274 :ひゅうが:2014/12/12(金) 01:53:28
惑星日本ネタ―――「水星(火星)年代記のようなもの」 その5
――19世紀初頭。
地球においては、フランス革命にはじまるナポレオン戦争下の混乱に欧州が包まれている時代。
東洋においては、植民地化の流れにかつての帝国たちがいまだ眠りについている時代である。
新大陸においては独立を達成したアメリカ合衆国がその領域を拡張し続けており、アフリカはいまだに暗黒大陸のままだった。
だが、英国のウィリアム・ハーシェルが巨大な望遠鏡により宇宙をにらみ、天王星を発見。
さらに、青く輝く水星を観測していたように大いなる発見の時代でもあった。
水星におけるこの時代は、全土へ交通網が行き届きはじめ、航空機の発達とともにさらに遠くへと目が向けられ始めた時代であった。
この時代、ハーシェル同様に日本人も宇宙空間に目をこらし、地球を観測していた。
物理学の発達、ことに瑞穂帝国大学の志築忠雄と数学者の会田安明により提唱された現代でいう相対性理論は、これまで江戸中期以来の常識だった絶対空間系物理学(ニュートン物理学)の常識を打ち破り、これまで発達を遂げていた平賀源内の電磁気学とならんで宇宙論を革新。
日食の観測により重力レンズとともにこれが実証されると、帝国国内では時ならぬ宇宙ブームが生じた。
研究開発が進んでいた宇宙ロケットという話題も手伝い、人々はもとより政治家までもがひとつの疑問を口にした。
「あの青い星に、文明は存在するのだろうか。生命は存在するのだろうか?」
幕府時代においては日本列島が空に浮かぶ星へと移動したというのが公式発表であったが、科学の発達はこれに一筋の疑問符を投げかけていた。
そして相対性理論や宇宙論の発展は、重力波という概念から地球近傍での超新星爆発などを要因とした天変地異説という新説を生み、惑星の公転周期が変わるほどの大変動があったという言説が当時の主流となっていたのだ。
それゆえ、地球は当時「蒼星」あるいは「蒼球」と呼ばれており、幕府時代以来なし崩し的に自らの居住惑星の名として定着した水星と対照を為していた。
つまりは、他の星扱いだったのである。
まずは、望遠鏡が向けられた。
だが、当時の地球はいまだ産業革命前。都市の灯火は暗く、地球のレベルでいえば20世紀中盤に入った頃の性能である当時の望遠鏡ではそれを識別することができなかった。
続いて、電波天文学を用いて通信波の傍受が試みられる。
だが、反応はない。
当然といえば当然だが、地球でラジオ放送がはじまるのは20世紀はじめである。
結論から言えば、当時の日本人は「蒼星に文明なし」との結論を下してしまった。
この発表は人々を落胆させたものの、それでも生命の存在可能性は大きいという分析結果に打ち消された。
大気分光計による観測によれば、大気組成は二酸化炭素がやや少ないながらも水星同様の大気を持つことがわかり、さらには水も大量に存在していることがわかっていた。
とりわけ、アマゾンなどの緑色は有機物、それも葉緑素が存在することを示しており生命の存在は確実視されたのである。
ひとまず人々は納得した。
「蒼星は遠い。有人探査はまだ時間がかかるだろう。その前にまずは目の前の月をめざし、太陽系のほかの惑星を探査すべきだろう」と。
ブームは、来たとき同様去っていき、日本人たちは深海に加えて発見され始めた外惑星系の冥王星型天体群や巨大ガス惑星へと興味の中心を移していく。
「化政共立主義」、地球では「カセイ・デモグラシー」と呼ばれるこの時代にあっては、まだまだほかにやるべきことがあるからだ。
この頃、相対性理論により予言された質量がエネルギーに変わる可能性は、核反応の発見という形で証明されつつある。
莫大なエネルギーを手にすることになる未来と、それに付随するいくばくかの懸念の解消も大きな課題となっていた。
とりわけ、京都帝国大学での実験により重度放射線被曝による二十日鼠の発がん率の著しい増加が報告されるようになると、強力なエネルギーを求める産業界と国民一般の意見の相克は社会問題となっていたのだ。
さらに、新政府成立後に富を蓄積した財閥などによる富の偏在もクローズアップされていった。
275 :ひゅうが:2014/12/12(金) 01:54:50
幾度かの政変の末、時の内閣総理大臣であった伊達宗紀は政府直轄下に科学者と産業担当者らで構成される核反応動力諮問会議を設置。
副総理であった高田屋嘉兵衛を議長とし、4年間の議論の末に報告をまとめていた。
結果、当時進行中の産業構造改革とあわせ、1827年に「核反応動力基本法」が成立。
宇宙開発とあわせて帝国政府の強い統制のもとでこの後の宇宙開発と原子力開発は進行することになる。
1820年代は、化学肥料の普及に伴い水星人口が爆発的な増大を迎えた時代である。
また、医学の発達と栄養状態の向上によって乳幼児死亡率も著しく低下。
これにより、電力の確保が喫緊の課題となりはじめた。
そのために財閥や工業界、そして大都市では新電力の確保を求めて核反応動力に熱い期待を寄せていたのである。
だが、さすがの彼らも反応動力に付随して生じる汚染の問題については鼻白んだ。
かといって、文字通りの大河の類をせき止めて水力発電を行うには莫大な費用が必要となりほとんど国家プロジェクト同然となってしまう。
そのため、これから50年ほどの間は日本帝国の主力電源は火力発電となり、彼らは将来の安全性確保を待つことになるのである。
これに対して、他の産業技術は比較的にではあるが順調に推移した。
ラジオに組み込む素子の開発にはじまり、制御電圧素子(トランジスタ)の開発は、階差機関一辺倒だった計算機技術に革命を起こし技術の進歩を後押ししていく。
そして、西暦1826年、従来の気筒式発動機(レシプロエンジン)にかわって噴射推進動力式発動機が開発されるにおよび、科学省はひとつの結論を出す。
「宇宙空間航行は可能である」と。
これを発表したのは、民間メーカーである備前工業の社主であった浮田幸吉と、帝国学士院に若くして名を連ねていた飯塚伊賀。
私費を投じて建造した真空風洞中で固体ロケットを飛翔させるという大掛かりな実験によって風説として流れていた「噴進機(ロケット)は宇宙を飛べない」という常識を打ち砕いた浮田は、有人であり数学者でもあった飯塚の計算の助けを借りて宇宙空間への打ち上げには液体燃料ロケットが最適という結論を科学省の定例会で発表。
追実験を経て、これは事実であると確認されたのだ。
これまで、大洋間航空路用としては使用できないとされて軍用以外ではあまり研究されていなかったロケット技術はこの発表により大きな注目を集め、翌年には航空局の一部局としてではあったが宇宙部が設立されている。
運動エネルギー上、宇宙空間を経た落下が大きな爆発を生むことを知った政府は「とりあえずやっておこう」というように宇宙開発、いやロケットを統制下に置いた。
だが政府の半信半疑とは裏腹に、彼らの情熱はいくつかの財閥や工業メーカーを巻き込んで驀進をはじめる。
とりわけ、天文好きで知られた上院議員の徳川家慶(徳川宗家当主)の好意的反応を勝ち取れたことは彼らにとって大きな助けになった。
生きているうちに自分は無理であろうが若者が宇宙からこの水星を見ることができるかもしれない。そして無人の探査機のカメラを通じてはるかかなたの星を探検できるかもしれない。
天文学者にとっての夢を現実にした二人に対して家慶が送った精神的な援護射撃も、反対派を黙らせるだけの力はあったのだ。
かくて、国費の投入により1829年にはアルコール燃料の液体燃料ロケットエンジンが開発され航空機に搭載され飛行。
音速を軽々と突破したことからさらなる予算がつき、1832年には垂直発射と高度1万メートルへの到達を実現してのけた。
さらに、この頃彼らは得難い才能を得る。
田中儀右衛門久重。芝浦技術産業の若き天才である。
若干20代であった彼は、工業技術の結晶ともいえるロケットや発電施設に魅せられて会社の門を叩き、そしてそこから科学省宇宙部へと派遣されたのだ。
のちに反応動力発電所の基本設計を任されほどに、彼の機械への情熱と才能はズバぬけていた。
彼が開発したのは、比推力の高い灯油や液体水素を燃料とした真の意味での宇宙ロケットの心臓部だった。
加えて、浮田が打ち出した「多段式切り離しロケット」という概念から到達高度は順調に増大。
同時に、飛距離も数キロだったのが数十キロに、さらには数百キロへとのびていく。
276 :ひゅうが:2014/12/12(金) 01:55:32
「これで月へ行けるぞ!」
1838年、はじめて高度100キロを達成したとき、宇宙部は科学省の変人集団ではなく未来への希望を代表する部局へとすっかり立場を変えていたのだった。
同年、ロケットに搭載した郵便物を時速2万キロで600キロ彼方へと送るパフォーマンスと、大気の上層部から見下ろした水星の写真があらゆる新聞の紙面を飾る。
そして、開始されたばかりの電映(テレビジョン)放送にのって浮田の熱い言葉が人々の胸を打った。
いかにも町工場からの叩き上げといった風の人間が夢を熱く語るのは、頭のよさそうな美男子がそうするよりよほど日本人にとっては魅力的に映ったのだ。
西暦の1841年、科学省と帝国政府は帝国宇宙庁を設立。
翌年(地球年では1年半後)の人工衛星打ち上げを目指して新型ロケットの開発を開始する。
だが開発は難航。
液体燃料ロケットの常識を破る大出力エンジンはことあるごとに爆発し、科学省内部では、理論上存在が予言されていた核反応爆薬を用いた固体燃料ロケットの開発を進めるべきとする一派やそのまま固体ロケットでよしとする派、そしてそもそも多段式ロケットを必要としないという反応動力ロケットエンジンを作るべきとする野心的な一派。
こうした横やりもあり、ついには田中が原子爆薬開発部へ配置転換されるなどの逆風が吹き荒れる。
西暦1844年、予定より倍の時間をかけてロケットエンジンは完成。
極北の実験場で人類初の原子爆弾が炸裂し日本中を戦慄させた数日後、目標の耐用時間をクリア。
この年、ロケットは飛行距離1万5000キロを突破。
翌年にかけて初の人工衛星の打ち上げにゴーサインが出る。
「もう一度、やらせてくれませんか?」
心強い味方もあった。
反応動力開発部から、田中が戻ってきたのだ。
彼が残したレポートがもとになり大気圏内での爆発的核反応禁止が法制化されるように、田中は強力なエネルギーの安定使用には時間が必要と考えていた。
それ以上に、彼は取り上げられた仕事に未練を感じていたのだろう。
西暦1846年10月4日、水星暦における4月1日、内之浦宇宙基地より初の人工衛星「大隅」の打ち上げが成功。
特徴的な信号は個人無線機でもとらえることができ、望遠鏡などなくても空を横切る衛星の姿が肉眼で確認できた。
―――この日、大日本帝国は古い言葉でいえば宇宙時代へと突入した。
最終更新:2015年01月17日 17:09