520 :ひゅうが:2014/12/06(土) 02:58:01
惑星日本ネタ?―――「水星(火星)年代記のようなもの」 その1
ディオネ。ギリシャ神話における天空神の名をいただくこの星は、地球とほぼ同じ大きさ、ほぼ同じ大気組成を有する文字通りの地球の兄弟星だった。
一般には、その天空に輝く青さから「水星」と呼ばれる。
形成も同じ時期であり、また月を有しその半分以上を海洋で占める点も、また同一起源であると考える植物やDNAを遺伝物質とする生命体もまさしく地球とよく似ている。
その歴史は最短でも1億4千万キロの彼方に隔てられた距離のため、ひとつに交わることはなかった。
西暦でいうところの1615年までは。
ここでひとつの島嶼国家が登場する。
日本帝国。あるいは日ノ本。
太陽の下にある、あるいは東にあることを意味するその国号を有する列島国家が内乱を最終的に収拾し、国家を再統一したのとほぼ同時に、この国を起源とするもうひとつの国家琉球王国やもうひとつの日本列島の居住民族である諸部族が居住する北の二つの島を中心とした国土は、あろうことかこの太陽系第4惑星へとまるで上書きされるように一瞬にして移動してしまったのである。
その日、すなわち西暦1620年2月11日。
巨大な津波とともに日本列島は太陽系第3惑星地球から消えた。
そして、水星の瑞穂海(註:史実のエリシウム海)洋上に出現。夜のはずがいきなり白昼を迎え、小さな太陽を迎えた時の日本列島の人々は驚愕したという。
さらには、当時は往来が制限されつつも自由であった外洋航行船団を統べる人々は、季節に合うはずの星座がまったくこれとは逆であること、そして2月にも関わらず太陽の位置がおかしいことを確認し騒然となっていた。
さらには、今まで見たことのない星が小さくなった太陽の近傍に見え隠れしはじめた。
数か月を待たずに、日本本土と周辺諸国との連絡が途絶え、そしてこれらが日本側から見れば消滅したこと、さらには月の様子がかつてとは全く違うことが明らかとなるにつれ、時の江戸幕府は事態を認識していったという。
ここで幸運であるのは、日本列島にはかつてのギリシアやローマ以来の知恵の蓄積を行っていた集団「
夢幻会」が存在していたことだろう。
彼らは、大坂の陣に至るまで、江戸幕府の実質的なトップであった徳川家康の諮問機関としての地位を維持しており、さらには天文学に関してこの当時最先端の知識を蓄えた集団であった。
その起源を弘法大師空海に遡るとも、また南北朝時代に三河国に土着したがために権現様の覚えめでたかったというともいわれるこの集団は、現代からみても妥当な結論を幕府と大御所家康公に奏上する。
「天変により、豊葦原瑞穂国である日ノ本は、はるかかなたの水星へと移動してしまったものと考える。」
幕府は荒唐無稽と一笑にふそうとしたものの、月の地形が目に見えて変わっていることや季節がいきなり夏へと変わってしまったことはどうみても明らかであり、将軍徳川秀忠は死を間際にした家康の一喝によりこれを悟ったという。
幕府は、早い段階において地球と称された第3惑星への帰還を諦め、この新たな星とともに生きる決断を下さざるを得なくなった。
この天変地異に唯一説明をつけることのできた集団がいうには、
「南蛮諸国、洋欧坡(ヨーロッパ)で伝えられるところのアトランチス大陸の滅亡と同じように地球から焼失した日ノ本は、天空に放り出されて墜落することなくこの水星の大地へと移転できた。これは神仏や耶蘇も含めた神々のご加護に相違ない。」
という言葉を慰めにするしかないほどに、彼らは危機にあったためである。
冬にも関わらず、いきなり夏へと移動してしまった日本は、この年末にかけて壮絶な大飢饉に見舞われたからである。
そして、大坂夏の陣を経た後の日本は、西国大名の反乱という試練を経ることになったのである。
西暦の1620年代をこれへの対処に費やし、さらには命を燃やし尽くした徳川家康が死した1628年、世に云う「最良の三代目」徳川家光が第3代将軍としてその地位に就く。
夢幻会の補佐に加え、尾張大納言となった兄や知恵伊豆こと老中松平信綱がわきを固めたために江戸幕府の体制は結果として盤石となり、以後の海外への進出と開拓が幕府の既定路線となっていく。
17世紀いっぱいを、大規模な移民と開拓に費やした日本は、最終的にこの水星には人類以外の知的生命体が存在していないことを知る。
この段階に至り、この星を開拓し、太平の天下を維持することこそが、日本の国是となった。
18世紀を産業革命に、19世紀を原子力の開放と国家の再編へと費やした日本は、第3惑星地球との再会をその目標として20世紀を迎えることになるのである。
最終更新:2015年01月17日 18:25