646 :ひゅうが:2014/12/07(日) 01:42:18
惑星日本ネタ――「惑星日本年代記のようなもの その2」


江戸幕府が「転移」直後に直面した問題は多岐にわたった。
特に大きな問題となったのは、気候的な大混乱である。
水星の公転周期は547.24日。
一年が実に182日も長くなったのである。これは、転移先でも四季に恵まれた日本にとっては各季節が1か月半長くなったことを意味している。
気候的には赤道に近くなった日本列島とはいえ、冬を耐え抜くには極めて厳しいものがある。
しかも、転移時期は真冬であった。
これがいきなり夏になったのだ。慌てて田植えや作付を行ったが、水星年が地球年より長くなっていなければ日本列島は死の大地と化していたことだろう。
しかも、日照が大幅に減少したために従来の品種の中には収穫ができないものすら出始めている。

転移初年、すなわち西暦1615年はかくして飢餓地獄となった。
いまだに夏至と冬至の間隔が測定されておらず、翌年以降に幕府の強引な法度により強制されるに至る二期作や三期作が行われていなかったため、収穫の減少が冬の長さに追いつかなかったのである。
改元が行われた年号にちなみ、「元和の大天変」と称されるこの事態は、ことに大阪の陣の負担を負っていた西国諸大名と、長い冬となる東北諸大名を直撃する。

結果、負担に耐えかねた各地の中小大名が幕府天領へ攻め込む、または食糧備蓄を行っていた隣接領地へ藩を上げて略奪を実施するといった地獄絵図が各地で発生していった。
幕府天領において行われた緊急備蓄と米の配給制の強制、そして救貧作物主食化といった極めて評判の悪い徳川秀忠の政策は、結果として日本人を救った。
日本列島の居住人口1700万人のうち、この冬に餓死あるいは新興の病気(元和風邪)で死亡したのは「わずか」130万人で済んだのであるから。

長い冬を耐え抜き、待望の春がやってきたとき、幕府の前には疲れ切った人々と、実質的に消滅した各藩から吐き出された浪人という名の余剰兵力――はっきり言えば餓鬼の群れが存在していた。
まぎれもなく、国家存亡の危機である。
これを放置しておけば、遠からず江戸幕府は室町幕府のように空中分解し、戦国時代に逆戻りしてしまう。

この危機に、江戸幕府生みの親である徳川家康と彼の政策集団であった一団は決断を下す。

「海外への余剰人口放出と、特に南半球での食糧生産を国策として推進する」

幸いにも、南方に広がる大陸は未開拓ではあっても肥沃な土壌を有しており、さらには赤道近辺の多雨地帯では三期作はもとより四期作を可能とするだけの降雨を有していた。
さらには治水の難しい大河ではなく、地下水由来の水に困ることはない。
幕臣として重用されることになったいわゆる「お雇い外国人」、ことに三浦按針を筆頭にした航海者と九鬼水軍や河野水軍などの日本由来の水軍たちの報告は、幕府にとり大きな希望となったのである。

この時点では日本列島以外にもこの星には住人が存在していることも考えられており、幕府はそれとの接触も考慮し、この後10年以上を航海に費やすことになる。
そして、最初の移民船団が海を渡り、列島近傍の瑞穂島(註:史実のエリシウム島)や、秋津湾東部へと入植地を築いた頃、すべてを見届けたように家康は死去した。

続く徳川家光をはじめ歴代将軍もこの政策を踏襲し、幾度かの危機はあったものの日本は18世紀中盤に至り国家再編が開始される頃にはあまねく世界へとその領域を拡大させることになるのである。




【あとがき】―――というわけで、江戸幕府の対応についてちょっと一本。
おそらく技術開発は「いかに人々の腹を満たすか」を主にして進行していったことでしょう。
増大し続ける人口を冬季に養うために、南方からの船団を構成。逆に南方へは北半球の入植地から食料を輸送というネットワークが早期に整備されると思われます。
さらには、海洋でのクジラ漁なども――
かくて、日本は早くも海洋国家化し、産業革命を迎えることになるでしょう。

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最終更新:2015年01月17日 18:36