艦隊ごと敵上陸軍5万程度を艦砲射撃と陸からの反撃で撃滅する。」

この方法は、第1次ソロモン海戦において日本海軍が実施した方針の発展系でした。
これには、空母機動部隊用に用意されていた攻撃機部隊の再建が進み切っていないという事実が関係していました。
マリアナ沖海戦において起きた大規模消耗は、半年やそこらで埋め合わせ可能なものではなかったのです。
これを報告する機動部隊の担当者、ことに錬度を説明する淵田大佐をはじめとする搭乗員たちの間からはすすり泣きの声が漏れたといいます。
もはや海軍機動部隊の栄光は、マリアナの勝利と引き換えに失われてしまったと。
かわって出番がまわってきたのが、第3次ソロモン海戦において猛威を振るった大和型戦艦姉妹を筆頭とした水上艦隊。
夜間射撃能力の向上や、対空火器の大増設、そして回避戦術の徹底化などの対応をとっており勝算はあると考えられたのです。

303 :ひゅうが:2014/11/01(土) 00:03:57
最後に、「フィリピン防衛は陸海軍の総力を挙げたものとなる。とりわけ陸軍の協力は必要不可欠となる。よろしくお願いする。」と古賀提督が述べて会議は終了しました。
作戦名は「捷1号」。
勝利を期待する切なる祈りがこめられた名前でした。



海軍が作戦準備に移る中、阿部たち一派はそれに紛れるかのように行動を開始します。
しかし、その前に阿部には、軍令部の一部から押し付けられた仕事が待っていました。
有人ロケット飛行爆弾計画の粉砕。
先走った士官たちの行動は、技術開発関係者経由で専門家であり本土にいる阿部の耳に入ったのでした。
ですが、彼が出るまでもなく、夜間攻撃や連合軍側から逆輸入された反跳水切り爆撃という対策法が提案されたこともあり艦隊側や海軍省からもこの計画は反対の声があがりました。
かわりに、航空本部が計画していた長距離誘導飛行爆弾計画へと舵を切ります。
そのための技術協力を陸軍に要請するための人間が必要となったのです。

そして白羽の矢が立ったのは、有能な厄介者呼ばわりされていた阿部大佐でした。
陸海軍共同でフィリピン防衛作戦にあたることが決まったとはいえ、誰も頭を下げることはしたくはなかったのです。


このとき、阿部大佐は誰も想像しなかった行動をとりました。
話を聞きつけて威圧する陸軍士官たちや将帥の前に、荷物持ちの副官一人をつけて赴き、そしておもむろに膝をつきます。
阿部は、膝をついて頭を下げ、切々と懇願したのです。
土下座、でした。
仲の悪い海軍軍人をさんざんにいびってやると息巻いていた陸軍士官たちを圧倒します。

この後、なぜこんなことをしたのか問われた阿部はこう答えています。

「頭を下げれば、散る若鷲が少しでも減る。ならば下げないことがあるのか?」

図らずも、この行為は陸軍の中枢はもとより軍令部の多くにも阿部の支持者を増やす結果となりました。
そしてこの時点で、阿部たち和平派の動きを妨害できる者はほとんどいなくなったことを意味していました。
外交官であった吉田茂の援護射撃もあり、阿部は、ストックホルムとスイスという、政府が予備の交渉窓口と位置づけていた方面へのつなぎを作ることに成功します。
そして、彼は切り札を託しました。
それが花開くまでは、さらに半年以上の歳月が必要となります。




昭和19年11月。
米軍レイテ島に来襲の報告を受けた海軍は、捷1号作戦の発動を下命。
ブルネイ泊地に待機していた連合艦隊主力と、防空戦に徹していた台湾の第2航空艦隊、さらにはレイテ島に配備されていた陸軍部隊が動き出します。

主力部隊の指揮官となったのは、第2艦隊司令 宇垣纏中将。
本土の南雲連合艦隊司令長官は囮となる小沢治三郎第3艦隊司令長官に対し、「可能な限り耐久せよ」との訓令を送ります。
これに対し、アメリカ海軍はマリアナの雪辱を果たそうと大機動部隊をもって日本艦隊迎撃のため、台湾空襲を中止し前進を開始しました。
当時の常識からすると、もはや海軍の主力となるのは航空母艦。
日本側の15隻の空母群こそがその戦力の中核であるためです。

防空戦闘機部隊を満載した第3艦隊は、防空戦艦となった「伊勢」「日向」搭載レーダーにより的確に探知。
効果的な防空戦闘を展開します。
艦隊の維持を第一として陣形を組むアメリカ方式の防空戦ではなく、個艦の回避能力に重点を置くという新たな防空戦闘方式はここでも威力を発揮。
1日目の空襲においては、小沢機動部隊はその被害を局限することに成功します。

対して、突入部隊の主力となった宇垣艦隊は、防空用軽空母の働きがあったとはいえ苦戦を強いられました。
次々に被弾する補助艦艇。
中でも、大和型戦艦の2番艦武蔵には多くの米軍機が殺到しました。
そして、そのうちの一発が、偶然にも多くの艦艇にとっての急所を直撃。
速力が大幅に低下してしまいます。
宇垣長官は迷います。
突入すべきか。それとも…
そんな時、アンテナからは小沢機動部隊からの敗北宣言と同時に勝利宣言が入ってきます。

304 :ひゅうが:2014/11/01(土) 00:04:38

「ハルゼー機動部隊は北方へ針路を転じたり。」

ハルゼー提督は、南北から彼らの艦隊を挟撃するように進んでくる小沢艦隊と宇垣艦隊を、自艦隊の撃滅のために小沢艦隊を囮としたと判断したのです。
それは、艦隊こそが主力というこれまでの常識に加えて、ハワイや米本土からの指示によるものでした。
現在の研究においては、フィリピン侵攻を強引に押し進めた陸軍に対し、海軍合衆国艦隊司令長官を務めていたアーネスト・キング元帥が艦隊への対処を厳命したことがこの判断にいたった直接の理由であったということが定説となっています。
宇垣長官は、発光信号によって高らかに宣言します。

「ゆくぞ、レイテへ!」

この状況は、日本本土で作戦の帰趨を見守っていた阿部の耳にも届きます。
やがて、スガリオ海峡へと達した宇垣艦隊は、迎撃に出てきたアメリカ艦隊を夜間レーダー射撃をもって瞬殺。
サマール島沖において護衛空母艦隊を消滅させ、ついにはレイテ湾に達します。
そして、有名な電文が全周波数帯に放たれます。


「天佑まさに我らの手にあり。全艦突撃せよ!」


10隻の超弩級戦艦、数十隻の巡洋艦・駆逐艦。
その前に差し出されたのは、旧式戦艦部隊に加え、合計10万近い上陸軍部隊。
容赦なくふるわれた火力は、核攻撃を除けば単位時間当たり最大の被害をもたらしました。
死傷者および行方不明者合計 約9万名。
通常兵器によってこれほどの被害がわずか2時間の間に与えられた例はこれ以後もありません。
怒り狂った米艦隊が宇垣艦隊殲滅のために進撃する中、しんがりを買って出た戦艦「武蔵」は、逆にアメリカ海軍の新鋭戦艦を3隻道連れにして海中に没し、残る3隻にも大きな損傷を与えて追撃を断念させています。

レイテ沖海戦は、日本側の勝利によって終結しました。
しかしその代償として、囮となった小沢機動部隊はほぼ壊滅。
ですが――またしても、この勝利はいかされませんでした。
日本政府は、休戦講和の方針をさらに強化したのですが、それはソ連を通じたもののみ。
辛うじて成立の可能性があった中華民国国民党政府との間の交渉も、政府内部の意見が二転三転し当局はもとより相手方にも混乱を呼んだだけでした。


「なぜ政府は動かない!もはや海軍はあと1回の海戦を戦えば全滅するまでになっているのに!」

海軍内部ではそんな声が上がり始めていました。
ですが、陸軍内部では「この時点で膝を屈しては散っていった英霊にどのように言い訳する!」という論理が幅を利かせています。
しかし、多くの人々はそれを本音で信じていたわけではありません。
それを述べていた一部の声の大きい少壮将校の本音は、戦後開かれた東京裁判における証言で明らかでしょう。

「本土決戦となれば、わが陸軍が主役となる。たとえ本土が陥落しても満州に陛下をお連れして抗戦すればよい。海軍の臆病者に降伏させてなるものか。」

政府上層部は、戦前に繰り返されたテロルと、クーデターを恐れるあまりにこれを抑え込むことができませんでした。
自ら強権をふるうことでこれを統制していた東条内閣はすでに倒されていました。
ですが、それが逆に強硬すぎる将校たちへの押さえを緩めてしまっていたのです。

これを封じるには、さらなる衝撃が必要でした。
必然的に、海軍は最後の戦いを覚悟せざるを得ません。


「帝国は、無責任が故に滅びるのですな。」

「そういうことになる。だから責任は取らねばならん。君もな。」

米内副総理兼海相と阿部大佐のやりとりです。
このときを境に、海軍は最後の戦いの準備と同時に本格的な終戦工作を公然と開始します。
憲兵隊はこれを押さえこもうと幾度か摘発を試みましたが、そのたびに意外な人物がこれを阻止しました。
陸相 東条英機大将。
レイテにおける決戦において、自派である第4航空軍司令官や防備部隊司令官がさらした醜態に加えて、東条大将が考えていた一撃講和方針の機会が画弊で終わったことが彼を死に急ぐように駆り立てていたといわれています。
彼がつけていた日記には、「何とか戦争を終わらせなければ」という遅まきながらの彼の決意が記されています。

305 :ひゅうが:2014/11/01(土) 00:05:39

このとき、敵となったアメリカでは変事が発生していました。
大統領ルーズベルトが過労によって倒れ、執務不能に陥ったのです。
彼の後をついだのは、「アメリカの良心」として名高いヘンリー・ウォーレス副大統領。
和平派は今こそ講和交渉の好機と考えましたが、欧州におけるバルジの戦いにおけるドイツ軍の大反撃や中国大陸における勝利にさらに声が大きくなっていた抗戦派の抵抗もあり、この動きは不発に終わってしまっていました。

かといって、勝利の道を示す者は誰もいません。
まさに、日本は無責任ゆえに滅びつつあったのです。





「中曽根さん。レイテの後はどんな雰囲気だったのですか?」

「それはもう、お祭り騒ぎです。
レイテ決戦の歌なんてものも作られたくらいで、これを指揮した宇垣長官は今東郷なんて呼ばれていたくらいです。
これで米英は降伏を申し出るなんて景気のいい話も新聞をにぎわせていましたね。」

「あおるだけ煽る、と。」

「ええ。信じがたいかもしれませんがね。
ですがそんな雰囲気は、12月の東京大空襲で吹き飛びました。」

「主に東京の下町を目標に行われた最初の大空襲ですね。」

「はい。当時強力な乱気流が日本周辺を覆っていたことと、米軍が400機という膨大な数を一気に投入したことによって日本側の迎撃隊は阻止に失敗。
5万もの被害を出しています。
まだウォーレス大統領への交代から間もない頃でしたので、陸軍航空隊が強引に報復攻撃を押し通したのです。
さらに、12月7日、東南海地震が発生。報道管制のもとでもきわめて大きな被害が出たということが聞こえてきます。」

「この大地震で中京地区の、ことに航空機工場が被害を受けたそうですね。」

「はい。特に数を揃えなければいけないような二線級の機体の補充能力が目に見えて落ちていきました。
この頃からですね。負けるかもしれない、という話が大っぴらに聞こえ始めてきたのは。」

「その後も空襲は続きましたね。」

「ええ。ですが事前に構築されていた迎撃網が効果的に機能したこととで空襲被害はドイツ本土戦略爆撃ほどの威力を発揮できませんでした。
そこへ、東南海地震で被害を受けた中京地区に対して三河地震が発生します。
45年の年もあらたまったばかりの1月13日です。
今度は、報道の統制がしきれませんでした。
相変わらず南方航路は維持できていましたし、本土決戦なんてことも聞こえ始めていましたから食糧事情は戦後すぐのころほど逼迫していませんでした。内地の一般家庭でもたまには肉が食べられたくらいですよ。
ですが、もうその頃からですね。みんな『これは負ける』と確信したのは。」

「さて、昭和20年に入り、日本を取り巻く状況はさらにひっ迫していきます。
それと同時に、海軍と阿部大佐の最後の戦いの準備も進んでいきました。その内容について、どうぞ。」
最終更新:2014年11月11日 03:08