894 :ひゅうが:2014/12/16(火) 22:13:05


惑星日本ネタ―――「水星(火星)年代記のようなもの」その6.5 【祭月夜】


―――「八咫烏計画」。
日本神話において、神武東征を導いた巨大な太陽の象徴を表す名前をいただくこの計画は、最終的には太陽系総合開発計画「白鳥計画」(しらとり=日本武尊の象徴)へと発展するまで約半世紀の間継続される野心的な宇宙開発計画だった。
水星の月、のちに日本名でイザナミと呼ばれることになる衛星天体と水星軌道上に恒久的な基地を建造し、同時に木星と蒼星(水星)への有人探査を前提とした探査計画を実施するというのがその内容である。
当時としては極めて野心的で性急ではあるが、これは水星において、全国総合開発計画にのっとり赤字国債を発行してまで高速鉄道と高速道路網を整備し切っていたがためにできた計画だった。

議員としても、利益誘導の極みともいわれる交通網整備を内務省や通商産業省の反対を押し切って強行された手厚い開発を得た後ではさらに「もっともっと」とは言い難い。
仮に言ったとしても、大多数の「空気を読め」という圧力と、選挙による選別によって淘汰される運命にあった。

ある意味で、これはバーター取引であったといえる。
地球における1860年代であるこの時代、建設業界が大きく伸長したのと引き換えに、十二財閥と呼ばれる江戸時代以来の企業体は宇宙開発計画に全面的な協力を表明。
「30年後までに月旅行を日常に」を合言葉として巨額の投資のもとで大出力ロケットエンジンや惑星間航行用の核反応動力エンジンの開発に取り組み始めた。
これは言うまでもないものの、吉田松陰と水戸慶喜の置き土産を下敷きにした「国防計画」だった。
その証拠に、帝国三軍はこの頃から宇宙空間での戦闘を考慮に入れた基礎研究を開始。
一般国民は本格的な宇宙時代の到来のためと考えていたが、政府諮問機関である「帝国総合政策研究所」通称総研やそれに連なる人々は真面目に空想科学小説のような内容を考え続けていたという。
空想科学小説家である仮名垣魯文が概念研究の中に名を連ねたことが笑い話として伝わっているのを知っている者も多いだろう。

主として、新進の気風に富んだ新興財閥の筆頭 三菱財閥や航空宇宙分野において頭角を現しつつあった倉崎設計局、そして金属加工に定評のあった住友(鴻池)財閥が中心となり、今後半世紀は使用できるロケットエンジンの開発がスタートしたのは、西暦でいう1860年であった。
当時使用されていたロケットエンジンの10倍以上の推力と安定性を持ったエンジンの開発は難航したものの、潤沢な予算と100回以上の実機燃焼試験を経たおかげで5年ほどで実用段階へと達することができた。
が、宇宙庁はこれに満足せず、燃焼室とエンジンノズルの設計を共有したままで大型の燃料ポンプ(ターボポンプ)を取り付け、「ノズル4つで1セット」というノズルクラスタリング(多数連結)方式の新型エンジンの開発に着手する。
ただし、これまでに完成していたエンジンは月面・地球軌道上大推力打ち上げロケット用として用い、公約によるところの月面着陸を目指した大型ロケットの建造に着手することとなった。

895 :ひゅうが:2014/12/16(火) 22:13:37

1864年までに、宇宙空間へ送り出された人間の数は30名を突破。
多数のエンジンをひとつのロケットにまとめるクラスタリングと、安定生産が行われるようになった半導体電子計算機(コンピューター)をもってロケットの性能は確実に向上。
同時並行で、開発されたばかりの大推力ロケットエンジンを用いた月ロケット「月天」も無人飛行によって実績を積み重ねつつあった。
低軌道へと200トン、月軌道へと78トンの重量を送り込む能力を持つ巨人ロケットは、最低30年間のシリーズ使用と考えて作られたがゆえの贅沢なつくりであった。

一段目に使用された7基のエンジンは、のちに2基の新型エンジンへと置換されるもののデザイン面ではほぼ共通。
30回以上も発生した爆発事故をコンピューターシミュレーションで解析したために実現した燃料噴射板(インジェクタープレート)の蜂の巣デザインと、溶接個所の削減によってロケットエンジンはこの後も安定して性能を発揮。
同時に3機のエンジンが不調となっても修正を可能とするたっぷりの余力と、再点火を可能とする設計上・制御システム上の余力は、宇宙庁の技師長となった「からくり儀右衛門」こと田中儀右衛門久重の最後の作品にふさわしい名作であった。

1865年、「月天Ⅲ」型ロケットの完成を確認した大日本帝国宇宙庁は、月面着陸計画にゴーサインを出す。
翌年の月周回飛行と、着陸船展開、そしてそれに先立つ無人探査機による着陸調査を経て、1867年4月12日(日本時間10月11日)、那覇宇宙港を「月天11号」ロケットが旅立つ。
3日ののち、着陸船と帰還船で構成された着陸ユニットは月軌道から降下を開始。
そして4月15日午前7時2分。
日本本土では朝のニュースの時間、10億以上の人々が見守る中で小さな塔のような着陸ユニットは月面「泉津海」へと着陸。
同7時35分、坂本龍馬船長が歴史的な第一歩を記し、通勤時間を前にした人々に第一声を届ける。

「ああ、水星があんなに小さい。だがもっと遠くへいきたい。」

ちょうど、見上げた先には青く輝く水星の姿があった。

――この日、帝国国内の有給休暇取得率は過去最高に達した。


さらなる彼方を目指して、月天を上回る大重量打ち上げ機の開発を推進しつつあった前原巧山博士、そして若干7歳だったのちの宇宙庁長官 宮原二郎は多くの人々とともに空を見上げていた。
高速鉄道ではその瞬間、汽笛を鳴らし、高速道路や都市の道路上でも警笛が鳴らされた。
少なくとも、この瞬間は日本人にとって宇宙は祝福に満ちているように思われた――

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最終更新:2015年01月17日 17:14