467 :ひゅうが:2014/12/24(水) 03:10:25


  惑星日本ネタ――「水星(火星)年代記のようなもの」その9 【飛躍】



――――大日本帝国にとり、地球圏の動向は常に懸念材料であった。
まず第一に、地球圏における列強諸国は欧州と北米大陸の一部の、それも一部の民族に限られていたこと、そしてそれを維持するために法的・軍事的な明確な格差が設けられていることが彼らの警戒感を煽った。
ヒトゲノムの解析を完了していた日本側は、かつてのオランダ人やイングランド人、ベネチア人とその従僕として連れてこられたアフリカ人たちの遺髪から遺伝子解析を実施。
これによって自らが、彼らが差別する黄色人種の一種であることを知っていたのであった。
第二に、大戦に象徴される大量殺戮が感情的にこれを補強する。
軍事的には発展途上技術と戦術の組み合わせではあり得るものであったが、それを実施してまでも勝利を追求することは、長い平和の時代を楽しんでいた日本人たちにとっては底知れない恐怖そのものだった。

第一次世界大戦の開戦が告げられたとき、日本帝国宇宙庁は蒼星圏電波傍受・監視衛星群の大幅な拡充を決定。
ピーク時には蒼球(地球)の周囲を20機もの衛星がカバーし、交わされる軍用無線群を傍受し続けた。
また、野心的なものとしては大気圏内へと「高高度長期滞空型無人飛行船」を投入し、欧州や極東のはるか上空から地上に気付かれることなく地上を撮影し続けた。
ただしこれは軍事偵察に限られ、さらには機材の回収という危険があったために途中で計画は打ち切られた。
このときの傍受衛星群の情報とともに以後数世紀にわたって情報は伏せられる事になる。

こうして得られた貴重な情報は、水星当局の警戒感を煽り、そして補強していった。
大戦終結後の1920年、蒼星(地球)では公共ラジオ放送がスタート。
これまで以上に大量の情報が飛び交い始めた。
さらに、1927年には短波を利用した国際放送が開始。
これによって水星側はきわめて正確に蒼星上の情報を入手することが可能となっていた。
1919年に初の有人木星圏往還飛行を果たしていた水星側は、月と小惑星帯の開発を主として軍事面から開始するとともに、万が一の場合に備えて小惑星帯最大の天体ベスタとその次に大きなバラスへの記録媒体や生物種子の搬入が開始。
さらに彼方にある木星トロヤ群小惑星に秘匿基地が設けられるとともに、木星圏内で開発適地であるガニメデとカリストへの恒久拠点構築を目指して無人探査船の建造が急ピッチで進行していく。
この時期、水星の月、イザナミ上の建造ドックでは同時並行的に7隻から8隻の惑星間航行船が建造されていた。
主として高温溶融塩核反応動力炉を使用した宇宙船であったが、これと並行して宇宙庁と宇宙軍は新型の惑星間航行用のロケットエンジンの開発を続けていた。
「加速器加熱電磁推進器」――のちにNASAが「比推力可変型プラズマ推進器」と呼ぶことになるこの新型エンジンはイオンエンジンのような高い比推力(簡単に言えば燃料あたりの推進力比)と実推力を併せ持ち、最低でも従来の10倍近い宇宙船速度を実現できる計算だった。
動力として大電力を必要としていたが、高温の実現が容易な地球で言う溶融塩原子炉の実用化と熟成に時間を掛けていた日本帝国にとってはこれの実現は比較的容易だった。
むしろ、問題は宇宙空間で発電に伴い生じる余剰熱の放熱にあったといわれる。
地上で開発が進行していた融合反応動力炉(核融合炉)用の加熱機の技術を転用しつつ進行した開発は15年あまりで終了し、1929年に入る頃には試験船「やしま1」が進宙。
無人輸送船がピストン輸送した建設用ロボット群が木星の第3衛星ガニメデに基地建設を完了し、大陸と日本本土に超伝導磁気式高速鉄道路線が開通した1931年には良好な成績から本格的な惑星間航行船への転用が決定。
それまでに運用されていた30隻以上の惑星間航行船の改装とともに、本格的な宇宙空間戦闘用艦艇の整備も開始された。

同時期の蒼星こと地球上においては全体主義的な色合いの強い勢力が国家を主導するようになっており、数十年以内の宇宙空間への進出を予想した水星側としてはこれまで整備を進めていた宇宙空間迎撃網に加えて機動打撃戦力の保有の必要性を感じていた。
これに国民が賛意を示したのである。

「あと数十年もせずに、蒼星は我々の存在に気がつく。」

「蒼星上では国家社会主義なる抑圧的な政権が全体主義的な統治を継続する可能性が高い。」

「もしも彼らが我々を知れば――誰が将来の侵略を企てないなどと言い切れる?」

当然の懸念だったといえるだろう。

468 :ひゅうが:2014/12/24(水) 03:11:26
今となっては笑い話だが、彼らは70年代にはアメリカの3倍程度の工業力で大量の宇宙船を建造しスターリンあたりが指揮する地球統一軍の宇宙船団が第一陣としてやってくることすら予想していたのだった。
笑えないことに、水星側は、地球軌道上から大量のステルスコートされた大出力核弾頭を地球側が乱れ打ちをしてくる可能性すら考慮していた。
相対性理論が存在していることは確認済みだったし、その応用方法に地球側が気がついていることなど、サイエンスフィクションと科学関連ニュースをチェックしていればいやでもわかる。
しかし、歴史は誰にとっても幸いなことに核弾頭の使用がいかなる結果を生むのかを2度目の大戦によって人類に刻みつけていた。
大量の核弾頭の存在に恐怖しつつも、水星側はラジオ放送や本格化したテレビジョン放送を通して流される核戦争反対の意見に耳を傾けた。
だからこそ、恐怖のあまりに地球へ先制攻撃をするべきという消極的な意見は多数派にならずにすんだのである。


理性のみを崇拝するものはロベスピエールのように恐怖政治に狂奔するし、同じく理性と理論のみを崇拝するものはスターリンのごとく恐怖政治と特権階級による搾取の不幸な結婚に陥ることは歴史がこれを証明した。
だが、理性からくる感情と人間性への訴えが水星と地球の不幸を未然に防いだという事実は忘れるべきではないだろう。

1941年、蒼星で第二次世界大戦が勃発したとき、水星の大日本帝国の勢力圏はそれ以前の半世紀の5倍以上に拡大していた。
超超距離の移動に加え、総来的な進出先の調査の目的から土星への科学調査と、金星方面への本格調査、そして海王星以遠への無人探査船派遣が実施されていたが、大半は小惑星帯に加えて木星圏がその領域である。
だが、さらに半世紀がすぎたのならば宇宙空間で暮らす人間の数は200万人の大台に達するはずだった。
短期的に宇宙を旅行できる人間は、いってみれば修学旅行と同様にたやすくなることだろう。
生物工学技術の発達に加え、人工知能の知的レベルが成人1人を越えたことから発展はさらに加速していくはずだった。
もちろん人間の役割がなくなったわけではなかった。知的レベルの上下によって変数的な発想の飛躍や想像、そして妄想というべきものは決まらない。
それに、マン・マシンインターフェイスは早晩脳と機械の境界を越えていくだろう。
平均寿命というものが意味をなさなくなる日も数十年以内に訪れるはずだった。
帝国政府はこれにより生じる深刻な格差を是正し国家の発展を維持する目的から国庫補助や強制積み立て、所得再配分を基本とした新たな社会保障制度を設立しようとしていたが皮肉なことにこれは1世紀前に議論になった中福祉中負担の是非に決着をつけることにもなっていた。
ただし文句をいうものは目立つ勢力にはならなかった。
未来が生物学的には無限大に広がる可能性があるということは、将来へ向けた負担の心理的抵抗を押し下げていたのだった。
もっとも、寿命増大に伴う社会体制変更や、人間を基礎とする以上必ず訪れる「情報のすり切れ」など克服・解決すべき問題は多岐に亘りそれが本格化する一世代後までやるべきことは多くあった。
結果からいえば、社会全体に対して与えられる課題の超長期化がその解答として示された。
乱暴にいえば数百年単位の時間が平気で必要とされるような宇宙空間での事業がそれということになる。
知識の収集や理論の究明などとれる道はいくらでもあった(そしてそれはとても幸福なことだった)が、水星がおかれた状況がこれを強いたのである。

「日本人の種族としての変容」が開始されたのは、こうしたわけであった。


以後、大日本帝国は注意深く蒼星の情勢に目を配りながら外宇宙へとその手を伸ばしていく。まるで自ら登るべき山を探す登山家のように、あるいは暇つぶしに飽き飽きして外へ飛び出す子供のように。

469 :ひゅうが:2014/12/24(水) 03:12:35
ただし、軍事力の整備を怠るという選択肢は存在しなかった。
蒼星の深宇宙軌道へ配備した対地警戒衛星は1945年7月から8月にかけて6発の核爆発の閃光を観測していたし、それに数千倍する都市や拠点の炎上数を確認していた。
その勢いは40年代末にかけて数十回を数え、50年代にかけてはその数はさらに増大し威力も増大する。
通信解析は、三つに分かれた陣営同士が数百発から千発単位でこれを蓄えつつ軍事力整備を行っていることを認めた。
さらに、互いのイデオロギーへの間接的・直接的な批判はエスカレートし、分割された世界で多発する紛争はいつしか再び核兵器を、それも大量に使用する戦争が起こることを予想させた。
水星の人々は考えた。

「自滅するならそれでよし。こちらの害にならない。
こちらに目をつける頃に攻撃的な態度をとるならそれ相応の対応を。
平和裏に済むならば上等。
こちらを邪魔せず、なるべく関わらないならなお結構。」

要するに、様子見だった。
蒼星こと地球の人々は気付かなかったが、核による均衡はそのはるか外側から監視されていたのである。

多少なりとも水星側の目尻を下がらせたのは、50年代末から加速していった宇宙開発競争だった。
ミサイル・ギャップを語る裏で宇宙への進出と人類の存在意義を熱く語る人々は控えめに見ても夢と希望に満ちていた。
1961年、ソ連の宇宙飛行士が地球が青かったとコメントしたとき、それを見つめていたはるか彼方の目もまた彼らを祝福した。
合衆国大統領が歴史的な宣言をした演説も、二分数十秒の時間を経て水星へと伝えてられている。

「我々はゆく。容易ではなく困難だから。」

我が意を得たりと頷く者も多かったという。
かつて経験した歓喜を追体験する大日本帝国は、表向きは平静を保ちながら待った。
恐れつつも来たるべき時を。
1972年、ソ連の月面着陸を見届け、翌年の英国船の着陸、さらに翌年のアポロ・ソユーズドッキング飛行を中継で眺めた。
高らかに宣言された水星「征服」宣言には眉をひそめたものの、彼らの立場としては当然と苦笑する。
西暦1979年12月、軌道に投入された探査機マリナー8号が伝送した写真に、水星の人々は悟る。
来るべきときが来たと。

米英ソ三国が急遽新造探査機を突貫工事で製造し、その中に大統領や書記長、国家元首である女王の親書をおさめたのはこの発見からわずか4ヶ月後のことになる。

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最終更新:2015年01月17日 16:32