254 :ひゅうが:2014/12/11(木) 22:30:44
惑星日本ネタ―――「水星(火星)年代記のようなもの」 その4
――西暦の1765年、水星の統一政府は国号を日本から、大日本帝国へ変更。
これまでに制定されていた諸法典の仕上げとして、基本法となる憲法、そして国家方針そのものとなる憲章を制定することで30年に及ぶ国政改革の総決算とした。
この間、さまざまな軋轢や騒擾を含む議論があったものの、おおむね江戸幕府はその移行政府を経て消滅。
徳川氏は公家や武士らのうち有力者で構成される政府諮問機関 名族院の常任議員としてその役割をとどめることになる。
概ね天領と外地諸侯領、そして国内大名領地で構成されていた領土は、帝国政府によりほぼ直接統治される体制となった。
自治を制度化しつつ基本法を共有した連邦国家として水星はこのとき実質的に統一されたのである。
上下両院で形成される立法府と、帝国政府という行政府、そして大審院を筆頭にした司法府の三権分立。
軍事力への強力な政府統制と国民軍の構成による身分制の打破。
これらは、同時代の地球で進行していた啓蒙思想の発展と、フランスや
アメリカにおける革命とほぼ同時期であることが興味深い。
これらの改革は、かつて8代将軍徳川吉宗のもとで政治改革を論じた荻生徂徠の「政談」に思想の源泉を持ち、徳川家治の諮問機関の一員となっていた安藤昌益、工藤平助らの手によって形にされ、田沼意次や松平定信の手腕により実行されていった。
また、この頃盛んになっていた「西洋学」の知恵、特にネーデルラント連邦共和国やイングランド王国、ヴェネツィア共和国、そしてポーランド=リトアニア連合王国の国制も参考にされたという。
最終的には帝国の名を冠した通りに中央政府の国制はイングランド王国のそれに近いものとなったが、ネーデルラント連邦共和国のように各州の自治権は担保され、そしてヴェネツィア共和国のように実質的な身分制を廃したのは、これらの影響の大きさを物語っている。
だが、「大」の名を冠している点は、古代中華と同じように複数の国を統括する中央政府であることを自認しているともいえ、この点ではこれまでの日本の後継である。
これまでの「奉行」を「大臣」、「法度」が「法律」となるなど、用語の大変動が起こったとしてもそれが和製漢語の域にとどまっている点もまた同様であった。
主として航海移民時代から広まり始めた英語や蘭語、そしてラテン語由来の語彙が一般に浸透するのはまだ先の時代のことになる。
連邦国家の精神的中心に位置づけられたのは、それまで名目上の存在となっていた皇室だった。
古典に明るい桜町天皇は、今こそわが時代かとにわかに慌ただしくなった朝廷ではなく政府との協調を選び、国家元首として君臨。
さらには「日の下(本)に隠すものなし」として自ら各地を巡り、今日に至る国民の皇室へのイメージを作り出した。
当時としては驚天動地の行動で、徳川家治ら新政府による有形無形の助力がなければ強引に御所に「押し込め」られていたかもしれないが、最終的には政治的能力を有していない大多数の公家の人々は宮内官という名の名誉職へとついている間に実権を失っていく。
こうして、西暦でいう1765年、初代内閣総理大臣 田沼意次のもとで帝国政府は発足。
翌々年には帝国議会の第一回全国国政選挙が挙行され、上院の勅選議員に選出された例外を除けばかつての名族たちは名誉こそ持つが権勢とは無縁の存在となっていた。
西暦1766年に発表された緋宮智子内親王と家治の子である家基を祖とした千代田宮家との縁組を阻止できなかったことはその象徴だろう。
世襲宮家として皇統の維持にあたる一員の中に徳川家の血が入るなど、一昔前の公家には考えられないことであったためである。
こうした状況は、他の大名家や堂上家も同様だった。
わずかな例外が上院議員として辣腕をふるった上杉鷹山や田沼・松平時代の後を継いだ島津斉宣などであるが、日本列島内部で汲々としていた大名家はもとより、外地諸侯といわれた雄藩のトップらはもはや彼ら一人の力では反乱を起こす能力を失っていた。
できたのは、用意された政治の舞台で能力を磨くか、もしくは公家のように伝統の守護者として過ごすかの二者択一。
それを拒否してふるまったものは容赦なく弾劾され、その双方を失う結果となる。
特権といわれる多分に精神的なものの復古を目指して担ぎあげられたものもいたが、そうした者たちは政府が有する軍事力だけでなく、全国レベルに張り巡らされた治安の番人たちの手で次々に封殺。
最終的に、過激な尊王主義者と幕府主義者たちが徒党を組み反乱するというほとんど自棄のような1780年の神風連の乱を最後に全土は落ち着きを取り戻した。
そしてその間に産業革命の成果である中産階級の発展はさらに進んでいく。
255 :ひゅうが:2014/12/11(木) 22:32:15
――1790年代に入ると水星の風景は50年前とは様変わりしていた。
人々の頭からは半々であった髷の類が完全に消え、夏を除けば男性の服装は航洋服から発展した「洋服」一色に染め上げられた。
女性の衣装が和洋で半々であったのは、産業革命の結果それまでは大奥や吉原などでしか着られなかったようなきらびやかな衣装が安価に手に入るようになったからである。
ただし、着易くなるような工夫が加えられた和装とは異なり髪結いは「面倒」の一言にて散髪にとってかわられている。
食卓には、冷凍技術の発達や外地での品種改良が逆輸入される形で大っぴらに肉が並ぶようになっていたし、箱膳でもなくなっていた。
人口の増大に伴い、各地から集まってきたお手伝いが一般家庭にも浸透していたし、彼女らの奉公も一昔前とは違って大型の共同洗濯機械などで労力が大幅に削減されていた。
道路は、石畳からコンクリート(混凝土)、続いてアスファルト(土瀝青)へと移り変わり、街灯はガス灯から電燈へと変わっていた。
治安を重視する政府の「暗所追放」運動によってこれらはよほどの田舎でない限り完備されるようになっている。
道をゆくのは発動機付きの自動車で、蒸気機関車にかわって内燃発動機つきの鉄道網が遠距離路線を、電気鉄道が都市を覆っていた。
都市は高層化がはじまっており、新たに首府に定められたかつての江戸、現在の東京の中心街には10階建て以上の建造物が目立ち始めていた。
都市の拡大に伴い街路の拡張や、区画整理も進行中であったものの、これが徹底されるのは1855年の第一次東京大震災を待たなければならない。
湾岸の工業地帯は巨大化を続けており、政府は何らかの環境的規制をかけることを喫緊の課題としていた。
首都周辺からの工業力撤去ということも考えられたが、周辺には周辺の利点があることから数年を待たずに環境基本法が成立することになる。
この時代、林立する煙突から立ち上る煙と道路の排気ガスは大都市の風物詩だった。
海に目を転じれば、産業革命の原動力として、そして日本列島の生命線として発達を遂げた大型船舶がひっきりなしに行きかっている。
経済性を重視した超大型で鋼鉄製の帆船もあったが、油田開発に伴って低下の一途をたどる石油価格や良質な石炭を利用した大型動力船がおそろしい勢いで普及しつつあった。
煙突に記された各船舶会社(廻船問屋が発展し株式会社化)のマークは、まるで陣中の旗指物のようですらある。
そんな彼らの横では、昔ながらの漁師たちがいたが、彼らの中にも安価な焼玉発動機を搭載した遠洋漁船が出始めていた。
海外に目を転じてみれば、本土と違い少ない地震から木造の高層建築もあったが大半は外装をレンガで覆ったコンクリート建築が中心部を占めてたいていの中心都市に存在する城郭と対照を為し、広々とした道路と鉄路が各地をつないでいる。
大陸沿岸を一周する長距離鉄道が完成したのはもう30年近く前だし、その上を走る機関車は怪物のように大型の機関車と数百両の貨車で構成されていたり、旅客用の漆塗りの客車を引いたしゃれた特急列車であったりもした。
まだ美海(アルギレ湖)と扶桑海(ヘラス海)を結ぶ内陸横断鉄道は完全につながってはおらず鉄道網と呼べるような環状線は生まれていなかったが、これから半世紀を待たずにこれらを完成させることは帝国議会の議論で早々に決定されていた。
256 :ひゅうが:2014/12/11(木) 22:33:03
早くから開拓が進んでいた新天原平野(大シルチスからイシディス湾沿岸平野)は都市化が進行中で、そこから八幡海(エリシウム海と)日本本土を挟んで反対側の新高遠大半島(タルシスからルナ高原にかけて)は北半球随一の穀倉地帯として志摩海(マリネリス海)からたっぷりの雨を受けていた。
内陸部はまだ手つかずの部分が多かった。
大河を利用して建設された大運河はまだ建設途上であり、はるか南方の南極地域は探検隊が分け入って以来手つかずだった。
ステップ地帯と連続したツンドラ地帯にはメタンハイドレートが眠っていると思われたたが、今のところ日本人たちは資源に不自由していなかったからだ。
18世紀中盤に急速な発達を遂げた航空機技術はこれらの土地の探査を可能としつつあったが、遠距離高速交通はこの時代では飛行船の独壇場だった。
一気に開発が進むのは、この地で大規模なダイヤモンド鉱山が発見される1810年代を待たなければならない。
総じていえば、水星は開発基調に乗っていたといえる。
気候は少なくとも数百万年単位で温暖であることが確定していたし、大陸分裂に伴う地震という悩みはあったもののそれも惑星全土に及ぶものではない。
それに、もともと日本人自身がそれには慣れていた。
温暖であるがゆえに台風などは繰り返し彼らを襲ったが、それもまた彼らの苦にはならなかった。
あったとすれば土着病原体による感染症だが、発達を遂げつつある医学や細菌学、そして化学の成果は致命的な感染症の流行を押さえこみ、滅亡という事態を回避させている。
予防接種が法制化されたのもこの頃である。
そうした動きは、当然彼らの道の場所へと向かっていく。
物理学をはじめとする諸学の発展、とりわけ、元和の大天変を生み出した大地や天空への興味が増大していったのである。
だが、もしもこの動きが熱狂的でなければ、そしてこの時代までに起こっていなければ、おそらく水星の後世の歴史は違ったものになっていたのかもしれない。
19世紀が、はじまる。
最終更新:2015年01月17日 17:00