744 :石人:2014/11/10(月) 23:09:58
――パパ(※1)・イタリアーノ――
“イタリアの父”を意味するこの言葉は、イタリア統一の三傑と評される偉人たちに贈られたのではなく、
あくまで一部の業界で広がった用語にすぎない。
だがその人物は間違いなくイタリアのある分野に新風と改革をもたらし、国すら動かした英雄であった。
サリー・ワイル。スイス出身でユダヤ系の家庭に生まれた料理人。
史実日本で戦前から戦中、戦後の20年間洋食――特にフランス料理――を教え続け、その功績から勲五等瑞宝章を受章した他、
“スイス・パパ”と呼ばれ日本の西洋料理を発展させた人物である。
憂鬱世界においてもその歴史は変わらず、1927年横浜に開業したホテルニューグランドの総料理長として訪日したのが始まりである。
だが、日本の歴史が別の道へ進むのと同様、彼の人生も異なる道を歩み始める。
さて、日本に来た彼はその腕を存分に振るい大活躍――とはならなかった。
何故ならこの時期、帝国ホテルのグラン・シェフとして君臨していた北一輝がその全盛期を築いていたのが関係する。
“日本のフランス料理”を生み出すと主張してパトロン(
夢幻会)を獲得、史実の知識まで導入して料理の創作の自重を止めた北は、
弟子と共に新たなフランス料理を開拓し帝国ホテルの名を不動のモノとしていた
言いかえれば他のホテルは洋食の分野で立ち遅れている状態でもあり、これを巻き返すべくワイルが招聘されたのだ。
『本場で学んだ日本の料理人を確保するのは難しい、それなら本場の料理人を雇おう』
理屈としては正しいのだが、唯一の誤算は本場の料理人すら知らぬ知識を北が活用している現状である。
ワイルから見た日本の洋食界は異次元のレベルに突き進んでいた。
(一体、どういうことなのだ……)
遠く離れた欧州でも北の名は聞いていたが、実際にその所業を目の当たりにすると前評判以上のナニカを思い知ったのである。
だがそこはプロフェッショナルというべきか、帝国ホテルに及ばずながらニューグランドの名を着実に上げる功績を立てていたある日、第1の転機が訪れた。
――北一輝、来襲(来店)。
オーギュスト・エスコフィエの料理に傾倒していたワイルからすればエスコフィエから高く評価されていたといわれる北を意識していたのだが、
どうも理解できないところも多くこれまで避けていた。
しかし、北からすれば日本国内で未だ数少ない“本場”を熟知し料理を語れるであろう人物。
料理が生き甲斐の変人が我慢の限界に達したのだ。
とんだハプニングとなったものの逆にそれが良い起爆剤となったのか彼らは親交を深めていく。
そして北の親友たる北白川宮成久王や北大路魯山人を筆頭とした美食家たちと語り、日本の料理を研究し、
ときにはその縁で皇室やロシア帝室にまでつながる人脈を築き、気がつけば彼もまた欧州の料理人が知らぬ領域に到達したどころか
日本の食の発展に一役買っていたのである。
745 :石人:2014/11/10(月) 23:10:42
第2の転機は第二次大戦終結後。史実と違い、戦時中でも大っぴらに食の探究をしていたワイルではあったが
故郷が枢軸列強に囲まれたこと、そして何より望郷の念に駆られ帰国を惜しむ声にひかれながらも1946年、彼はスイスに戻る。
この選択が幸運とされるか不運とされるか彼は後に何度も振り返ることになる。
スイスに帰国して彼が味わったのは、変わり果てた祖国と謂われなき迫害であった。
かつての中立性はどこにも無く、スイスをドイツが熱心に取り込もうと苦心した結果ナチス寄りの思想が浸透してしまっている。
故郷はもう安住の地ではなくなったのだ。
これを危険と感じすぐさま亡命を計画するが候補としていた国はどれも決め手に欠けていた。
ドイツ? 論外。
フランス? ドイツの影響が強い。却下。
スペイン? ここもフランスと似たり寄ったり。却下。
北米? 自殺行為である。
イギリス? あの裏切りを日本で体験して許せるわけが無い。拒否。
東欧?ソ連?アフリカ? 理解できない。
ここは日本に戻るのが安全かと考えていた矢先、第3の転機がやって来る。
――ドゥーチェ、来襲。
イタリアの統領、ムッソリーニ直筆の手紙が届いたのである。冗談のような話だが当然ながらそれなりの事情があった。
この頃イタリアは日本に接近しようとしていたのだがそのとっかかりを一つでも多く欲していたのである。
あくまで水面下でイタリア側が進めていた計画をワイルが知らないのも無理はなかった。
『我々の国で日本で学んだ料理の腕を振るってもらえないだろうか?』
手紙の文面にはまとめると装書かれていると共に、暗にイタリア上層部や王族のお抱え料理人として働いてもらいたいと匂わせる内容でもあった。
一人の亡命シェフに対して破格の待遇である。
普通ならば即座に了承の返事をするところであろう。
しかしここで思い出してほしい。
『朱に交われば赤くなる』とあるように日本の変人と長く付き合ってきたことで彼の価値観もまた大きく変化していた。
その結果、何か思うところがあったのかイタリアへの移住は賛成したのだがお抱えを拒否。
代わりにローマに店を構えると同時にイタリアの料理界に日本料理を持ち込んだのだ。
このワイルの熱意と戦後のイタリア情勢は見事にかみ合い、爆発的ともいえるグルメブームと和食に対する関心を作り上げたのである。
この頃大西洋大津波で目立った被害も無く本土が無事のまま第二次大戦終結を迎え、ようやく国内も一応の安定に入った時であり、
それによって国民が
『今まで我慢してきたからそろそろ美味いモノが食べたい!』
と思っていたタイミングと重なったのが大きな追い風となっていた。
746 :石人:2014/11/10(月) 23:11:15
その中心となったワイルの店は毎日が満員御礼。
そのおかげで弟子入りを希望するコックが後を絶たなくなるのだが、とても彼だけでは指導が追い付かないほどに
なってしまった。
だからこそ彼は日本で培った縁を基にアイデアを絞りだす。
「イタリアと日本で、それぞれ希望する料理人の交換留学でもやってみないか?」
この提案が日伊両首脳部に伝わると事態は動き出す。
両国共にそれぞれの思惑はともかく相互交流は歓迎すべきイベントだと考えていたのは間違いない。
事実、この事業に両国は援助を惜しまず日本側は北が、イタリア側はワイルが窓口となる条件(※2)で応え、後の名シェフが
日本へ旅立ち、そして帰国後イタリアでその成果を披露する。
この交流は駐在武官や外務省の活動以上に年々活発なものとなっていくのである。
こうしてイタリアにおける日本料理の先導役となりまた日本から来たコックの窓口を務め、名だたるシェフの師として役割を全うした
ワイルは名声を確立させたのだが、生涯ローマに構えたたった一軒のレストランを経営する単なる料理人であり続けた。
遠い未来、もし日本人がイタリアに行くことがあれば必ずそのレストランに寄って行ってもらいたい。
店の前に1体の招き猫がある以外は何の変哲もない普通の店にしか見えないだろう。
だがそこはお忍びでイタリア王族の面々が食事に訪れるほか、いつの間にか統領が店内にいると噂される店であり、
騒動と陽気、そして日本の味を提供するレストランなのだ。
奇妙に思うだろうが間違いなくイタリアと日本を繋ぎ、統領から愛される料理人が経営する屈指の名店なのだから。
747 :石人:2014/11/10(月) 23:13:03
食のシルクロード…?
(少数の人のために料理の腕を振るうつもりはない、か。……面白い!)
ワイルから届いた返答を読んだ時、ムッソリーニは静かに心を燃やしていた。
そもそも何故彼が直筆の手紙など出したのか?
それはワイルの出自・日本での経歴・イタリア国内外の問題が関係する。
独自路線で対日融和政策を考えていたイタリアにとって帰国していた彼はまさにうってつけの人物であった。
ロシア帝室や皇室にも料理を提供した経験があり、日本が東南アジアのイスラム教徒へ巡礼船を提供した際のハラール製造にも参加している他、
夢幻会とのパイプも本人は自覚していないが持っている。
宗教上の食の禁忌を熟知した人がいれば、北米領を除く植民地とイタリアに深く関わる東欧各国の食糧方面の火種が取り除けるのだ。
ユダヤ系の出自も、彼が欲する大きな理由でもあった。
欧州枢軸は反ユダヤ主義を掲げたことでユダヤ系の人材を国外に流出させてしまった失策がある。
ドイツならともかくイタリアではこれが国内にダメージを与えた所に夢幻会が市場を荒らしたことで余計に痛手を受けていた。
それを補うべく第二次大戦後
アメリカの墓荒らしをしても人材が足りぬと考えたのか、ユダヤ系の人材も再度取り込むべく暗躍を続けていた
ところワイルを見つけたのである。
――わが国ではユダヤ系の人物でも王室や政府要職に料理を振舞う地位に進むことができる――
他の欧州枢軸では到底実現不可能なユダヤ系に対する広告塔に利用しようと考えたのだ。
生憎それは断られたのだが
『物珍しい目で見られたが日本で露骨な人種差別は受けなかった』
『どうせなら残りの人生、イタリアに日本で培った経験を伝えたい』
と、ワイルが辞退した返事がまた新たな考えをもたらしていた。
ファシズムの差別化と食卓による外交である。
ここで話題をずらす。
ファシズムとナチズム、この二つは性質が似ているようで全く違う。
ファシズムは民族主義、ナチズムは人種主義的側面も持ち合わせており、前者はユダヤ人を別に否定していないのだ。
ムッソリーニにファシスト党として政権をとる以前――イタリア戦闘者ファッシ時代――から古参ユダヤ党員は数多く在席しており、
彼のブレーンとして活躍した者もいる。
後に行われたユダヤ人隔離政策も実はイタリア国内では大不評であった(※3)。
それでも実行したのは国際的孤立を深める中唯一接近できそうなドイツに配慮した説が強い。
総人口におけるユダヤ系の比率がドイツやポーランドと比べ格段に低いことも一因だが、少なくとも“イタリア国民”として彼らは認識されていた。
反面、黄色人種の差別はあったが当時エチオピア王族と日本華族の縁談が話題となったのが原因だろうとも考えられている。
無神論者でありながら時の教皇ピウス11世と和解、バチカン市国を建国し、かつてレーニンと親交を結ぶほどのマルクス主義者でありながら
反共を掲げるファシズムを提唱。
748 :石人:2014/11/10(月) 23:14:03
更にはウィンストン・チャーチルと文通しアドルフ・ヒトラーに反発しながらもイギリスと戦いドイツと手を結ぶ。
当時の複雑に絡んだ事情も含めて考えると、一見変節漢に思えるムッソリーニと彼率いるイタリア王国は大真面目に
ローマ帝国の復興を目指していただけでそれ以上の野望は持っていなかったのではないだろうか。
……大きく主観が入っているが。
話を戻そう。
史実と違いドイツに追従せざるをえなかった状況から第二次大戦の戦果で一定の発言力を手に入れたイタリアは独自の路線を行く余裕を生んだ。
内心ヒトラーを苦々しく思っていたムッソリーニはこのチャンスを存分に利用したのだ。
(そうか逆だ、ユダヤ系“すら”大手を振って安全に国内を移動できる環境を作り上げればいい!ドイツから文句を言われようが
それに見合った利益は十分にある!)
『俺たちはナチの野郎どもとは一味違う』
そう国内外にアピールできる上、治安の向上にもなる。
それどころかそれに伴う国内整備で南北の経済格差を解消し、外資を呼び込む一助となるのだ。
また同盟国が強化されれば欧州の安定にもなる、ドイツも強くは注意してこないと踏んでいた。
食卓による外交も国の運営に役立つ。
アントナン・カレームを雇ったシャルル・ド・タレーランのような立ち回りは不可能となったがミュンヘン会談
と同じく再び世界の仲介役として動く意思は変わっていない。
それに未だくすぶる王家の問題も存在する。
アルバニア・エチオピア両王室は未だイギリスの庇護下にあるが事実上見捨てられた厄介者だ。
もしそれを解決すれば彼の国に恩を売れる。だがそれ以上に他の君主制国家もこの外交に巻き込めばどうなる?
例え物別れに終わっても外交チャンネルは開けるし“また”交渉する機会はある、外交とはそんなものだ。
どれもたった一人の料理人が全ての始まりとなっており、史実とは違う戦後のイタリアの方向性を左右する危険な賭けでもあった。
だがそんなリスクがあっても思い描いたモノがムッソリーニの脳裏に浮かぶ。
(例えるなら“食のシルクロード”といったところか。……かつて東方より運ばれてきた絹や香辛料、磁器はローマ帝国に多大な富をもたらしたと聞く。
では仮に当面の貿易品は食品や工芸品としよう。しかし将来、その貿易で日本の先進科学や精密機器を入手して国力を高めることが出来たら?
ドイツすら出来ぬ荒技をイタリアが成したことを世界が知れば?
もしかしたら、もしかしたら……!)
「第二のパクス・ロマーナ――いや、パクス・イタリアーナ(※4)が完成するのでは?」
それはあまりに都合が良すぎる甘美な夢物語。誰からも嘲笑されるのが分かり切った絵空事。
しかしそれはムッソリーニが思わず呟いてしまうほど彼に、いやイタリア人にとっては今まで手が届かぬ悲願であった。
749 :石人:2014/11/10(月) 23:14:57
その夢が掴めるかもしれないのだ。
ただ呟いただけでそれ以上に心の底から湧きあがる何かを抑え込んだのは流石希代の人物といえよう。
(私ももう若くはない、基盤を整え次の世代にローマ帝国の復興を託さなければ)
イタリア王国建国から既に80年以上。
列強に名を連ねていても実態は未だ発展途上中だ、悔しいが認めるしかない。
だがこの混沌とした世界情勢の中歪ながら地中海の覇者となったのは事実。ならばどうして
ローマ帝国の復活は不可能だと断言できよう。
名実ともに勝者となったイタリア王国の未来は先行きは見えなくとも舵取りを間違えなければ明るい道が待っているはずなのだ。
しかし油断は許されない、一歩間違えれば奈落の底に沈むのは避けられないのだから。
その舵を今自分が握っているからこそ、
「今日もまた、頑張ってみるか!」
ベニート・ムッソリーニ。彼も歴史を動かしてきた偉大な人物であり、夢幻会の前に立ちはだかる紛れもない一人の英雄なのである。
――後に彼は衝撃を受ける。
確かに日本に接近したのは外交的に大正解であった。
ただ、日伊の料理人の交換留学は思わぬ副産物も持ってきた。
ワイルの場合、ただ料理に専念したからこそ日本で勲章を授与される(※5)程の功績を挙げたのだが、
逆に言えばそれ以外の物事にはあまり興味・関心を向ける余裕が無かったのである。
それとは対照的に戦後イタリアから来日した留学生たちは本業である料理の修業は勿論、ありとあらゆる日本の仕組みを吸収しようと
切磋琢磨し続けた。
開国からたった70年程度で列強筆頭に躍り出た黄色人種の帝国はそれほど世界に衝撃を与えていたのだ。
それはさながら明治時代、欧米列強に派遣された留学生と同じ熱意を持っていた。
その姿勢が好評となって日本の対イタリア感情を改善させたのもまた大きな成果である。
……だからこそ、ソレを発見したのもある意味必然だったのだろう。
陸海軍合同の文化祭や同人誌、女学校の仮装ダンスパーティーにテレビで流れるアニメ放送。
後に某海軍元帥を卒倒させる要因は皮肉にも日本が積極的に提供する環境を作り、教材もしっかりと用意していた。
更に質の悪いことに誰が吹き込んだのか不明ながらナポリの名を冠したパスタ料理(※6)が留学生の間で話題になるのだが、
それは歴史の永遠の謎としてひとまずこの話は終わりとさせて頂こう。
750 :石人:2014/11/10(月) 23:16:03
【余談 兼 解説】
(※1) パーパやらパパーと表記が良く分からず。
また場合によって“神父”の意味もあるようでその辺りは見逃してほしい。
(※2) 留学生の名を借りたスパイもいるのではとの危惧もあったが折角の友好事業を破談にする訳にはいかぬと
希望者は一般のコックのみに絞られた上、厳重な事前審査と身分証明、入国後は通訳兼ボディガードの随伴員付きと
徹底した対策が取られている。
また文化摩擦を防ぐべく語学学校や文化教育の修業も留学条件の一部に入っていた。
(※3) 民間人がユダヤ人をかばうのは当然ながら取り締まる側の軍や警察が公然と亡命に手を貸す事例が珍しくなかった。
バチカンやスイスに亡命するのを意図的に上層部が見逃した可能性も存在する様で事実、ムッソリーニはユダヤ政策の
ほとんどは拒絶、ドイツと対峙し続けてきた。
(※4) イタリア語は全く知らないので間違っていても大目に見てほしい。
(※5) 日本における料理の発展、そして日伊の交流の功績により勲四等瑞宝章を受章した他、ロシア帝室からも
同等の勲章を授けられている。
(※6) 俗説だがワイルがいたホテルニューグランドはナポリタン発祥の地であるらしい。
ドリアは間違いなくワイルが日本で作り出した料理ではあるのだが。
751 :石人:2014/11/10(月) 23:17:17
【あとがき】
以上です。
書きたいように書いていたら、ドゥーチェが勝手に動き出しとんでもない夢追い人に進化していた。後悔はしていない。
最終更新:2014年12月02日 23:05