163 :yukikaze:2015/01/17(土) 15:59:29
艦これ話題ばかりになったせいかどうしてこうなった・・・

戦後夢幻会SS 勇者剣を置くとき

太平洋戦争の敗戦によって一度は消滅の危機に立たされた日本海軍であったが、終戦直後のアメリカ海軍の戦力が危機的な状況にまで落ち込んだことと、ソ連邦が形振り構わず火事場泥棒をしたことで、戦後すぐに米ソ対立が激化した恩恵を受け名目上は消滅したが、実質は存続という厚遇を得る事になる。

この決定については、米国側でも異論が出たものの、現実問題としてアメリカ太平洋艦隊は壊滅状態であり、戦力の復活に時間がかかること、また、基本的に海軍は非戦の立場を取っており、終戦に関しても中心的な立場をとっていたことで、政治的信頼性を持たれたことも幸いしている。

こうしたことから、日本側では没収もやむなしと思われていた空母信濃や、雲龍型2隻の保有を認められることになったのだが、それ以上に日本人にとって大きかったのは、長門の保有が認められていた事であった。

その圧倒的なまでの武勲と、壮絶なまでの最期から、現在では大和級の名声が高くなっているものの、大和と武蔵の戦果が知れ渡る1950年代半ばまでは、圧倒的なまでに国民からの人気が高かったのは長門であった。
海軍休日時代には、世界でも七隻しかない『ビッグセブン』の一角として国民の尊崇を受け児童誌の付録で『長門と陸奥は日本の誇り』とまで謳われた戦艦。
その偉大なる戦艦が未だ手元に残ることを許されたという事実は、敗戦に打ちひしがれていた日本国民を慰めるに十分であった。

もっとも、長門は日本国民の誇りを慰めるだけの存在ではなかった。
それを示したのが朝鮮戦争であり、対馬奪還作戦では艦砲射撃によって北朝鮮軍(その実態は北朝鮮に寝返った韓国軍の成れの果てであったが)を吹き飛ばし、ハイライトというべき第二次日本海海戦においては、1隻でありながら、ソ連義勇艦隊が指揮する戦艦3隻を、自ら中破しながらも全艦撃沈してのけ、彼女が岸壁の女王ではなく、恐るべき連合艦隊の栄光を守り続けた偉大な戦艦であることを証明してのけたのである。
そう。彼女はまさに『日本の誇り』であった。

そんな『日本の誇り』も、時代の流れには勝てなかった。
日本海軍が戦時中から開発していた対艦ミサイルは、かつて日本海軍にとって花形であった巨砲と酸素魚雷2つを、過去の遺物へとおいやろうとしていた。
かつては強固を謳われたその防御も、元の設計が古かったことも相まって、年々強力になっている攻撃力に耐えるには限界になっていき、就役当時では俊足を謳われた速度も度重なる酷使と改装による重量増によって、息切れをしつつある有様であった。

既に海軍も、長門を第一線で働かせるには費用対効果的に困難であると認識しており、1960年代には実質的に練習艦兼実験艦として使われる状況であった。
高度経済成長期に突入し、驚異的な速度で経済大国への道を駆け抜けていく日本であっても、強大な海軍戦力を維持するには体力が足りなかった。
海軍としては無念断腸ではあったが、長門の退役と解体を内々で確定。
砲身や軍艦旗を、宜野湾の大和ミュージアムや、横須賀の三笠記念館に寄贈する動きで進めようとしていた。ある一言がなければ・・・

166 :yukikaze:2015/01/17(土) 16:00:08
それは1964年の国会での出来事であった。
衆議院予算委員会で質問に立ったある社会党議員は、軍備ではなく福祉に予算を向けるべきではないかと発言をした。
これは別に珍しくもなんともない意見であった。
この時期、朝鮮戦争の記憶も幾分沈静化しており、カンボジア紛争などまだ何も起きていない状態であった事から、軍事予算にメスを入れようとする行為は珍しくはなかったからだ。
だが、この後が問題であった。
彼は、この時期、社会党内で勢力を伸ばそうとする向坂逸郎の思想に傾倒している議員だったのだが、向坂自身は戦前のマルクス主義の遺物ともいうべき存在であった。
故に、彼のこの発言は、当然その思想に連なるものであった。

「故に私は思うのであります。悪しき帝国主義・侵略主義の遺物ともいうべき長門や信濃を盛大に爆破し、以て日本の侵略戦争の犠牲になった多くの国への償いにするべきであると。それこそが、アジア諸国やソ連への友好の第一歩となるでしょう」

その瞬間、議場は怒号に包まれた。
誰よりも一番大きな声で怒声を放ったのが、社会党党首の浅沼稲次郎であったというのが御愛嬌であるが、この時の浅沼の怒りは尋常ではなく、鬼のような形相で、質問した議員に向かって全力で殴りつけようとするのを、周りの議員が寄ってたかって押さえつける程の有様であった。
浅沼自身もどちらかというと反軍的な立場ではあったが、そんな彼ですら、戦後の信濃や長門の活躍については「あれこそ本来の軍の姿だ」と称賛していたのである。
そんな長門や信濃をこともあろうに爆破しろと言ったのである。
浅沼は即座に同議員を除名処分にし、更には向坂派を絶縁状態にしてのけた(皮肉にもこれが浅沼の後継者である江田三郎の「構造改革論」を推進させることになる)のだが、ソ連や北朝鮮が、除名された同議員や向坂派を「進歩的な日本人」として持ち上げたことで話が更にややこしくなっていく。

そう。ソ連や北朝鮮が彼らを褒めれば褒める程、日本の国内世論は硬化していったのである。
当初は解体に賛成していた人間も「何が悲しくてロスケやチョンなんぞに褒められるために、長門を解体せにゃならんのだ」と激怒。
解体を内々で決めていた海軍を尻目に、国会では解体反対デモが巻き起こり、国防省には半ば脅迫まがいの解体反対の意見書までもが大量に送られる有様であった。
もはや、長門の取り扱いは、単なる軍備整理ではなく、政治問題へと発展していったのであった。

これに頭を抱えたのが池田勇人首相であった。
大野伴睦が有事法制成立と引き換えに急死したことを受けて総理になった彼は、所得倍増計画を押し立てて順調にそれが進んでいたところであった為、できうることならば、可能な限り予算を経済政策に割り振りたかったのである。
そうであるが故に、感情面では彼も長門を残したかったものの、海軍の解体計画に賛同していたのだが、とてもではないがそれに賛同できる空気ではなかった。
仮に賛同したが最後、彼の政治生命は間違いなくそこで終了となり、最悪の場合は、自由党が結党以来最悪の敗北を喫する可能性すら高かったのである。
既に彼の周りには、党の重鎮たちが血相を変えて「お前分かっているよな。分かっているよな」と詰め寄っているのを見れば猶更である。
『先送り』という、世界中の政治家や官僚が得意とする伝家の宝刀も、今回ばかりは抜いた瞬間に破滅するのが目に見えているのである。
無論、海軍に責任をなすりつけるというのも論外である。
国防軍を実質的に牛耳っている阿部俊夫統合幕僚議長が、他者への責任転嫁を誰よりも嫌っており、戦前、政争の為に海軍を利用した鳩山一郎が、どのような末路を辿ったかを知れば、考えたくもなかった。
最後の手段として大磯の吉田の元に駆け込むという手段も考えたが、これも取りやめた。
あの大磯の古狸の事である。
まず間違いなくこちらが望むような回答を出すほど人間は出来ていない。
吉田学校の同級生で、あまりそりの合わなかった民主党の佐藤栄作も、この点は同意しただろう。

結局、池田が採った手段は『長門は解体せず記念艦として残せないか知恵を絞りたい』というものであった。よくよく見れば『記念艦として保存することを決定する』ではなく、先送りに他ならないのだが(実際、佐藤は国会で『先送りじゃないのか』と激しく問い詰め、池田から『どうやって記念艦として保存するかも決めていないのに軽々しく約束して、実際にはできませんなんて無責任な事言えるか』と、怒鳴りあいをすることになる)、総理から『記念艦として残す』という方針が示されたことに、多くの国民は満足し、取りあえず事態は沈静化することになった。
あくまで取りあえずではあるが・・・

168 :yukikaze:2015/01/17(土) 16:01:21
こうして時間を稼ぐことに成功した池田であったが、あくまでこれは時間稼ぎでしかなかった。
国民の熱気が沈静化したのは『長門は解体ではなく記念艦として残すことを政府は検討している』からであって、ここで『やっぱり解体』などと言ってしまえば、『アカ共に屈服しやがって』と怒りが再燃することは目に見えていたからだ。
吉田の一番弟子を自認している池田からすれば、この国の国民のややもすれば感情的にしか動けない姿勢には師や師のブレーン共々辟易としていたのだが(これもまた佐藤と意見を同じにする数少ない中身であった)それでも彼らを無視すれば碌にならないのも事実であった。
故に、彼は盛大に愚痴りながらも、長門の記念艦への道を探ることになる。

まず長門の記念艦化において最大の問題は維持費用である。
勿論、軍艦の維持費用に掛かる燃料代やらボイラーの点検やら、砲身の交換やらそういったものはなくなるものの、記念艦として使われる以上、その維持費用は決して安いものではない。
だからこそ「解体」という選択肢が取られることになったのだが、その選択肢がほぼ消滅してしまった以上、なんとかその費用を捻出しなければならない。

そう考えた場合、考えられるのは、地方自治体に丸投げするか、あるいは三笠のように財団法人に丸投げするかであったが、三笠クラスの大きさなら何とかなるにしても、流石に4万トン以上の大戦艦を維持できるだけの体力を持つ組織はどこにもなかった。
実際、長門誘致に手を上げた自治体も『土地を譲渡する代わりに維持費用は国で持ってほしい』とする声が殆どであり、国が費用の分担を出した瞬間、腰が引けるのが実情であった。

結果的に、池田が経済ブレーンの下村(憂鬱世界の辻)に相談した結果、何とか捻りだした案が以下である。

  •  長門の管理は、公益法人の『長門保存会』を設立してそこに委託する。
  •  『長門保存会』には、特定公益増進法人とすることでさまざまな税制上の優遇策を付与する。
  •  長門の設置場所を公園にすることで(三笠のように)、固定資産税等もかからないようにする。
  •  艦の維持については、海軍からも人員の協力が出来る体制にする。(ただし海軍の負担にならない規模で)

保存会については、連合艦隊の参謀長として南雲と共に戦った高田利種(憂鬱世界の草鹿)がトップになることを快諾していた。
池田にしてみれば、阿部にさせたい所であったが、阿部が防衛大学学長になることが内定していたことと、『南雲の軍師』として、国内外から高い評価を受けていた、高田の方が未だ知名度が高い事を考えて(南雲や小沢、栗田は戦後隠棲を続けていたため、必然的に高田にお鉢が回った)高田が会長になったのだが、高田は今まで培ってきた人脈をフルに生かして、法人の形を作ると共に、今後の維持についての計画を練ることになる。

2番目の税制上の優遇策であるが、後にこれが問題視されることになる。
この優遇策については、収益事業課税や所得税は無税になり、更に公益目的事業の実施に必要な金額をみなし寄付金と見なして、税金にかかる割合を減らしたりもしたのだが、2000年代にはこの優遇策を悪用して、維持費用の水増しによる脱税を起こし、役員総退陣及び強制捜査という愚行を引き起こすことになる。
また、一般人や法人関係の長門保存会への寄付金が、税制面で寄付優遇されることになったのだが、これもまた脱税に使われるなどしたため、こうしたことが小泉内閣での法人制度改革に繋がることになる。

3番目の公園化であるが、これは海に面した自治体が我も我もと応募することになる。
特に4鎮守府のある自治体はお互いの意地と面子をかけての陳情合戦になり、広島県知事及び呉市長に至っては、池田に対して「あんたは広島県人なんだから何としても長門を呉に持ってこんといかん。長門の生まれ故郷は呉じゃ」と、池田が居留守を使いたくなるほどの剣幕で、公邸にまで押し寄せている。
そうした中で設置場所として決められたのが、誰も予想していなかった(誘致先ですら半ばあきらめていた)福岡市であった。
唖然とする面々に対して、高田は『元寇のときも朝鮮戦争の際も、最前線に立つのは九州であります。故に、朝鮮戦争で外敵から国を守った長門を、福岡に置くのは必然であります』と述べ、ソ連や北朝鮮に対する強烈な皮肉を返すことになる。
もっとも、高田としては「4鎮守府のうちどれかを選んでも怨恨は残るんだったら、選ばない方がいいし何よりこちらには大義名分がある。第一、福岡市は史実でも屈指の経済力を誇る大都市だから、公園の維持費用や、交通アクセス面でのサポートも期待できるしね」という本音があった訳だが。

169 :yukikaze:2015/01/17(土) 16:02:04
4番目については、近所に佐世保鎮守府や呉鎮守府があることから、ボランティアや研修の名目で将兵を長門に派遣して、大規模な修理や清掃に役立てられることが見込まれていた。
これもまた後には「国軍のやるべきことか?」と槍玉にあげられたのだが、これについては「長門の戦歴を見ることで、国軍の果たす役割を見つめさせる」という名分によって事なきを得ている。

かくして、関係者の心労を代償に、長門の記念艦の道筋は整えられた。
維持費用の低減と船体の固定化の為に、艦内の大部分がコンクリートなどで埋められてしまい、砲塔や副砲群、煙突やマストについても、レプリカやコンクリートで作成されるなど、『こんなの長門じゃねえ』と批判される声も上がったものの(長門保存会からは『バカヤロウ。文句があるなら4鎮守府の自治体に言え』と返答された)1969年5月。長門は福岡市の百道海岸に作られた『長門公園』に記念艦として保存。

以降、観光の名所として、連合艦隊の栄光を背負い続けた雄姿を後世に残すことになる。

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最終更新:2021年04月05日 01:20