955 :ひゅうが:2014/12/08(月) 19:44:20



――「水星年代記のようなもの」その3


西暦の17世紀から18世紀にかけて、日本人は広く、そして確実に水星表面を拡散していった。
「銭湯の釜と綿入り半纏にはじまる」と称される産業革命の波は地球年でも10年とたたずにその勢力圏の全土に拡散していったし、その影響は次々に新たな波紋を発生させ続けていた。
航海距離の増大は、航海技術に必須となる高等数学と工業的な洗練を生み出していったし、機械化と広義の集団組織化の恩恵は下から徐々に国民の資本蓄積を促していく。
さらには、気候が基本的に温暖期にあるこの星では、ある一か所で飢饉が起こったとしても別の場所から食糧を輸送すればそれで事足りた。

類人猿が存在していない――地球の太古の生態系と近い状況は、人類にとって致命的な新興感染症の蔓延を防止した。
感染しようにも、取りつく島があまりなかったのだ。
むしろ、日本列島から広まった新たな病原体群による環境への負荷の方が大きかったほどだった。
そして、産業革命を経て欲望を理性的に開放するだけの余裕を持った日本人たちは驚くほど貪欲だった。

「産めよ増やせよ、地に満ちよ。」

博愛主義をもって幕府にようやく公認された天主教(基督教)の経典のうたうように、日本人たちは外地へと殺到したといってもいい。
何しろ、17世紀末に入ると国内では栄養状態の向上や間引きの廃止などの先進的な政策と、外地から輸入される食糧は余剰人口を次々に生み出していた。
分割相続が基本的に禁止された(食糧生産能力維持や武家の関係性上の政策)日本本土で零細自作農か小作農になるよりも、外地の中でも自由闊達な風潮の強い扶桑平野(ヘラス海こと扶桑海沿岸地帯)か、天領の豊田平野(マリネリス海こと大八幡海沿岸)、冒険を狙うなら開拓が進む美海(アルギレ湖)へ出て百町歩(約110ヘクタール)の田を支給される方がよほどよい。
そうでなければ、島津様か鍋島様の領地で探鉱で一攫千金という手もある。
もしあぶれたとしても、仕事はうなるほどあった。
工事現場の人足、発達し始めた工業に従事してもとりあえず以上に食っていける。

要するに、この頃の日本は莫大な膨張圧力を抱えていたのである。


対して、日本本土の政治情勢はおおむね旧来の延長戦で推移したといってもいい。
諸大名の力を削ぐ目的で推進された参勤交代がほとんどイベント化してしまい逆に雄藩のアピールや興行の舞台と化してしまったといっても、幕藩体制の根幹をなす徳川将軍家と各武将の主従関係はまったく変わりようがなかったためである。
だが、元禄時代を経て享保時代へ至る頃には、すでにそのほころびは顕在化しはじめていた。
石高制はすでに5代綱吉の時代に事実上崩壊し、剣菱金山や吉野炭田などの資源を後ろ盾にした貨幣制度による資本の蓄積が進行。
平たく言ってしまえば、大身旗本や譜代大名など、幕府中枢を形成する人々と、身分的に下に位置されている町人や商人などの人々との逆転現象が発生してしまっていた。
さらには、その幕府内部においても、豊かな天領を差配する代官やその部下たち、そしてそれを補佐する寄合衆と呼ばれるのちの地方議会とは意識の面で天と地ほどの乖離が存在してしまっていた。

「なんであいつらが我々より豊かなんだ。」

というやっかみ。そして

「なんであいつらは我々から搾り取ることしか考えていないのか。」

という現場や外地から、そして外洋航路を維持する人々の怒り。
この相克は、あるひとつの事件で一気に噴き出す。
寛保地震。
西暦1741年に発生したこの地震は、元禄時代の好景気を一時的に砕きながらも江戸の復興景気によってさらなる経済発展を実現した宝永地震同様の天恵となるはずだった。
だが、地震の発生した北海道周防大島付近は幕府にとって完全な死角。
さらに、発生した大津波は脆弱なインフラを直撃。
かつ日本海沿岸航路に加え、日本本土の穀倉となっていた瑞穂島(エリシウム島)沿岸航路をもをズタズタに引き裂いてしまったのである。

956 :ひゅうが:2014/12/08(月) 19:45:25
わずか数十年。
この間に、幕府体制はこの危機に対する対応能力を完全に失っていた。

彼らはあろうことか、瑞穂島の天領か、海上航路か、それとも経済政策かといった具合に優先順位について議論をだらだらと続けた挙句、外地への特別課税によってこれからの復興と、本土のインフラ強化を行うという結論を導き出した。
その段階に至り、親藩譜代のたぐいや本土の外様大名の要望を全面的に受け入れて当初見積もりの数倍にも達する予算をこれに投じようとしたのである。
海外植民に消極的であった藩の類は、経済発展に伴い没落とともに莫大な借金と構造的な赤字を抱えつつあり、この際「儲かっている外地からの還元」を心情的に要望した。
対して、有能な行政官僚を太平の間に海外天領へと派遣していた幕府や在地の守旧派重臣たちは「外地勢力が少しはおとなしくなるように」これを望む。
そして、幕府内部でも、「経済発展を遂げ幕府による直接コントロールを拒否しはじめていた外地への締め付けを行うべき」との武断復古派の思惑もあり、これは決せられた。

だが、彼らは知らなかった。
もはや有能な宰相と将軍が粉骨砕身してどうにかなるほど日本の行政機構は小さくはなく、広大な外地の人口はもはや日本本土のそれに匹敵。
さらに工業生産力もまた自立を可能とするだけの蓄積を有しているという事実を。


「幕府年寄衆への直訴を!」

真っ先にそんな意見が上がったのは、幕府天領新天原。
将軍となったばかりの徳川家重の小姓として頭角を現した俊英 田沼意次が天領総代官(各国に派遣される大代官や代官たちを統べる役目、別名総督)をつとめる大地だった。
この地は、瑞穂島をのぞけばもっともはやくからの入植が進んでいた場所であり、なおかつ大陸風といわれる石造建築が立ち並ぶ大都市であった。
日本本土の各大都市同様、町は町衆(都市住民)と周辺の国衆(農村・地方都市住民)で構成される大寄合によって自治が行われており、その寄合の決議事項は代官がこれを承認する手はずとなっていた。
田沼は、ことの起こりに激昂する住民たちや、新聞(あらきき=瓦版の発展系で定期購読されるもの)の論調に事の重大さをすぐに悟った。

彼は、紀州徳川家の系譜に連なり、次期将軍となることを予定されていた徳川家治のそばに仕えたこともある人間である。
いわば、経歴に箔をつける目的でこの職にあったのであるが(これは、総代官職が幕府内でいかに低い地位にあったかをよく示している)、20代半ばの彼をしても悟らざるを得ないほどその怒りは深いものであったのである。
とりわけ、対立する要素の強い廻船問屋などの大商人と、都市部の中小商人がそろって反対の意思を示しているあたり常軌を逸している。
自由貿易主義者の中小商人に対し、利権保護に熱心な廻船問屋は交易免許制の維持を求めて鋭い対立関係にあったのに、である。

彼は、すぐさま同僚となっていた御船手奉行 松平定信、さらには伊達・上杉・島津の外地外様三家といわれる大身の藩主代行たちにも支援を仰ぐことにする。
さらには、将軍嫡男であった徳川家治にも。
当代の徳川家重は、生来の障碍によって言語不明瞭であり、政務を取り仕切ることをことあるごとに妨げられていた。
そのため、いわば「君側の奸」を除くことで、今こそ改革を行うチャンスであると彼は考えたのである。

1745年7月、外地諸侯に加え、天領代官たちは連名で「御政道に不義あり」ではじまる弾劾状を発表。
激怒した幕府首脳が征伐命令を出すにおよび、ここに元和元年以来130年ぶりとなる内乱が発生するに至る。
御船手奉行として実質的な海軍も差配していた松平定信と、旗印となる徳川家治を擁した田沼は、徳川家の故地駿府城の沖合で幕府守旧派軍をあっけなく破り、さらには幕府常備軍に対し外地の開拓者でもある屯田兵と新型銃器、そして散兵戦といった戦術をとることでこれをあっけなく撃退。
首都である江戸をこれまたあっけなく陥落させてしまった。

957 :ひゅうが:2014/12/08(月) 19:46:19

江戸幕府の最後の将軍として徳川家治がその位についたとき、幕府の権威はほとんど失墜していた。
だが日本本土と外地という対立軸を経て決定的な断絶は回避され、以後の日本は諸大名に加えて勃興した町人たちや郷紳的な地主階級との合議体制へと移行していく。
そしてその主軸となったのは、徳川家治の示したひとつの方針だった。

即ち、「公武合体」。
家治は徳川将軍家の人間としては極めて例外的なことに愛妻家であり、正室となった倫子内親王との間に8人もの子をもうけている。
これを称して、自ら徳川家を武の家から文の家へとつくりかえたとも称されるが、田沼とともに戦地で示した軍才からしても名実ともに「最後の徳川将軍」であることに疑いはないだろう。
また、島津・毛利ら外地諸侯をたくみに牽制しつつ、新たに設けた御所政所の直轄下に松平定信率いる船団と海軍を配するという采配によって、危惧されていた室町幕府の頃のような内乱を完全に防いだ。

文武両面で日本を完全に掌握してのけたために、日本本土や瑞穂島においては彼の率いる政府へはむかえるものはもはや存在しない。
ために、この後30年ほどの時間をかけ、幕藩体制は日本帝国体制と呼ばれる新たな体制へとゆっくり変質していくことができた。
当初は武断的な存在として家治を恐れた江戸の庶民も、彼が89歳という高齢で死したときには「公方さまの遺徳」をしのんで涙したという。

彼が世を去り、さらに田沼・松平の両雄とその後継者が歴史の舞台から去ったとき、日ノ本、あるいは日本と呼ばれていた国家は「大日本帝国」と名を改めていた。
勝者となったと思われた外地諸侯は、その頃には頭角をあらわしてきていた下級武士出身の人々に完全に実権を握られており徳川宗家とともにその領地を新政府へと返上。
抵抗すらかなわずに彼らが屈することになったのは、家治と田沼らが示したように強大な海運と海軍を握る者たちを敵に回せばどうなるのかという事実がすでに示されていたからといえ、この点において、「幕府の幕を下ろした将軍」の後始末は完ぺきだったといえよう。

「さて、あとは君らの仕事ぞ。」

そういって笑った徳川宗家第12代当主 徳川家斉は、古の王者のように美姫を侍らせ、飛行機で世界を一周するなど趣味人としての生涯を送った。
対して、自ら宗家の座を降りた第11代当主徳川家基は、のちの千代田宮家の実質的な祖として京都に在住し、のちのちまで枢密顧問官として重用された。


かくして――西暦19世紀を待たずに徳川の世は終わり、日本帝国の長い時代が始まる…。

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最終更新:2015年01月17日 18:53