492 :ひゅうが:2014/12/14(日) 01:39:11
惑星日本ネタ―――「水星(火星)年代記のようなもの」その5
―――西暦1846年、大日本帝国は人工衛星の打ち上げに成功。
打ち上げられたばかりの1.5トンの人工衛星は各種科学データを地球に送信。
時間はかかったが伝送されてきた荒い走査線の水星の姿は、人々に深い感動を届けた。
映っていたのは南から見上げるような形で映る日本列島の姿。
春の初めの澄んだ空気に包まれた日本列島の島々、そして領土に組み込まれて久しい樺太や千島列島の島々は濃い緑色とうっすらとした白色に包まれている。
重さ200キログラム(新貫)を超える写真機と電送機を積み込んだだけあって、当時としては画期的な成果だった。
人工衛星「大隅」が撮影した数々の写真が公開されるたび、人々は自分達の故郷が映っているのか目を皿のようにしたし、海上の嵐の様子や森林の山火事の様子を興味深く見つめた。
そしてそれは政府関係者にしても同様だった。
特に、地上を常時監視できる点は、気象面から軍事面まで幅広く使用できるからだ。
根絶されきっていない多島海での海賊行為や一部企業による無軌道な伐採・密漁・密輸などはこの時代の帝国三軍の仮装敵筆頭であったし、法に基づき各地の州軍などの戦力が適正に管理されているのか常に政府は警戒を怠っていなかった。
帝国は広大であり、開発領域の拡大に伴い経済発展が進むにつれて法の隙間を突くような「限りなく黒に近い灰色」の行為に手を染める人々もまた多く存在していたのである。
半世紀前までは大陸中央部で夜盗団が半独立国状態になったことすらあった。
だが、常に空からの目を光らせることができればこうした問題は解決可能だ。
半ば以上惰性で続けられていた帝国三軍と、各地の州軍との間での軍備の更新においても彼らは圧倒的な優位を勝ち取ることができるのだ。
もっとも、平和と繁栄を謳歌する日本人たちにとって各自治体の州軍が帝国本土の三軍と干戈を交えることなど考えもつかなかったし、実際両者の関係はたいてい良好だった。
自治体が州軍を持ち得たのは、域内騒乱に備えるためもあったが、もしも日本本土が復古的な士族や公家、あるいはこの頃勢いを増していた無政府主義者の類に乗っ取られた場合に備えた自己防衛のためだった。
そのために各地の帝国正規軍は「万が一の時」に備えて地元州政府と連絡を密にしていたし、海軍に至っては本土艦隊に「玉体御移動ノ事」と称される徳川家治公以来の密命が伝わっていたほどだ。
が、こうした力の均衡も経済発展に伴い下手な州庁をおさえこめる経済力を持つ財閥群が生まれている中ではある種危機的に映る。
この時代、「巨大資本により一自治体が占拠され独立する」という悪夢を軍と帝国政府は常に抱いていた。
宇宙開発を政府の統制下に置き、核反応動力も強力な規制により独占したのは、そうした恐怖感からだった。
こうして、宇宙開発には核反応動力開発とほぼ同程度の労力をもって推進されるに至る。
そのために海軍が計画していた艦隊の装備更新計画(中型航空母艦量産計画)が後回しになったが、背に腹は代えられなかった。
今のところ天下は泰平であるし、宇宙と反応動力は確実なリターンを約束していたのだから。
493 :ひゅうが:2014/12/14(日) 01:39:48
1845年、北緯63度の極北に存在するかつての火山島 図保婦島に日本帝国三軍の将帥と科学省の男たちが集まった。
火山島が沈降して構成された環礁であるこの島は、周囲1000キロに島嶼を有さず、しかも主要航路から外れている上に海流の面でも孤立したまさに「絶海の孤島」だった。
元和年間に探検隊が「とりあえず海図に記しておく」としたとも、日本本土に取り残されたかつてのカムチャッカのロシア貴族(ズーホフ)の名に由来するともいわれる島は「実験」に最適だった。
盛夏の7月26日、この地で史上初の核爆発が発生した。
威力は、220キロトン。
環礁の周囲20キロ圏内は死の大地と化し、実験監視を行った帝国海軍の戦艦「大和」艦上では絶句が支配した。
さらに、実験に供された動物の様子や降り注いだ死の灰の予想以上の放射能は、軍をしてこの「核反応爆薬」の使用に大幅な制限をかけるのに十分だった。
「軍は、こんな代物を大都市に落とす戦争など考えたくもない。」
多少潔癖であるものの、時の陸軍総参謀長 水戸斉昭大将の言葉がすべてを集約しているといえよう。
科学省が進めていた、この反応爆薬を用いた大質量打ち上げ機開発計画はこれにより頓挫。
以後の反応爆薬開発は、汚染防止のために地下における爆発に限定されていく。
(といってももとから放射線が満ち満ちている宇宙空間での使用は考慮され続け、のちの宇宙艦隊が小惑星帯からの氷小惑星運搬に核パルス推進器を用いるなど成果も大きい。)
科学省の担当者たちは、政府との短くも熱い議論の末に反応爆薬に連なる重元素の精製を基本的に禁止することに決し、動力系については並行開発されていた別の反応系を用いることに決した。
水星の土壌に比較的多く存在する雷王素(トリウム232)を用いた動力炉の開発がその結論となった。
ただしこの決定は核物質の管理という点では最善の報告であったのだが、開発にあたって数々の事故が発生し、結果的に水星の人々に反応動力への一定の忌避感を植え付けてしまったという悪しき影響も無視できないだろう。
最終的には技術的に比較的難易度の高い溶融塩高速炉を中心とした反応動力プラント系が開発され、実用に供されるのは科学省内での開発開始から地球年で実に30年弱を経た1858年となる。
この間に進んだ省エネルギー技術や、公害病への対策の面から早期の天王素(ウラニウム)方式による実現を望んだ産業界が夢見たような反応動力万能時代は結果的には来なかったものの、最悪でも液体炉心のエマージェンシータンク(緊急反応停止槽)への落下措置による汚染拡大阻止に成功したことは地球における例を考えれば一定以上の評価に値するだろう。
494 :ひゅうが:2014/12/14(日) 01:42:16
産業界が核反応動力の熟成を待っている間、世間の目は宇宙に向かっていった。
まずは気象庁が、ついで内務省がそれぞれ衛星を製作し、宇宙庁ロケットを用いて打ち上げ。
さらに宇宙庁も試験衛星を次々に打ち上げて技術の成熟を待っていく。
この間、宇宙技術だけではなく空気噴進(ジェット)動力による大洋間航空航路の開拓、高速鉄道の開通など、着実に水星は狭くなっていった。
そんな時代にあって、星の外への関心が高まるのはむしろ当然だったのだろう。
空に青く輝く「蒼星」の光度は最大でマイナス4.7等星。
のちの第一軌道基地(宇宙ステーション)「新月」とほぼ同じ輝きを天空に浮かべており、人々は数十年以内にあの星へ旅行できるようになると信じていた。
ただし、政府上層部や科学者たちの意見は少々違っていた。
資源を得たいのであれば、月面か往復がはるかに容易である小惑星帯に出かけていくくらいでよいだろうし、開発がはじまったばかりの融合反応動力炉(核融合炉)用の燃料なら同じく月か、木星圏にくさるほどあるからだ。
もしもエネルギーが不足したのなら、宇宙空間に太陽光発電衛星群を浮かべるか月面を発電板で覆えばいい。
水星が、海底のメタンハイドレートのために急速に温暖化するというシナリオが空想科学小説で示されたりもしたが、実際のところそれが致命的である可能性は低かった。
いかに日本帝国が石油や天然ガスを大量に使用していたといっても、当時の日本の人口からすれば気温上昇を強いるだけの排出量を出すことはできなかったのだ。
また、それが可能となる頃には反応動力と地熱動力、それこそ宇宙太陽光発電などがこれを完全にカバーできる計算だった。
要するに、当時の日本人たちにとって宇宙開拓は必要に迫られたものではなくただ将来に向けた投資と、二割程度の夢で構成されていたのである。
これが別の意味で切実なひっ迫感により推進されるにはあと半世紀以上の時間を必要とする。
この時代の日本人たちは、幸福な楽天主義者であったのだ。
そして、それを象徴するかのように西暦1853年、帝国宇宙庁は初の有人宇宙飛行を実施すると発表。
国民は大きな声援を「宇宙飛行士」に送った。
そして――
「空は永遠の夜に包まれ、星は白く、とりわけ太陽と月は美しい。だが、目の前の星の青さほど私の心を打ったものはなかった。」
最終更新:2015年01月17日 17:09