332 :ひゅうが:2014/11/01(土) 15:45:14
※ 本作はフィクションです。実在の人物・団体には一切関係ありません。




 戦後夢幻会ネタ―――閑話「その時歴史が動いた~日本放送機構のある番組から~ その4」



「中曽根さんは、この時のことはやはり印象深いでしょうか?」

「もちろんです。4月1日には小笠原でみんな死ぬと思っていましたから、私の乗り組んでいた戦艦長門もみんな遺書を書くように命令が下っていました。
そうしているうちに、出撃直前の7日の未明でしたか、『沖縄がやられている。こちらが本命らしい』ということを艦長が艦内放送で伝えました。訳知り顔の古参士官なんかが『これはいけるかもしれんぞ』と頼まれてもいないのに講釈をはじめました(笑)。
で、『やってやるぞ』という気になりました。」

「なるほど。生き残れるかもしれない、と。」

「それは死ぬのは覚悟していました。ですが、硫黄島までの道中で何の成果もあげられずに撃沈されるよりも、生きて沖縄にたどり着いて、大暴れした後で死ぬほうがいいにきまっています。
何より、助けを待っている県民がたくさんいるということは自然と私たちの胸にすとんと落ちました。
で、悲壮というよりは『やってやるぞ』という雰囲気に。」

「そういうことですか。意外です。」

「不思議なもので、何かが決まってしまうと腹が据わるといいますか、そういう気分になるものですね。
その時はほぼみんな、そんな感じだったと思いますよ。
私なんかも、秘蔵の羊羹をみんなに配ったりしていました。
もっともそれが微妙な結末になってしまったので…」

「なるほど。それではみなさん。いよいよ提督たちの決断のときが迫ってきました。
いよいよ沖縄沖海戦がはじまります。
日本放送機構ではその瞬間までの再現映像を1年をかけて製作しました。
可能な限り史実に忠実に製作していますので、よく知られている事柄と違うことがあるかもしれませんが、ご覧いただければ幸いです。どうぞ。」





昭和20年4月12日深夜。
沖縄本島沖合においてアメリカ海軍機動部隊は大量の通信電波を発信。
これが日本海軍の通信傍受施設において受信され、直ちに文章化されます。
その多くは、突然襲ってきた嵐によって混乱のうちに発せられた暗号化されていない電文でした。
爆弾低気圧。
アメリカ海軍を襲ったのは、現在そう呼ばれる季節外れの台風でした。
極めて短期間に発達したこの低気圧は一度小笠原のはるか沖合で発生してから九州をかすめ、沖縄本島方面へとやってきたものでしたがそのメカニズムについて未知であり、海上の気象についてはあまり熱心ではなかったアメリカ海軍は退避の時期を見誤ってしまいます。
アメリカ海軍がこの作戦に投入していた大型航空母艦の数は8隻。
しかも、航空機から身を守るために大量の対空火器で身を固めていたために重心が高く、ことに暴風雨では不安定さを増してしまいます。
このためにそのうち2隻は、10メートルを超える大波を横から受けて飛行甲板とエレベーターが損傷。戦わずして作戦能力を失ってしまいました。
さらには、航空機を飛行甲板に露天で繋止することで搭載機の数を増やしていたこと、そして格納庫の中では天井から機体を吊り下げることでこれを行っていたことが不運につながりました。
嵐にもみくちゃにされる中で係留ワイヤーが切れた機体や、固定が不十分だった爆弾やガソリンが転がり壁面に衝突、これに引火して爆発するといった事例が多数発生したのです。

こうした事例は、他の艦艇でも発生しました。
嵐を乗り切ったアメリカ機動部隊は、軽巡洋艦1隻、駆逐艦3隻が横転し沈没。
航空母艦2隻が戦列を離脱。
さらには航空機100機あまりを海洋投棄するという大損害を受けてしまいます。
しかし、被害コントロール技術に優れるアメリカ海軍は、わずか2日でこの損害を局限し修理を実施するという離れ業を見せました。
ですがこの時受けた損害に、アメリカ海軍は最後まで苦しむことになります。


昭和20年4月14日午前9時。
予期せぬ大観衆に見送られ、大和を旗艦とする連合艦隊第2艦隊は呉を抜錨。
豊後水道へ向かいます。

遅れて午前11時、佐世保軍港において角田中将を指揮官とする連合艦隊第3艦隊が抜錨。こちらも多くの見送りを受けて東シナ海へと入りました。
彼らは盛んに電波を発し、存在を誇示しつつ南下を開始。九州に展開した基地航空隊が上空を守る中、一路沖縄へ向けての針路をとります。

333 :ひゅうが:2014/11/01(土) 15:46:02

午後1時、日本本土の通信量の激増を受けて豊後水道付近に潜んでいたアメリカ海軍の潜水艦「カヴァラ」が危険を冒して潜望鏡を上げ、第2艦隊の出撃を確認します。
しかし、この頃までに性能が向上していた連合艦隊の駆逐艦群はこれを直ちに探知。
即座に、随伴する航空母艦「瑞鶴」から飛び立った歴戦の対潜哨戒機が攻撃に入ります。
そのため、アメリカ海軍は豊後水道から日本艦が出撃という第一報以外の報告を手にすることができませんでした。


日本海軍出撃の報に、米機動部隊は修理を完了したばかりの艦隊から損傷を受けた2隻を除き、さらには予備としていた機体を搭載。
後詰として水上艦隊を残しての迎撃を開始すべく、北上をはじめました。
予定では九州方面への牽制攻撃が計画されていたのですが、爆弾低気圧による損害を受けてこれは断念。かわりに防空戦闘機部隊を多めにとっていたといいます。
そして4月14日夜には、艦隊は奄美諸島の沖合に達します。

ですがそのとき海中から米艦隊を監視する目が光っていたことに、彼らは気付くことができませんでした。

4月15日未明、アメリカ機動部隊のレーダー上に、奇妙な影が映りました。
距離は約200キロ。数は100機あまりの大型機の編隊です。
しかし、その後は艦隊を離れていきます。
迎撃のために飛び上がった夜間戦闘機隊はいぶかしがりながらも帰還しますが、その時…
水平線上にオレンジ色の炎が見えたかと思うと、警報が艦隊に鳴り響きます。
速度は毎時750以上。数は100あまり。
小型単発機と思われたそれは、距離3キロほどまで近づくと一気に上昇。機体後部が燃え上がるような噴射炎を発してさらに加速し、艦隊に次々に突っ込んでいきます。
爆発。たった一発で巨大な航空母艦の甲板から高々と火柱が上がりました。
空母が炎上する中、回避しようと舵を切るものも出てきます。
ですが、まるで見えているかのように機体は進行方向を変えて艦隊から離れようとした艦艇にも襲い掛かりました。

日本海軍が実用化したばかりの対艦ミサイル攻撃、それがこの恐怖の正体でした。

この夜に行われた攻撃により、応急修理ですまされていた無理がたたった航空母艦がさらに2隻沈没。
残る4隻も大小の被害を受けて一時的に戦闘能力を喪失します。
それは、残る英国機動部隊に加え、水上艦隊で日本海軍を相手にせねばならないという最悪の予想を示していました。



意気上がる連合艦隊。しかし、日本海軍にも不運が襲います。
4月15日午前5時14分 九州沖において戦艦「長門」の機関部に故障が発生。
速力をわずか12ノットをしか発揮できなくなってしまったのです。
それは、「長門」の沖縄への突入が事実上不可能となったことを意味していました。
艦長の渋谷清見大佐はそれでも同伴を申し出ますが、旗艦である「大和」からの命令は…

「若年の士官候補生や兵士たちを下船させる。貴艦は夜明けの前に九州航空隊の制空圏下へと退避せよ。」

第2艦隊参謀長をつとめていた森下信衛少将は、このとき、黄金仮面と呼ばれるほどの無表情で有名だった宇垣纏中将と

「これでいい。この先は三十歳未満の連中はまだ早い。」

「大人だけの祭りというわけですか。」

「後始末は大人の責任だよ。」

と笑いあったと手記に記しています。
昭和20年4月15日 午前6時30分 朝焼けに染まる太陽の中、数隻の駆逐艦を共にした戦艦「長門」へ、第2艦隊は永遠の別れを告げました。
艦上には、各艦から退艦した若年志願兵や士官候補生たちがならび、涙にくれる「長門」乗組員たちとともに水平線へと消えていく第2艦隊をいつまでも見送っていたといいます。
戦艦大和が、沖縄に突入するまで、あと12時間。

334 :ひゅうが:2014/11/01(土) 15:46:45



「中曽根さんは、この時、この光景を長門の艦橋から写真にとっておられますね。」

「はい。」

「ああ私が出します。こちらです。
奥から単縦陣を組んでいるのが第2艦隊です。この、ひときわ大きな艦が『大和』ですね。」

「はい。(涙を拭きながら)先頭に『雪風』をはじめとする水雷戦隊を、続いて巡洋艦部隊が、そして『大和』『陸奥』『榛名』『霧島』が続いています。」

「佐世保から出撃したのは『金剛』『比叡』や残った空母『雲龍』『天城』などですね。」

「そうですね。それに改装空母が何隻かです。これら以外は、シンガポールの艦隊と、呉で傷を癒していた何隻かの戦艦、そして訓練が未完了のために本土へ残った『信濃』や『葛城』などがいました。
この方面で動ける海軍のフネはほぼすべてが出撃していました。」

「中曽根さんは――少し質問しづらいのですが、そのときどのように感じられましたか?」

「残念でした。せっかくの機会なのに、いっしょに行けないことが。
ただただ残念で残念で…」

「涙をお拭きください。」

「ああすみません。ですが、仕方がないこともあったのです。レイテでほぼ無傷で生き残れたのですが、そのために修理などは多少なりとも敵弾を受けた艦が優先されました。
そのためにオーバーホールの予定であった機関などはほかの中小型艦艇が優先され、長門のボイラーは限界を迎えていたのです。
おかげで終戦までの間に修理を終えることができたのですが、あのまま沖縄へ行って引き返せない時点で故障が起きたらと思うとぞっとします。
間違って海戦の最中なんかであったら…」

「確か、参加予定であった軽巡洋艦『酒匂』や『矢矧』も同様の故障をしていますね。」

「はい。こちらは出撃1週間前でしたので修理が間に合わずに部品を損傷の程度が軽かった『矢矧』に回しました。
しかし、返すも返すも、この機関不調は惜しかったものです。もしも十全であったのなら、もしかしたら――ということが考えられるだけに。
いや、誰のせいでもないことはわかっています。ですがそれだけに――」

「お辛いでしょうに、ありがとうございました。」

「いえ。」

「さて、いよいよ今日のその時がやってきます。」






昭和20年4月15日午前11時30分。
東シナ海を北上する英機動部隊は、そのレーダーに偵察機をとらえます。
毎時700キロに達する高速のその機体は、特別にあつらえられた高オクタン価ガソリンを搭載した偵察機彩雲改。
英機動部隊は、日本海軍第3艦隊に発見されたことに気が付いたのです。
それからわずか30分。
太陽が中天に達すると、第3艦隊から放たれた200機に達する攻撃機隊は英国機動部隊に殺到。
日本側の攻撃機部隊の巡航速度が英国側より毎時100キロ以上も上であったために甲板には発艦作業を待っていた攻撃機隊が満載されていました。
このとき、英艦隊を発した偵察機が日本艦隊を発見して詳細な位置を打電しており、英艦隊は奇襲を受ける格好となりました。

一瞬にして英機動部隊の主力となる空母4隻が炎上すると第3艦隊は周囲にさかんな索敵を開始。ついに米機動部隊を発見します。

このとき、第2艦隊は未だに米艦隊に発見されておらず、米機動部隊はあわてて全力での攻撃に移ります。
英艦隊からもたらされた情報により日本艦隊が2隻の長門型戦艦と機動部隊主力を有すると誤認していたこともこれを後押しします。

335 :ひゅうが:2014/11/01(土) 15:47:30

4月15日午後3時。
第3艦隊が最後の攻撃機隊180機あまりの全力攻撃をかけ、米機動部隊がのべ600機に達する攻撃機隊を発進させた頃、北方を警戒していた偵察機が悲鳴のような報告を送ってきます。

「新たな日本艦隊を発見。数は戦艦2 空母1 大型巡洋艦2を基幹とする。戦艦はヤマト・クラスを含む。」

これは、大和型戦艦の大きさに加え、日本側の迎撃隊に追い回される中の報告であったために2隻が含まれていた金剛型戦艦が含まれていない値でした。
この時点で、第3艦隊へ向かった攻撃機隊はこの艦隊に存在していたのが金剛型のうち2隻であったことに気が付いていません。
それでも、攻撃隊が帰還した後でこの新たな艦隊を迎撃できるだけの機体や時間は存在していません。
必然的に、この艦隊は夜間のうちに沖縄周辺へ到達してしまうことになります。
実際に
残った予備機80機あまりを動員して行われた第2艦隊への攻撃は、空母「瑞鶴」の大破によって終了するなど不徹底に終わります。
第3艦隊は、その身が全滅することにより第2艦隊の突入までの時間を稼いだのでした。



―――その時、昭和20年4月15日午後6時、第2艦隊は夕陽に赤く染まる水平線上に、はるか沖縄本島の北端辺土岬を視認します。
第2艦隊は、日本本土と沖縄に向けて全力で電文を発信します。


「第2艦隊は沖縄本島沖合へ到達。これより万難を排し突入を開始す。」


4月15日午後7時、日本海軍の突入を妨害すべく、空母機動部隊の護衛部隊から分派された戦艦「ノースカロライナ」を基幹とする水上艦隊は、沖縄本島北方の与論島において突進を続ける第2艦隊主力と接敵します。
今度こそと意気込む「ノースカロライナ」でしたが、彼女を悪夢が襲います。
戦艦としてはバランスのとれた艦であった本艦ですが、その装甲は軍縮条約の影響を受けて耐36センチ砲相当。
しかも、日本艦隊発見以来突進し続けたために予想以上に早く接敵したことから戦力差は5対1にまでひらいていました。
「ノースカロライナ」は、艦隊最後尾に位置する戦艦「霧島」に捕捉されます。
それは、2年前の第3次ソロモン海戦において咄嗟の遭遇戦で打ち据えられ、大破させらえた因縁の相手「ワシントン」の同型艦への雪辱を果たすかのようでした。
日本艦隊が島影を背にして砲戦を開始したのに対し、「ノースカロライナ」はそれを雑像として見つつも砲戦を開始します。
しかも、数の暴力は日本側に味方しました。
戦艦「榛名」の第2斉射は、対空戦闘のために用意されたままであった三式弾。
すなわち、榴弾の一種でした。
これが「ノースカロライナ」の艦橋に直撃。
花火のようにレーダー装置と照準装置に襲い掛かったのです。
一瞬で夜間の目を奪われた「ノースカロライナ」は砲撃能力を失いました。
開始からわずか3分。戦艦「大和」はその撃沈スコアに新たに1隻を追加。第2艦隊は進撃を再開することになります。

一方、後方から日本艦隊を挟み撃ちにする予定であった「ノースカロライナ」からの悲鳴にも似た電文によりアメリカ艦隊は日本艦隊の目標が沖縄本島中北部北側の宜野湾であると判断。
伊平屋島沖に残った戦艦5隻、「アイオワ」「ニュージャージー」「ミズーリ」「ウィスコンシン」「インディアナ」を展開させ、日本艦隊を待ち受けました。


昭和20年4月15日午後11時53分、伊平屋島沖13海里において宇垣艦隊はアメリカ艦隊と会敵。
この時点で、アメリカ艦隊の指揮官デイヨー中将は日本艦隊の戦力が予想を上回る戦艦4隻に上ることに気が付きます。
しかし、アメリカ艦隊がすべてアイオワ級とサウスダコタ級という最新鋭の艦で構成されていることは彼らに勝利の確信を抱かせたといいます。
いかに大和型戦艦といえども、レイテ沖において撃沈できたのだから、と。
一方の宇垣艦隊、第2艦隊もここが正念場であると突入態勢を作ります。
ここさえ突破すれば、沖縄本島のどこにでも乗り上げることができ、海岸橋頭保を砲撃することができます。
すでに、暗号電文で沖縄で持久戦を展開する第32軍が攻勢を計画している旨は把握されていました。
ここさえ突破できれば。


かくして、太平洋戦争最後の艦隊決戦「沖縄沖海戦 第二夜戦」ははじまります。

336 :ひゅうが:2014/11/01(土) 15:49:32

海戦の初手は、双方の巡洋艦部隊、水雷戦隊同士の激突により開始されました。
最後尾に位置していた「榛名」「霧島」は、速力を限界いっぱいの30ノット以上にまで増大させ、水雷戦隊とともに突入を開始します。
これに驚いたのは、米艦隊でした。
高速戦艦である金剛型が、主力を放り出して突入してくるように見えたのです。
ですが、これは日本海軍が金剛型を主力とともに行動する戦艦としてではなく、水雷戦隊の切り込み役として運用していたために起きたこと。
このため、金剛型が進む先となるアメリカ側巡洋艦隊方面を日本艦隊の突破目標であると考えてしまったとしても無理はないでしょう。

元来が金剛型の高速に対抗するために作られたアイオワ級戦艦のうち、「アイオワ」「ミズーリ」は速力を上げつつ金剛型に追随しようとしました。
しかし、それが勝敗を分けます。
アイオワ級戦艦は確かに33ノットという高速により金剛型を翻弄できる速力を有します。ですがその高速とパナマ運河という物理的な制限から、特に高速発揮時や荒天下での砲撃戦能力に大きな問題を抱えていたのでした。
対して、30年をかけて改装を繰り返しほとんど別の艦へと変わっていた金剛型戦艦は安定して性能を発揮。
米艦隊からの電波妨害にも水上観測機から投下される吊光弾とアルミの電波妨害箔(チャフ)という原始的ながらも効果的な対処法をもって位置を把握。
米巡洋艦隊とアイオワ級2隻の砲撃を一身に受けながらも巡洋艦隊の戦列への突入に成功しました。


一方の主力艦同士の砲撃戦は、3対2という数の比にもかかわらず第2艦隊主力の優位に進みます。
開始からわずか10分あまりで戦艦「陸奥」の砲弾2発が「インディアナ」の第2砲塔天蓋を貫通。防御構造に問題を抱えていたサウスダコタ級を一撃で戦闘不能に追い込み、2分後に大爆発を起こして轟沈という結末に追い込みます。
これに負けじと「大和」も砲撃を継続。「ウィスコンシン」の第3砲塔を叩き割り、誘爆により速力を10ノット未満にまで低下させ、さらに5分後には第1砲塔付近および艦橋へ命中弾を得、大破炎上に追い込みした。

しかし、この直後、日本側の大爆発が海をこがします。
砲戦開始後15分。ようやくアメリカ艦隊の旗艦「アイオワ」が命中弾を得、それが戦艦「榛名」の第1砲塔を大爆発させたのです。
この時までに「榛名」は巡洋艦5隻を撃沈破した挙句「アイオワ」に8発の命中弾を得ていましたが、防御装甲を貫通したのはそのうち2発のみ。
反撃は強烈でした。
「榛名」は最後の力を振り絞るかのように続けて2発の命中弾を得ると、弾薬庫が再度爆発。艦首から海へと沈んでいきました。

水雷戦隊のうち単艦となった「霧島」ですが、遅ればせながらも主力が追随していないことに気が付いた「アイオワ」「ミズーリ」を足止めすべく今度は逆に立ちはだかります。
そして稼ぎ出した時間は20分あまり。
最終的に18発もの41センチ砲弾をその身に受けた「霧島」は紅蓮の炎でその身を焼きながらも海上に停止しました。


この時点で日米の戦力比は4対2。これで勝てるとアメリカ艦隊に楽観が広がったとき、再び天秤は日本側に傾きます。
突入を成功させた水雷戦隊が放った魚雷――不必要な長射程を加減するかわりに炸薬量を大幅に増大させ、さらには連合軍のものをコピーしたTOPEX炸薬とした93式酸素魚雷改三が次々に炸裂したのです。
米艦隊の主力重巡洋艦「ボストン」に4発命中、轟沈。「ピッツバーグ」に3発命中、横転沈没。
その他、軽巡洋艦3隻が瞬時に爆沈します。
さらに、水雷戦隊は、わざわざ近寄ってきた米戦艦にも容赦しませんでした。
戦艦「アイオワ」には巡洋艦「北上」が放った40本もの魚雷のうち実に8発が命中。
「アイオワ」はダメージコントロールを行う暇もなく、艦体が3つに折れて海中に没します。
さらに、後続の「ミズーリ」には艦前部左右に4発が命中。航行能力を実質的に喪失した挙句に日本側の重巡洋艦から40発以上ともいわれる大量の20センチ砲弾を撃ち込まれて射撃能力を極端に低下させてしまいました。

意気上がる第2艦隊は、残る「大和」「陸奥」とともに突破を試み、「ニュージャージー」「ウィスコンシン」に対して砲火を向けます。
結果、「ウィスコンシン」は「大和」の斉射を受けてついに耐え切れず沈没。
「ニュージャージー」も前甲板に4発の命中弾を得て炎上します。

337 :ひゅうが:2014/11/01(土) 15:51:33
しかし、午前0時36分、砲撃を続けていた「陸奥」の第2砲塔に砲弾が命中。
弾薬庫に引火し爆発を連続させます。
戦艦「ミズーリ」の放った砲撃でした。後部艦橋の予備射撃指揮所の指揮によって放たれた9発の斉射のうち3発が命中し、第2砲塔を叩き割ったのです。
「陸奥」は反撃とばかりにさらに1発の命中弾を得るも、その直後大爆発を起こし轟沈していきました。


日本側の残存戦艦は「大和」のみ。

しかし、砲戦はさらに続きます。沈んだ僚艦の復讐とばかりに「大和」は「ニュージャージー」「ミズーリ」と砲戦を継続。
しかし、砲戦を継続する間に発生した霧は、突き進んでくる影へ気が付くのにわずかに遅れる結果を生みました。
0時45分、軽巡洋艦「ニューファンドランド」「デトロイト」および駆逐艦6隻が「大和」へ接近。
放った魚雷のうち4発が左舷に命中。
さらに、「ニューファンドランド」は「大和」左舷へ主砲を乱射しつつ突入。ゼロ距離での射撃とともに艦首から体当たりし、50発以上の砲弾で艦橋周辺へ甚大な損害を与えました。
これに勢いを得た米艦隊の「ニュージャージー」は、速力をそのままに進む「大和」へ至近距離で10発の命中弾を得て第3砲塔および第2副砲塔を旋回不能にまで破壊することに成功します。
しかし、その後の反応は激烈でした。
左舷へ突き刺さった「ニューファンドランド」は、残った「大和」の第1副砲に乱打され、危険を冒して艦外へと出た乗組員が操作した多連装噴進砲により艦橋を薙ぎ払われて沈黙。
速力を上げた「大和」は、この時点までに付近へ駆けつけていた「伊吹」「利根」「那智」「衣笠」の4隻の重巡洋艦とともに「ニュージャージー」との砲戦を再開。

午前1時12分、「ニュージャージー」は合計9発の46センチ砲弾を得てついに膝を屈し沈黙。
残った戦艦「ミズーリ」は、さらに2発の46センチ主砲弾を得てついに砲撃能力を失うに至りました。



最後に立っているものが勝者であるとするのなら、戦艦「大和」は間違いなくこの海戦の勝利者となったのです。
ですが――大和の射撃可能な主砲塔は前部の2基のみ。
左右両舷の対空砲群は薙ぎはらわれており、空襲を受けると沈没するのは確実とも思われました。

午前4時30分。
海戦終結後、3時間あまりを経て第2艦隊はその戦力の大半を失っていました。
残存戦艦は「大和」のみ。
重巡洋艦は「伊吹」「利根」「那智」「衣笠」の4隻。軽巡洋艦は「矢矧」のみ。駆逐艦はわずかに7隻。
これが、辛うじて戦闘可能といわれた艦隊のすべてです。

しかし、艦隊はすでに残波岬沖合にまで到達。
目的地となる宜野湾を指呼の間におさめていました。
海戦の結果片腕を骨折していた宇垣司令長官は、見守る艦隊各艦に対し、命令を下します。

「大和は死なず。全艦、これより誓約を果たすべし。沖縄を救うべし。」

戦艦「大和」は、そして連合艦隊はこのとき伝説となりました。



  ふたたびのその時―――すなわち、昭和20年5月16日午前6時30分。



第2艦隊は、戦艦「大和」を先頭にして宜野湾への突入を開始。
空には、夜間の間に必死で距離をつめてきた米機動部隊の攻撃機部隊総勢120機が攻撃態勢を作っています。
死の防衛戦を展開する輸送船団および護衛艦隊を尻目に、前日の戦闘にもかかわらず29ノット近いという異常な速度を出し切った「大和」は、さらに3発の魚雷と20発近い爆弾と至近弾をその身に浴び宇垣長官を失いながら事前の予定通り、宜野湾市沖合の8番岩礁に乗り上げました。
これに続いて4隻の重巡洋艦はあるいは力尽きるかのように、また全力で海岸に乗り上げます。
残存水雷戦隊は、残ったわずかな護衛艦隊を蹴散らしつつ損傷が一定以上となったものは次々に海岸線に乗り上げていきます。

海岸には、連絡を受けて待ち受けていた日本側の兵士たちがいます。
日本艦隊接近の報告を受けて米陸軍は、戦線を宜野湾市付近から急きょ下げていたのです。
負傷した兵士たちに、軍属となった沖縄県民や第32軍の兵士たちが次々に肩を貸している光景が各所で見受けられました。

338 :ひゅうが:2014/11/01(土) 15:52:40
「大和」は、この後実に60斉射360発近い主砲弾を南部の嘉手納基地方面に展開していた米軍部隊に対して発射。
占領されたばかりの嘉手納基地の機能を喪失させ、集積された上陸軍の物資の大半を焼き尽くすことになりました。
さらには、第2艦隊の突入と呼吸をあわせて実施された第32軍の反撃は宜野湾市付近にまで押し込まれていた戦線を沖縄市南部付近にまで押し上げることとなり、物資の欠乏から戦線を膠着させることになります。

最終的には4月31に、大破状態から応急修理を完了した戦艦「ミズーリ」を旗艦とした米艦隊による砲撃によりさらに18斉射51発を応戦として放ち、巡洋艦2隻を大破、後沈没に追い込んだ「大和」はその戦闘行動を終了することになりました。








第2艦隊が沖縄へと突入を開始し、宮中において阿部大佐が戦況説明を行ったその日より3日後、大和が宜野湾に突入したまさにその頃。
欧州のストックホルムにおいて、断続的に実施されていた休戦交渉は決定的な局面を迎えます。
阿部大佐らがかき集め、この時のために温存していた最後の切り札が担当者であったアレン・ダレスの手に渡ったのです。

その内容は、「米国のマンハッタン計画に関する基本情報及びソ連がそれを完成させるまでの時期推定」。
米国内に存在していた「レッドセル」、ソ連の協力者や情報提供者の名簿とその行動内容がその中には含まれていました。
調査を進めていたアメリカ上層部は驚愕します。

それらの正確性と、日米開戦に前後した動き、そしてソ連の対日参戦を促すべく、そしてその利益のために行動していた内容は見過ごすにはあまりにも重大なものだったのです。

阿部大佐をはじめとした和平派の最後の賭けは、成りました。
連合艦隊の壊滅と引き換えにした最後の勝利に呆然としていたアメリカ国民はもとより、アメリカ政府も日本側が要望していた停戦講和条件、「日本軍の無条件降伏と引き換えの条件付き降伏と保障占領」を容認するに至ったのです。


昭和20年5月1日、アメリカ合衆国は単独で「ポトマック宣言」と呼ばれる条件付き降伏の条件を発表。
これに対し、日本政府はベルリン攻防戦が終結するのを横目に即座に受諾の方針を明瞭とした上で非公式協議となっていたストックホルムでの接触を正式交渉に格上げします。
5月4日、最高戦争指導会議は昭和天皇の聖断を仰ぐことで一致。
昭和天皇が出した答えは「宣言受諾」。
これを受け、陸海軍は御聖断という錦の御旗を得て降伏に向けて動き出したのです。
しかし、これに反発した近衛師団の一部や不平将校らは宮中を占拠しようとクーデターの挙に出ます。

いわゆる「5.5クーデター未遂事件」の発生です。

ですが、この動きは、事前に配置されていた打撃部隊に加え、横須賀に集結した海軍の残存水上戦闘艦部隊によって阻止されました。
その中には、沖縄沖海戦への途上で引き返し、横須賀海軍工廠で修理を完了したばかりの戦艦「長門」の姿もありました。
三度の警告の末に、占拠された近衛師団庁舎に対して行われた砲撃は、不平派将校もろともこの動きを封殺。

5月8日には日本政府は諸条件を受諾する旨の内諾を通達。

正使をウェーク島を経由してハワイへと送る「緑十字飛行」の開始について合意します。
そして――昭和20年5月11日。
緑十字飛行の機体がハワイへ到着し、アメリカのコーデル・ハル国務長官と会談するのを待たずに日本放送機構はポトマック宣言の受諾を発表する「玉音放送」を行いました。
ほぼ同時に発せられた日米同時の停戦命令により、第2次世界大戦は終結しました。

このとき、阿部俊雄は少将に昇進して舞鶴にあり、残存する主力艦のうち最大の装甲空母「信濃」と、航空母艦「葛城」「笠置」をもって日本海での警備行動を実施。
ソ連艦隊を牽制しつつその行動の抑止に動きます。
この結果、対馬方面へと動きを見せていたソ連艦隊はひとまずウラジオストクへと帰還。
当面は日本本土周辺で戦火は止むことになります。

339 :ひゅうが:2014/11/01(土) 15:53:27


「中曽根さん。今日のその時、いかがでしたか?」

「最近の技術はすごいですね。去年の『坂の上の雲』以上の迫力のある映像を堪能させていただきました。
おっと失礼。年をとると涙もろくなって…」

「ありがとうございます(笑)」

「そうですね。やはり、この作戦と、終戦工作が成功しなければうまく戦争を終えられたとは私は思えませんね。」

「まだ続きますか。」

「はい。たとえば、大和の突入が成功しなかったら、もしくは戦力を出し惜しみしていたら、本土決戦派の暴発を押さえこむことができたのかは微妙なところでしょう。
もしもクーデターが成功していたら、本土決戦の挙句の日本は消滅していたか、もしくは大規模な戦闘で東京がさらに焼け、もしかしたら源平合戦のような結末になっていたかもしれません。」

「その場合、いつごろまで終戦はずれこんでいたと思われますか?」

「阿部提督は、8月ごろまでずれ込んでいたかもしれないと思っていたようですね。
その頃までには日本経済は完全な破たん状態となり、さらに空襲被害も増え、飢餓が発生していたことはほぼ確実であると考えていたといいます。」

「実は、今回発見された国防研究所資料部に保管されていた彼の手記でもそのようなことがかかれています。」

「そうですか。」

「中曽根さんは、その後阿部提督とはどのような付き合いをされたのですか?」

「そうですね。私が政治家になった頃にはもう吉田総理の側近となっていましたからね。
もう最敬礼してアドバイスを願う立場になります(笑)。」

「というと?」

「特にロシア・ソ連の情勢に対する対処や、東南アジア情勢への対応などでは大いに助けられました。
私が国防大臣をつとめていた頃のカンボジア紛争などでもですね。」

「あの戦争――失礼紛争をですか。」

「提督は、そうした危機のたびに処方箋や新しい考え方をもってきて、形にしていきましたからね。ここだけの話、アメリカ軍の介入に際しても多くの助言をしていたようですよ。」

「それはまた…特番の種が増えましたね(笑) しかし言ってしまって大丈夫なのですか?」

「もうだいぶ時間もたっていますし、提督も見逃してくださるでしょう(笑)」

「はい(笑) 中曽根さん。本日は長時間にわたりありがとうございました。」

「ありがとうございました。」


「さて、終戦を迎えた日本でも、阿部提督と彼が築き上げた人脈の役割は終わりませんでした。
本日は、戦後の彼らのはたらきを見ながらお別れしたいと思います。」

340 :ひゅうが:2014/11/01(土) 15:53:59

昭和20年8月、鈴木内閣の総辞職に伴い、終戦工作に尽力した吉田茂は首相に就任。
日本の復興という困難な課題と、進駐軍との折衝という難しい課題に直面します。
そのために、有力な頭脳集団と官僚たちを手足のように操れる若手官僚たちのネットワークを欲した吉田は、終戦工作を陰で主導した阿部と、その周辺の人材を手元に置くことにします。
大蔵省復興局長として、のちに高度経済成長の青写真を描くことになる下村治。
戦後の国防軍建設と、同盟国となったアメリカとの間で冷戦を戦い抜く基本戦略を構築した林敬三。
原子核物理学や航空宇宙技術などの最先端の技術者たち。
教育の専門家として戦後民主主義教育の基本を作り上げた多くの学者たち。

そしてそれらをまとめ上げた、阿部俊雄。


政府の諮問機関として再結集した彼らは、いつからか「吉田機関」と呼ばれるようになります。
彼らは戦後史の重要な場面において、国内だけではなく海外においても有力な情報や意見を提供し続けます。

朝鮮戦争においては、ソ連軍の本格介入を。

高度経済成長においては、公害や過開発による弊害の発生を。

核軍拡においては、核戦争のもたらす破局を。

発せられた警告は、時の日本政府や同盟国に最優先で受け取られ、そして多くの場合危機を回避する結果を生んでいきます。


あるとき、退役した阿部に、時の首相が質問したことがあります。

「提督は、どこからそんなことを思いつかれるのですか?」

阿部は答えました。

「夢、あるいは幻です。
ありえないかもしれない夢、悪夢。そして幻のような未来。これを想像し、これまでの過去をよく知りよく考えるのです。
なぜなら私たち人間は、現在だけでなく過去と未来にも責任を持つことができる生き物なのですから。」
最終更新:2014年11月07日 13:00