168 :ひゅうが:2014/12/19(金) 23:24:05


惑星日本ネタ―――「水星(火星)年代記のようなもの」 その7【前夜】



――西暦1866年、大日本帝国は国家元首の交代を宇宙庁の管制室から発表した。
健康上の都合から退位を表明し、先帝、のちに孝明天皇と諡号されることになる「吹上院」は、皇室の伝統にのっとり学問好きの人物であった。
月(イザナミ)の「大和雪海(月の銀色が雪のように見えたから命名された)」へと降り立った4名の飛行士の中には帝国学士院に所属する地質学者と天文学者が含まれており、それが彼の好奇心を刺激したのである。

このとき、月への人類到達を第一目標としていた「月天計画」は完全な国策としての承認を得たといってもいい。
当時、政権外部からは巨額の費用をかけて行われる宇宙計画の予算を重福祉政策へと転用すべきという意見も根強く存在していた。
(ただしそれだけですべてが賄えるわけではなく、軍事力全廃も同時に主張されていたあたりが夢想的であった。)
だが、そんな人々も消極的に沈黙させる力を院の熱のこもった質問は持っていた。
往復2.5秒ほどの時間差を経て月と地上でかわされる熱いやりとりは、予定を上回る十数分にも及んだからである。
さらには、皇太子であった睦仁親王が目を輝かせてこれにかわったとき、政府上層部とその諮問機関の人々は自らの勝利を確信した。
少なくとも半世紀は、日本政府は宇宙空間の開発に努力する必要が生じたのである。
そして、その間に宇宙計画の必要性は切実なものになるはずだった。

月天13号が月の表面において「沼鉾の岩」と呼ばれる水星誕生の頃の岩石を手にして地球へ帰還したとき、地球上では「応用月天計画」と呼ばれる発展プランが進行中であり、ノズルクラスタリングがなされた新型ロケットエンジンと将来的な惑星間航行用の反応動力ロケットエンジンがテストを終えていた。
計画では、10年(地球年で15年)以内に宇宙庁は恒久月面基地の構築を開始し、蒼星や木星への無人探査を実施。
25年(同37.5年)以内に惑星間有人往還飛行を実施することとされていた。
そしてその切り札と目されていたのが、月天計画で使用された「月天Ⅲ」型ロケットの増強型となる「月天Ⅴ」型ロケットと、地球軌道打ち上げ能力500トンに達する超大型打ち上げ機「八咫烏」だった。
エンジン開発に多大の困難を伴い、一時は開発凍結すらささやかれたこのロケットは、4つのノズルを1つの大型ターボポンプで束ねることでノズル1基あたりの負荷を軽減し大推力と安定性を両立した新型エンジンを採用していた。
計画段階で本格的な再利用型宇宙往還機の開発を断念し、その予算も注ぎ込むことでようやく完成の時を迎えたロケットエンジンはさっそく月天計画に応用され、トラブルや小事故を繰り返しつつ5年がかりで洗練されていく。
以後数十年を帝国宇宙庁はこのロケット二本立てで推進していくことになるのである。



一方世間が華々しい宇宙開発の成功に沸いている頃、国防総省の中にこの年新たな部局が成立する。
統合軍令本部直轄の独立組織として「宇宙軍」が成立したのである。
陸軍航空隊と海軍基地航空隊の一部が発展解消し空軍が成立する際にとられたのと同じ手続きでありこれは将来的な独立宇宙軍を設立することが内示されていたともいえる。
だが、基本的に日本帝国政府の中では最も仕事をしないといわれ、またそれを誇りとしていた国防総省の中ではそれは小さな動きにすぎなかった。
とりあえず行われたのは、軌道上をまわる観測衛星の管轄移動と宇宙空間観測態勢の強化だった。
それさえも宇宙庁の中で進行中だった水星外知的生命体探査計画の一つの口実であったとさえ当時は言われていたのである。
さしあたっては、電波望遠鏡による全天観測態勢の整備が開始され、少なからぬ人員が宇宙庁と宇宙軍の間で行き来する。
のちに、彼らは大きな歴史的転換点に立ち会うことになる。

169 :ひゅうが:2014/12/19(金) 23:24:37

この時代、大日本帝国の交通網は全球を覆いつつあった。
また、人工衛星を通じた衛星中継の進展もあり、通信や放送のデジタル化も進行。
携帯電話の本格的な普及が開始されたのもこの時代である。
当初は大陸間横断鉄道や高速鉄道用の移動体通信として開始された携帯電話の開発は、1870年代中盤に至ると半導体集積回路の小型化とあわせて小型化が進行。
当初はショルダー型だった機械も、1878年の厚さ4センチ機の実用化をブレイクスルーとして1880年には折り畳み式のものが、そして1890年にはタッチパネル式のものが実用化。
同時期に全世界を覆った光ファイバー通信網や、環球通信網(インターネット)の普及とあわせて情報化社会の構築が電子政府化の推進とともに国策となっていった。
人口が10億人に近づきつつある中にあって、効率化の推進は政府運営コスト低減のために必須と考えられていたのである。

のちに開示された政府諮問機関「総研」の提言によれば、この時期に異常なまでに通信網の整備や宇宙開発に予算が注ぎ込まれたのは、

「蒼星(地球)側の技術開発進展前に通信の単位(デジタル)信号化により暗号化を推進するため」

「宇宙空間での機動戦闘能力の獲得により国防態勢の整備を先行して完成させるため」

であったという。
取り越し苦労と思われていたこの計画も、結果からすれば奏効したことは後世の我々からみればよくわかることだろう。
のちの地球側が水星へ抱いたそれと同様に、水星側もまた蒼星(地球)へ同じくらいに危機感を抱いていたという好対照であるともいえる。


同時代、地球では列強による世界分割が最終段階に入ろうとしていた。
最初の恒久月面基地「桂花」が稼働を開始し、月面での資源調査が開始されたのと同じ西暦1880年、南アフリカでは第一次ボーア戦争が開戦。
その隙をみてロシア帝国は中央アジアと極東における南下政策を本格化させ、極東の高麗半島ではフランスと米国が武力を行使して強引に李氏朝鮮を開国させることに成功していた。
東アジアの地域覇権国家だった清朝は改革の端緒についたばかりだったが、その間にベトナムや朝鮮王朝などの外郭を列強に奪われつつあり、いずれはアヘン戦争のような本格的な激突が起こることは容易に予想されていた。

俗に「世紀末」と呼ばれるこの時代、欧州では植民地から吸い上げられた富と国内の中産資本家階級の勃興に伴い文化的な爛熟期を迎え、過剰なまでの装飾が施されたネオ・シノワズリ(新清国風)建築が新古典様式建築とならびたっていた。
オーストリアのヨハン・シュトラウス2世の手による「美しき青きドナウ」が一世を風靡したのもこの時代である。
列強諸国の船舶はほぼ機械化が完了し、スエズ運河に続きパナマにも運河の建築が開始され世界は狭くなっていく。

はるか1億キロ近く離れた水星で同時期に大洋間超音速航空路が敷設され、建築もガラス張りの無機質一辺倒からジャパニーズ・ゴシックと呼ばれる尖塔形式の超高層と復古欧州式と呼ばれる赤レンガ装飾建築の二本立てへと移行しつつあったのは文化的にも興味深い。

20世紀を前にして、二つの星の人々はまだ互いの存在を知らない。
だが、西暦1887年、そんな時代の終わりを告げることになるひとつの発明がニュージャージー州ミドルセックス郡の片田舎メンロパークにおいて産声を上げる。
発明者の名前は、トーマス・アルバ・エジソン。
翌年、それをさらに発展させた技術がハインリヒ・ヘルツの手により実用化された。
蒼星の人類は、空間を伝播する電波を自ら発生させることに成功したのである。

同じ年、5年後に予定された有人往還飛行のための地ならしとして、水星から3機の探査機が内惑星系へと旅立った。
機体には着陸機が搭載されており、母機である巨大なアンテナを背負った軌道探査機は蒼星の上空200キロへと投入されて精密観測を実施する予定であった。
同時期に、資源量のわりには軌道脱出速度が蒼星ほどシビアではない木星の衛星系へと送られた探査機群とは違って、この探査機はロマンや生物学的知見以外を期待されていなかった。


――衝撃は、すぐそばまで迫っていた。

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最終更新:2015年01月17日 17:13