839 :ひゅうが:2014/12/16(火) 02:15:45


 惑星日本ネタ―――「水星(火星)年代記のようなもの」その7



西暦1859年、地球ではイタリア統一戦争がたけなわを迎えつつあり、チャールズ・ダーウィンが「種の起源」の出版準備を進めていた。
スエズ運河は着工されており、アヘン戦争とアロー戦争を経た清国は植民地化への道を転げ落ちていた。
インドも、東インド会社から大英帝国の直接統治へ移行しており、列強による世界分割はいよいよ最終段階に達しつつある。
そんな中、英国の天文学者ジョン・ハーシェルは宇宙空間を横切る遊星と思われる物体を日誌に記している。
極めて暗いながらも、写真乾板に映ったそれは地球の1万キロあまり彼方を通過して内惑星軌道へと去っていった。
だが、小さな隕石と思われたそれは、人工物だった。

初のホール推進器(イオン推進の一種)を搭載した惑星間探査機「蒼星3号」。
日本帝国宇宙庁の宇宙科学研究所が開発したこの探査機は、蒼星あるいは蒼球と呼ばれる星のはるか近傍を通過しつつ各種科学データを観測。
はるか彼方の水星へと送信していたのである。
この年9月1日に発生した史上最大規模の太陽嵐により探査機との通信はおろか水星の通信インフラに甚大な被害が生じたために追加観測は大きく遅れたが、それでも人々を大きな混乱に叩き込むには十分だった。

「なぜ、古地図と似た地形がある!?」

「確実に生命はいる。この緑は森林に違いない。」

「この夜の光…都市かもしれんぞ!」

新聞は、旧幕府時代の結論、すなわち蒼星からの日本列島の転移説をかきたて、人々はまさかと思いつつも空に輝く星を注視する。
そうしている間に、太陽フレアが高緯度帯の都市の電子部品を過電流で破壊。中緯度帯から赤道にかけての都市にも大きな障害をもたらし、天空にオーロラを出現させるにおよんで人々の目を宇宙へとくぎ付けにする。
だが、地質協会が出した結論が彼らを冷静にさせた。

「探査機が送ってきたこの地形図を見るに、東西の大陸を繋ぐ北極陸橋がみられない。また、何よりも南方大陸メガラニカが存在せずに小ぶりな大陸一つがあるだけだ。」

よって、地形図が似ているのは偶然であるがある意味必然である。
惑星規模がよく似ているこの二つの星は、大陸分裂が進んだ後の水星の姿に近くなっているのである、と。

この結論が間違っていたことは言うまでもない。
遠方から送られてきた受像データは可視光線帯の映像データであるがために雲に隠れた地上部分を見通せるようなものではなく、夜の部分の都市の光もピンぼけしたものだった。
そして、地質協会が参考にした古地図も、17世紀以前の古いものであったがために根本的なところで地図が間違っていた。
たとえば、ユーラシアと北米を繋ぐものとして北極に巨大な陸塊が存在しベーリング海は陸地となっている。
さらには、オーストラリアと南極大陸は巨大な大陸メガラニカとして描かれていた。
実のところ、当時の「元和の大天変」解釈はこのメガラニカこそが日本領の「大陸」であるという認識によって転移説を退けたといってもいい。
こうした常識からいえば、この結論はある意味当然であったといえよう。

すがるような思いで、転移説を支持する一派は地上の電波望遠鏡を通じて大出力の指向性電波を地上へ送った。
が、10回繰り返された試みにも関わらず返信はなし。
最終的には「蒼星(地球)にも生命は存在するだろうが、知的生命体がいるとはしても文明を築いていない」というのが大方の結論となった。

840 :ひゅうが:2014/12/16(火) 02:16:18

――ここに、1枚の書類がある。
大日本帝国政府の諮問機関が作成した資料である。
これによれば、軍とこの機関がみたところ蒼星が日本列島の転移元である可能性は首肯できないかもしれないが否定もできない。
そのため、もしもこれが事実であったことを考えると恐るべき事実が想定できる。

「蒼星上は、極めて深刻な宗教的対立の中で戦争を繰り返しており、ラス・カサス報告にあるような人種的差別が横行する世界となっているであろう。」

「おそらくは元和の大天変の影響と思われる災害に蒼星も見舞われたであろうし、その影響や戦争に疲弊したために技術においてわが国は比較的進んだ状態にあると思われる。」

一部の間違いはあったものの、この報告の最後はこう結ばれていた。

「惑星そのものが軌道が乱れるほどの変化を起こすよりも、量子力学的な作用により日本列島を複写する(転移)方がはるかに必要エネルギーは低くて済むであろう。また、太陽系の調査の結果240年前の褐色矮星やブラックホールの飛来に伴う被害の証拠は発見できていない。」

報告チームを束ねていた宇宙物理学者の吉田松陰らしいけれん味のある文章は、政府上層部に申し送り事項としてこの仮説を選ばせるには十分といえた。
時の宰相、100年ぶりに政権を担った水戸慶喜首相は怜悧な現実主義者であり、かつ皇室の面でいえば保守主義者であった。
イングランド商館がスペインやポルトガルを排除して貿易独占を図るために持ち込んだ「ラス・カサス報告書」は、そんな彼に嫌悪と恐怖を叩き込んでいたのである。
まったくもって皮肉なことに、19世紀の世界は大英帝国一強時代へと突入していたのであるが…


ともあれ、大日本帝国はこれまで以上の努力を傾けて宇宙開発を推進していくことになる。
慶喜の手による強引ともいえる行政指導のもとで行われた経済再編と、独占禁止法の強化による一部財閥の分割などはこの文脈で考えるべきだろう。
国民的な人気が高かった慶喜が、任期途上の7年目で座を退いたのはそういった理由だった。
そんな彼の置き土産は、のちの政権の手により大きく利用された。
平たく言えば、財閥群に対し宇宙開発や核反応動力という重工業分野の国家プロジェクトという飴を与えつつ、代償として他の分野の規制緩和と新興企業への手厚い助成を実施。
企業の新陳代謝を促したのだ。
歴史ある大財閥は幾度かの法改正の末に創業家の独占所有物ではなくなり、またいくつかの財閥は複数に分裂、グループ企業体として現在のような姿に落ち着いていく。
この頃には、財閥発展期を支えた経営者やその後継者のうち野心的な人々が世を去っていったが、その数は限られていたし情報部や連邦警察公安部署の人々の動きも滑らかだった。

ただ、企業集団のうちの宇宙開発や先端技術に関連する部署が集まって組織された情報交換会や業界団体が政府諮問機関のもとに再編されていったのはこの時代からである。
また、ともすればある分野に特化した経済に陥りがちだった外地各州が一次産業の再活性化に取り組み始めるのも同時期であった。
この間、科学技術の進歩と、反応動力発電の本格的普及に伴って「水星から夜がなくなった」とさえ称される。
通信のデジタル化がはじまったのはこの頃であるし、本格的な電子計算機(コンピュータ)の普及が開始されたのもこの時代だった。
こののち情報化と全球電子網が敷設され、距離だけではなく情報面でも水星は数十年をかけて小さくなっていくことになる。





そして、西暦の1878年、大日本帝国は野心的な宇宙計画を発表。
若き宰相として政府の実権を握ったリベラリスト 大久保利通はこう宣言した。


「5年(地球年で7年半)以内に月へ人類を送り込み、さらには近傍惑星の探査と将来的な開発を前提とした宇宙計画を推進いたします。
突発的な宇宙的事変に伴う国民の被害を最小限にとどめ、人類の飛躍のために政府はその全力を傾けるものであります。」

数十年にわたり推進されることになる宇宙進出、そしてその中で待つ第二の衝撃が水星世界を待ち受けていた。

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最終更新:2015年01月17日 17:13