108 :ひゅうが:2014/12/31(水) 18:16:51


 惑星日本ネタ――――「水星(火星)年代記のようなもの」 その11 【UW】



――――西暦1980年2月、招集された議会において、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ合衆国大統領は歴史的な演説を行った。
この四半世紀ほど前に彼が行った演説を引用し、議会に「水星飛行計画への承認」を求めたのである。
最低限の情報提供以外は口が重く、探査機の飛来を快く思っていないと思われる第四惑星へはまず友好使節を派遣し、友人となることからはじめなければならない。
そして「容易でなく困難であるから」我々はこれを実現しなければならないという言葉で結ばれた演説は万雷の拍手を浴びた。
質疑応答で、「選挙にあわせて打ち上げを行おうとしているのでは」という批判も「失礼を承知であえて聞かざるを得ない」と前置きして苦笑交じりに行われるほどに合衆国の意思は決定されていたといってもいい。

NASAは、アポロ計画のために作り出された技術や設備を最大限活用することで計画費用を大幅に圧縮できたことを説明。
議会の圧力で進められていた宇宙往還機計画に基づき開発されていたシャトルと、その打ち上げ補助用の補助機(高高度までシャトル自体を運ぶことを目的とした「台車」のような大型機)の設計を変更することで限定的大気圏突入能力を持たせた水星着陸機を作ることとして遠回しなイヤミを飛ばしつつ予算承認を求める。
世界最大の経済大国の面目躍如で、予算は満額承認。
NASA長官として宇宙開発の黎明期から水星への飛行を夢見続けていたヴェルナー・フォン・ブラウン博士らはその日祝杯を挙げた席で図面を広げ、壮絶な議論と殴り合いをはじめたという。

計画では、出発は82年11月から83年1月。
すでに用意されていた図面を極力踏襲し、サターンロケットの連続打ち上げによって軌道上で宇宙船を組み立て、83年9月までの到着を目指す。
80年中からひと月半に1回のペースでロケットを打ち上げ、軌道上の宇宙ステーション「フリーダム1」において交代で建造作業を実施。
最終的には2隻の往還用宇宙船とその予備機を月軌道に乗せ、水星との定期往復便を管制させることとなっていた。
国連宇宙条約によってラグランジュ点(重力均衡点)の協同利用権は全世界に対し開かれており、ここを用いてアメリカは深宇宙へとこぎ出すことを考えていた。
計画名は「ニュー・ホライズン」。
当初はニューフロンティアとされたが、水星自体を開拓しに向かうわけではないので「水星航路の開拓」といった意味で新たな水平線を意味するこの名がつけられた。
動力は、3基の宇宙用原子炉を用いた原子力ロケット。
これはすでに61年時点でアリゾナの砂漠で運転されており、応用アポロ計画において宇宙空間での作動実験を成功させていた。
さらに、1年以上の宇宙空間での生活については、空軍が実施した有人軌道実験室計画「スカイラブ」によって72年に実現している。
軌道上への核兵器配備とデブリを故意に増やす行為が禁じられていたために宝の持ち腐れとも思われていた計画はこの技術確立に加えて水星海上への物資輸送用に使われる使い捨て飛行機型カプセル(ダイナソア)という形でいきていた。
計画当時は贅沢極まりないとも称され、もしもどこかで米ソの代理戦争でも起こっていたのならそこに真っ先に予算が持って行かれたともいわれるが、60年代から70年代は大英帝国の一部を除けば基本的には平和だったのだった。

この計画はソ連や大英帝国も同様である。
特に、国内再編に伴う紛争を受けて月面レースにおいて5年を無駄にしてしまった大英帝国の力の入れようはすさまじく、これにつられてソ連が核戦力の配備を一部遅らせてまで計画を進めるなど相乗効果を生んでいく。
大英帝国は月面計画の名を受け継いだ「サンダーバードⅡ」、ソ連は革命の象徴となった巡洋艦の名でオーロラを意味する「アヴローラ」をその計画名としていた。
アメリカが計画を2年前倒ししたのは、これら二カ国がアメリカに先んじて進めていた水星飛行計画が予想以上に進んでいるという情報がゆえだった。
原子力の取扱いについては一日の長がある大英帝国はもとより、人類初の宇宙飛行という栄誉を月二番乗りでケチがついたと考えているソ連は、月面レースへの参加やフルシチョフ時代の終焉によって軌道接近や探査計画失敗などで機会を逃さなければ70年代中に水星周回飛行を実施していたはずだったのだ。

109 :ひゅうが:2014/12/31(水) 18:17:22

「今度こそアメリカに先んじる!」

プラウダ紙がそう絶叫するとともに、タイム誌には自らも宇宙飛行士であるトレイシー博士の自信にあふれたコメントがのった。
こうなれば同盟国と仮想敵国の挑戦に合衆国は答えないわけにはいかない。

合衆国の一致した大号令に基づき、高軌道での原子力ロケットエンジンの試験(エンジン自体は太陽へ投棄する軌道をとった)が行われ、サターンロケット製造ラインは6年先まで予約で埋まった。
造船所では新型合金によって骨組みが組み立てられ、いったん分解されて打ち上げセンターへと向かう。
1980年6月、さっそく、すべての基本となる宇宙船の骨組み区画が打ち上げられた。
翌月には、最も緊張する原子炉の打ち上げが開始され、4基のサターンロケットは電力用原子炉と3基の原子力ロケットエンジンを速やかに軌道へ送り込んだ。
シールドとともに、居住区画の放射線シールドにもなる水タンクと水耕温室、そして燃料タンクがセットされる頃には、英ソも宇宙船の打ち上げを開始。
人々は、矢継ぎ早に質問をぶつけてもなしのつぶてである水星側に少し苛立ちながらも出発の時を今か今かと待ち望んだ。

水星側の情報封鎖態勢を揶揄して「鎖国」という言葉が生まれたのもこの頃である。
ソ連やその他の国がひっきりなしに通信を送ろうとしたことが水星側の態度を硬化させていたのだが、それでも返答が飛行支援に限られるのは好奇心旺盛な人々にとっては納得しがたいものだったのだ。
1981年10月、通信が難しくなる太陽との間の「食」すなわち水星と地球の間に太陽という巨大な電波放射源が位置する時期が終わったとき、いよいよNASAは居住モジュールの打ち上げを開始した。
ソ連も負けじと打ち上げを続けていたが、アメリカが工業力を駆使して続ける打ち上げには効率化を推進中のソ連といえども対抗が難しく、何とか出発を同時期にするのがせいぜいであると思われていた。
このため、大英帝国は早々に対抗をあきらめ、設計を変更して原子力ロケットエンジンを追加して到着時期を同時期にしつつ、水星側への「お土産」を多くとることとしたりもしている。
ともあれ、1982年6月には組み立て用の打ち上げは一応終了。
翌1982年10月には、注入された水を使って原子炉の作動試験と艤装の最終確認が行われ、月と地球軌道間での試験航海が開始された。
以後、翌年に予定された発進を前に燃料の注入と物資の搬入が急ピッチで行われ、1982年12月20日にはアポロ20号で月面着陸の経験があるバズ・オルドリン船長とニール・アームストロング副長を中心とした8名の乗組員が着任。


そして、ソ連船の発進を10日後に控えた1982年12月23日、「ニュー・ホライズン1号」は地上からも見られる噴射を残して地球圏を離脱。
8ヶ月半に及ぶ大航海へと出発した。
創世記の一節を引用したアポロ8号にならい、月軌道を横切る際に「ニュー・ホライズン1号」はノアの箱舟の逸話を引用してクリスマスのお祝いを地球へ届ける。
地上のケネディ大統領だけでなく、引退したアンドロポフ書記長に続いて政権を担うことになった穏健改革派のゴルバチョフ書記長からも、女帝と称される大英帝国のサッチャー首相からも祝意が(内心はともあれ)伝えられ、米ソの月面基地からは発光信号で古式にのっとり「御安航を祈る」を意味する「UW」が伝えられた。
茶目っ気を出したらしいアームストロング副長は船内に本物の旗を持ち込んでおり、「UW1」で答礼を行った。

驚いたことに、到着先である水星からもJAPANの首相名で祝意が伝えられ、乗組員は子供のように目を輝かせたとオルドリン船長は日誌に記している。
なお、このときはじめて地球の人々は、日本の正式な国号を知り、悲喜こもごもの様々な表情を見せたという。
(すでに三国首脳陣には伝えられていた。)

110 :ひゅうが:2014/12/31(水) 18:19:07
【あとがき】――やっとここまでこれました。戦記ものではないためにどうしてもこの接触までは書いておきたかった部分です。
なお、ソ連船にはアレクセイ・レオーノフ大佐とウラジーミル・コマロフ中佐らが乗り込んでおります。

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最終更新:2015年01月17日 15:30