815 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:07:55
夜明け前が一番暗い…されど、夜明けが訪れるとは限らない。

提督たちの憂鬱 支援SS 憂鬱ソヴィエト陸軍事情1


ソヴィエト社会主義共和国連邦。(以下ソ連)
ユーラシア大陸の大半を占める世界屈指の陸軍大国である。

同じく世界屈指の陸軍国家であるドイツと国家存亡をかけた死闘を繰り広げ、紆余曲折を経て停戦することに成功していた。しかし、あくまでも終戦ではなく停戦であるため、赤軍上層部は来るべき再戦に備える必要があったのであるが、その内情はお寒い限りだったのである。

ドイツ軍との戦いで文字通りの壊滅的な損害を蒙った赤軍であるが、その再建にはソフト・ハードの両面で難題が山積みであった。最後の大反抗作戦『バクラチオン』の時でさえ、トラックや列車など兵站を支えるものは不足していた。
戦車はカタログスペックを発揮できるものは殆ど無く、T-39、T-44に加えIS-2重戦車も数こそあったが、品質は劣悪そのものだった。砲は暴発、装甲は被弾に耐えられずに砕け、エンジンは焼きつき、関連部品もあっさり壊れる等など、悪夢のような光景があちこちに溢れていたのである。

航空機に至ってはそれに輪を掛けて悪く、エンジンが動かないくらいならまだマシで、離陸中に滑走路上で分解するような機体があちこちの部隊に配備されていた。そのような状況で士気が上がる訳が無く、さらに開戦以降の将兵の消耗も激しく、前線の兵士達の練度も高いとは言えなかった。

そのような状況で精鋭ドイツ軍相手に停戦まで持ち込めた赤軍上層部の能力は高く評価されても良いのであるが、戦後ソ連の置かれた状況からすれば、そんなものは何の慰みにもならなかった。バクラチオン作戦により一線級部隊がほぼ壊滅し、畑から取れるとまで言われた兵士も実戦経験を持つ者は軒並み戦死か捕虜となり、残ったのは錬度不足の新兵が大半であった。将校に至ってはさらに深刻な状況であり、前線指揮官が大幅に不足していたのである。

これに加えて、戦前の所業による国際的地位の失墜と異常気象による農業不振でソ連は国家として崩壊寸前となっていた。日本を拝み倒すことで輸入している食糧や民需品だけでは足りず、モスクワの市場にさえ人肉を売る店や密輸品(又は横流し品)の闇市がある有様だったのである。

赤軍を再建する前に国家再建が急務の状況なのであるが、戦後もドイツへの警戒から陸軍の大幅な軍縮は困難だった。このためソ連は中国から労働力を輸入しなければならない状況が続いていたのである。しかし、如何なる困難が立ちはだかろうとも、敵がいれば備えるのが軍人の勤めである。故に彼らは足掻き続けるのである。それが報われるかどうかは別として…。

816 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:11:55
赤軍上層部が最初に行ったことは組織改変であった。旧来の赤軍からソヴィエト連邦軍(以下ソ連軍)に名称を変更したのである。元々赤軍はソ連の地上軍を指す呼称だったのであるが、名称変更と共に3軍に再編成された。陸軍が主、残りの空海軍は従というパワーバランスは赤軍時代から引き継がれたのであるが、これは陸軍国家ドイツを仮想敵とする以上仕方ないことと言えた。

赤軍からソ連軍になったことにより事実上の国軍となったため、士気向上のために一部の部隊に付与されていた『親衛』の名称は削除されることになった。この決定には、以外にも当の親衛部隊の人間も賛同を示すものが多かった。そのため、あっさりと名称変更されてしまったのであるが、兵士達に言わせれば、名前遊びなんかしている暇があったら、まともな武器と食料を持って来いという意思の表れと言えよう。

しかし、名称が赤軍からソ連軍に変わったからと言って、急激に軍の再建が出来れば苦労はしない。遅々として進まぬ陸軍の再建に四苦八苦しているところに意外な国から救援の手が差し伸べられることになる。

817 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:17:01
『国家に真の友人はおらずあるのは国益のみ』といわれるがまったくもって真理である。英国がソ連に極秘裏に支援を申し出たのも、国益のために他ならない。英国がソ連を支援したのには幾つか理由があるのだが、大まかには資源問題と純軍事的な問題と戦後のパワーバランスの3つがあった。

まず資源問題であるが、インドを失うことによる新たな資源地帯の確保が目的であるのは言うまでもない。インド情勢はかなりきな臭いことになっており、独立と同時に内戦が勃発するのは目に見えていた。旧宗主国からしてみれば治安が悪化した資源地帯などお荷物でしかないのである。

カナダや豪州、ブリティッシュコロンビアも有力な資源地帯なのであるが、大津波の被災による船団の復旧が終わっていない状況では、豪州は遠過ぎた。カナダは巨大津波による被災からようやく立ち直ろうとしているところで、資源供給量は満足出来るものではなかった。ブリティッシュコロンビアに至っては、本格的な入植が始まろうかという段階であり、成果が出るのは最低でも数年以上先のことであった。英国からしてみれば、資源入手先としてソ連は有望だったのである。さすがの英国紳士も某極東の財務大臣よりは血も涙もあったらしく、かなり真っ当なレートで取引を行っている。とはいえ、あくまでも日本と比べればである。実際は相当安く買い叩いていたりするのであるが。

次に純軍事的な問題であるが、これは英国陸軍の内情に起因するものであった。ダンケルクで正面装備の大半を失い、空軍と海軍に割りを喰われながらやっとのことで生産した戦車であるが、ドイツの機甲師団には役立たずなことが諜報活動により判明していた。最初から設計していたのでは何時完成するかも分からない状況では、どこからか持ってきたほうが早いと考えるのは当然であろう。ドイツと正面から殴りあった陸軍大国が設計した戦車ならば…というわけである。

ソ連側としても設計は完了していてもロクに生産出来ない戦車など、現状ではさほど価値があるものでは無かった。設計図と引き換えに何かもらえるのであれば御の字であったのである。実際、新型戦車の設計図(IS系)は英国のカヴェナンター巡航戦車のほぼ全てとバーター取引されており、英国は入手した設計図を叩き台にして次期主力戦車を開発することになる。

最後にパワーバランスであるが、英国としては現状でドイツとの再戦だけは絶対に避けたい事態であった。当分の間は東に、つまりソ連側に目を向けてもらう必要があった。そのためには、ドイツにとってある程度の脅威となってもらわなければ困るわけである。もちろんそれだけではなく、ソ連軍を支援することにより友好を深め、最終的には軍部によるクーデターで共産党を打倒して親英政権を打ち立てるつもりであった。共産党を打ち倒し、親英・親日国家を樹立出来れば英国の利益となるだけでなく、日本も同盟の枠組みに組み込めるメリットがあったのである。

ソ連側は上記の事情を諜報活動によりある程度察してはいたものの、だからといって英国の支援を断る選択肢は存在しなかった。ソ連の窮乏ぶりは、もはや自力でどうこう出来るレベルを超えていたのである。

独ソ戦終結直後より密かに開始された英国の支援(厳密には資源とのバーター)は、日本との関係を悪化させないよう細心の注意を払いつつ本格化していった。その分野は驚くほど多岐に渡り、ソ連崩壊後に公開された機密資料を閲覧した関係者が驚愕することになる。

818 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:19:46
当時のソ連軍に足りない物はと聞かれたら『全て』と即答されることであろう。それほどまでに窮乏していたわけであるが、それでも強いて言うならばマスプロ技術であろうか。

独ソ戦末期では補給が途絶えた上、ソ連軍の兵器は動作不良が相次いだ。このため兵士の間でさえ、自国の兵器を信用できないという風潮が広まっており、それが兵士の士気をさらに低下させていたのである。そんな不安定な武器を持った兵士達を指揮しなければならない将校も同様であった。前線の将兵はまともに使える武器を切望していたのであるが、戦争中にそれが適うことは遂に無かったのである。

近代戦で兵器に求められるものは品質と同一部品の互換性であり、つまりはマスプロ技術である。要求された性能を満たしていても数が揃わなければ意味が無く、部品の互換性が無ければ前線で整備出来ずに置物と化す。試作機が高性能を発揮しても、量産機も同等の性能を発揮出来なければ意味が無いのである。

マスプロ技術の発祥は20世紀初頭の米国であり、大量生産の代名詞となったT型フォードである。T型フォードは、製品に同一規格の部品を使うことから始め、後にベルトコンベアによる流れ作業を導入、最終的に1500万台という膨大なT型フォードを量産した。これは有史上画期的なことであり、大量生産大量消費文化の礎となったと言っても過言ではない。

マスプロ技術の肝は徹底的な統一規格部品の使用と、作業のマニュアル化である。言われたとおりにやれば、誰でも製造が出来てしまうわけであり、熟練の職人芸は不要なのである。熟練工を徴兵されてしまったことにより品質低下を招いた-戦記物で度々言及されているが、全くのデタラメである。マスプロ技術をしっかり理解していれば、品質低下は起こりようも無いのである。(材料と労働力の確保が前提であるが)

英国から派遣された技術調査団も上述の結論に達しており、本国で設備刷新のために不要となった大量の工作機械に加えて、ある人物をソ連に派遣したのである。

819 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:22:21
ヘンリー・フォード。
上述のマスプロ-大量生産技術の生みの親であり、20世紀の概念を変えた偉大な人物である。
史実ではこのころになると精神的にも一貫性がなく、疑い深くまともな状態では無かったと言われているが、この世界では違っていた。

巨大津波による被災で財産を失い、さらにアメリカ風邪に対する滅菌作戦により本拠地デトロイトは空爆により消滅したものの、辛うじてフォード自身はカナダ経由で英国へ脱出することに成功していた。しかし、受けたショックが大きすぎたのか、狂っていたのが1回転してまともになったのか分からないが、彼は正気を取り戻したのである。そして正気を取り戻した彼がやることはただ一つ、すなわち大量生産システムの構築であった。

とはいえ、英国本国で彼の活躍する場は既に存在していなかった。それでもフォードは諦めきれずに直談判を繰り返した。身寄せ先の英国フォードはもちろん、政府上層部でも持て余していたのであるが、かといって彼をこのまま放置するのは危険であった。有り余る行動力で枢軸側に亡命されたら面倒なことになるからである。特に彼は反ユダヤ主義者であり、ドイツにも知人が多かった。亡命でもされたら格好の宣伝材料にされることは確実であった。

何でも良いからヘンリー・フォードに仕事を-これが当時の関係者達の一致した認識であった。
そんなときに降って湧いたのがソ連の窮状である。彼とソ連を組み合わせるのに異論があるはずもなかった。

当のヘンリー・フォードであるが、ソ連行きの話を二つ返事で了承している。
技術調査団が持ち帰った様々な懸念材料を笑い飛ばして1944年にソ連へ渡り、そして彼は再び伝説を作ることになるのである。

820 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:25:51
ヘンリー・フォードがソ連で手がけた最初の仕事はPPSh-41短機関銃の製造ラインの改修であった。

ソ連陸軍では、戦後に再建した部隊に速やかに行き渡らせるために手間とコストがかかるモシン・ナガン小銃よりも安価で大量生産向きのPPSh-41短機関銃が適していると判断し、優先的に生産を行っていた。

PPSh-41自体は1941年から既に生産が開始されていた。7.62mmトカレフ弾を使用する以外は単純で信頼性の高いシンプル・ブローバック方式の短機関銃である。しかし、独ソ戦末期となると品質低下が甚だしく、前線の兵士達の自国産兵器に対する不信感を増大させていた。全ての部隊に行き渡らせるためには、兵士達の不信感を払拭する必要があったのである。

生産ラインを視察して問題点を把握したフォードは、ラインの一部に手を加えた。合わせて簡単な治具の追加とその使い方の指導も行った。1週間後に再稼動した生産工場では目に見えて不良率が激減し、最初は眉唾で見ていたソ連側担当者を驚愕させたのである。

品質改善されたPPSh-41は、その信頼性と堅牢さが前線の兵達に大いに評価され、最終的に1000万挺近く生産された。その数ゆえに改良を含めた派生型も数多く、まさにソ連陸軍を代表する武器となったのである。

ソ連の兵器は数の確保には成功したが、質の確保には至っていなかった。これはマスプロ技術の未熟さによるものである。繰り返すようだが、マスプロ技術がモノになっていれば、数と質は確保出来るのである。とはいえ、現段階でマスプロ技術を完全に我が物としている国家は、発祥元の旧北米を除けば、英国やドイツ、日本くらいなものであったが。

フォードの仕事に感銘を受けたソ連軍上層部は、ソ連軍再建計画であるヴァスホート計画の特別

顧問に任じている。史実より少しだけ長生きした彼は、ソ連陸海空軍のわけ隔てなく兵器の生産

ラインの建設・運用に関わり、合わせてマスプロ技術の真髄をロシア人技術者に叩き込んだ。後に彼の弟子達がヴァスホート計画の中核となっていくのである。

821 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:29:01
戦場における兵士の仕事は銃を撃つだけで無い。ときには白兵戦をしなければならないときもあるのであるが、通常であれば銃剣で対応するべきものである。しかし、PPSh-41には銃剣は取り付けられず、以後も装備されることは無かった。

代わりというわけではないのであろうが、スコップが配備された。これは独ソ戦時に最も手近で、そして最も信頼できた数少ない国産品の白兵戦武器として兵士達の支持が高かったため、軍上層部も無視することが出来なかったためである。

兵士達の意見を取り入れ、形状的に洗練されたスコップであるが、史実の某人民軍のように、変なギミックを内蔵して強度不足になるような愚は冒すことはなく、ただの純粋なスコップであった。しかし、それゆえに塹壕堀りや陣地作りに大活躍したのである。武器としての側面から見ると、銃剣よりもリーチが長く頑丈であるために武人の蛮用に良く耐え、戦場でも大活躍している。特に年季の入った兵達は、スコップの刃を研いで有事に備えていたという。

後世の解釈では、PPSh-41の銃身を斜めにカットすることによりマズルブレーキの働きを持たせていることが、カウンターウェイトとしての銃剣を装備する意義を失わせたとの意見もあるのだが、PPSh-41のマズルブレーキの性能は気休め程度であり、後に否定されている。

実際問題として、ライフルの銃身は、負荷がかかると曲がりやすいため、銃剣を装備しないことも一つの考え方であると言える。同じサブマシンガンであるのに、銃剣に拘った英国と、それを捨て去ったソ連。なかなかに興味深いことである。

822 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:32:56
小銃と並んで兵士達の装備品として必須なのが手榴弾である。ソ連陸軍では史実のRG-42がそのまま使用されていた。例によって例の如く、戦争末期には不良品が多かったため、これを好まない兵士も多かったのであるが、大量生産キチガイ…もとい、ヘンリー・フォードによる生産ライン改修によって全軍に行き渡ることになるのである。なお、RG-42自体は特に欠点の無い平均的な性能を持つ手榴弾であったため、途中で改良を加えられながらも現在でも現役である。

ソ連陸軍では戦前の赤軍時代から対戦車用手榴弾(対戦車擲弾)を一時期は熱心に生産していたのであるが、ドイツの重戦車群には威力不足として、生産を取りやめていた。しかし、ドイツの戦車はガソリンエンジン駆動のため火炎瓶攻撃が有効であった。そのため戦後になってからモロトフ火炎手榴弾が生産された。なお、モロトフ火炎手榴弾の名称は俗称であり、制式名称はKS式手投げ弾である。

形状は棒状の柄の先に燃料が詰まった陶磁器製の容器が装着されたもので、燃料にはガソリン・ベンジン・硫黄、そのほかにも高オクタン燃料やピクリン酸や硫酸の混合液など、さまざまな可燃物が使用された。原理的にはアルコールでも問題無いのであるが、1945年に軍の規定によりアルコールを可燃物として充填することは禁止された。理由は言うまでもない。

使用時には炸薬部に付属する安全ピンを抜き信管部分を摩擦発火、その後投擲を行う。
遅延時間は0~10秒まで設定することができたため中の燃料を十分気化させてからの爆発も可能であった。着火すると陶磁器製の弾頭部分が破裂し飛散、その後十分気化した可燃性燃料が引火し周囲を巻き込み爆発を起こす。エンジンや装甲だけでなく、乗員に対するダメージも期待されていた。

同様の目的で単純に瓶にガソリンを詰め布切れで蓋をしただけの戦時急造用の火炎瓶も考案されている。こちらは『特別義勇兵』専用の兵器として制式化されている。

火炎瓶攻撃は確かに有効な攻撃方法であったが、ドイツ側がエンジングリルを保護するプレートやスラットアーマー等の対策を取ると急激に効果を減じ、現在では市街戦における対人兵器としてのみ運用されている。

823 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:35:32
ソ連陸軍の仮想敵は言うまでもなく、陸軍大国ドイツである。世界最強クラスのドイツ機甲師団を相手にする以上、ドイツ重戦車群を撃破出来る新型戦車の開発は必要不可欠であったが、開発はともかく新規でラインを建造する余裕が無かったため、T-44中戦車の主砲を長砲身化して貫通力を向上させたタイプを生産して当面はしのぐこととなった。現在ではT-44(1944年後期型)と呼称されている。

T-44の車体を流用した駆逐戦車の開発も進められた。車体をそのまま使うことで量産ラインを流用することが可能で大口径の砲を搭載出来るメリットがあった。T-44共々、フォードの尽力により最初から高い信頼性を誇り、その後少しずつであるが生産を拡大していくことになる。

駆逐戦車はSU-122(史実のSU-122P相当)として1945年から本格的に量産が開始された。T-44の車体をベースにA-19 122mmカノン砲を搭載しており、遠距離から一方的にティーガーやパンター戦車を撃破することが可能になっていた。ただし、装甲は機動性を損ねない程度にとどまっており、接近しての殴り合いは考慮されていなかった。

ヴァスホート計画とヘンリー・フォードの尽力により、必要最低限の性能と信頼性を確保した戦車の生産の目処はたったものの、あくまでも『辛うじて』対抗出来るレベルであり、ドイツの新型重戦車群を相手取るには数を頼みとするしかなかった。問題は肝心の数が不足していることであるが。生産が軌道に乗るにはいましばらくの時間が必要であり、新型戦車に至っては設計は終わっているものの、今から開発しても到底間に合うはずがなかった。結局陸軍では対戦車兵器の生産配備で時間を稼ぐことになったのである。

824 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:39:57
肝心の対戦車兵器であるが、ソ連陸軍にはこの手の兵器のノウハウが欠けており開発は難航した。英国からPIATを供与してもらう計画もあったのであるが、いくら日本から黙認を取り付けているとはいえ、前線に英国製兵器が配備されると日本側だけでなく、ドイツをも刺激してしまうことになりかねないため実現しなかった。

代わりに英国から技術供与されたのは、当時カナダで開発中だった対戦車兵器であった。
『Booper』と渾名されていたこの対戦車兵器は、史実のPIATとバズーカの良いとこ取りを狙った兵器であり、ロケットで発射して装薬で加速するという変わった構造をしていた。

弾薬も通常と違い、砲尾から装填されるロケットと砲口から装填するスピゴット擲弾の2つに分割された弾薬を用いるようになっていた。発砲時には、まずロケットが点火して弾頭を加速、ロケットは発射筒内ですぐ燃焼を終え、直後に擲弾の装薬に点火して加速するシステムとなっていた。

計画では、ロケットと装薬の複合により弾頭は165~180m/sとなっており、これは当時の肩撃ち対戦車火器としては相当な高初速であった。弾体部のロケットは弾頭とは固定されないため、発射後は弾頭から遅れて飛出し、前方30mあたりに落下するようになっていた。

この時点で既に弾頭部分の開発は終了しており、試験では貫徹力は300mmに達していた。これはドイツの重戦車を相手取るには充分な威力であった。しかし、装薬とロケットの開発が難航しており、計画では初速は当初165~180m/sが予定されたものの、実際には80m/s前後であり、当初の計画を大幅に下回っていたのである。

ロケットと装薬を併用するBooperの弾薬が大掛かり過ぎるのも問題であった。ロケットと弾頭を足した重量は14.5kgにもなり、これは投射機本体と同等であった。もっとも、英国がこのころ開発中だった携帯無反動砲は重量35kgなので、それに比べればまだ軽量と言える。

結局のところ、アメリカ風邪の防疫対策や、津波被害からの復興などに予算を取られた結果、史実よりも早い段階でカナダ兵器研究開発局はこの計画を放棄したのであるが、その技術を英国が譲り受けてソ連側へ流したのである。

カナダが梃子摺った装薬とロケットの問題も、ロケット兵器の運用ノウハウが豊富な英国とソ連からすれば解決可能な問題であった。Booperの改良型はRPG-1として1946年初頭から生産が始まり、不足していた戦車戦力の穴埋めのために大々的に配備されることになる。なお、英国でも導入が検討されたのであるが、25ポンド・ショルダーガンの正式採用が間近だったため実現せずに終わっている。

825 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:43:18
英国がソ連に行った支援の中で最良と言われ、ソ連の軍民問わずに恩恵をもたらしたものがある。それは兵器では無かったが、当時のソ連では非常に役立ち多くの命を救ったのである。

パイクリート-水とパルプの混合物を凍らせたもので、英国人であるジェフリー・ナサニエル・パイク(Geoffrey Nathaniel Pyke)による発明である。英国より援助物資として贈られたカヴェナンター巡航戦車には、このパイクリートをブロック状に整形したパイクリートブロック装甲と、その製造キットがおまけで付いていたのである。

パイクリートは、比重は水とほぼ同じで強度は鉄筋コンクリート同等というとんでもない素材である。しかも材料が材料なだけに、タダ同然で作れるというメリットがあった。唯一の欠点は溶けることくらいであるが、融点が摂氏13℃前後と比較的高いために、冬季ならもちろん、近年の異常気象により夏季でも問題無く使用可能であった。

元々パイクリートは、くれても惜しくない技術としてソ連側に恩着せがましく押し付けるつもりであった。パイクリート装甲というのも、後で理由を取ってつけたものである。しかし、寒冷地でタダ同然に作れて強靭なパイクリートは、資材不足に喘いでいたソ連側にとってはじつにありがたい材料であった。

小銃弾はもちろん、重ねると大口径砲弾やHEAT弾をも止めてしまうパイクリートは、一時期のソ連戦車の砲塔にびっしりと貼り付けられることになる。陣地構築でも大いに役立ち、施工と養生に時間のかかるコンクリートよりもパイクリートが重用されたのである。

材料費の安さと作りやすさ故に民間でも大いに活用された。
民間での需要は専ら建築資材としてであり、軍に徴用されて民間で枯渇していた建築資材の代替として大いに使用されたのである。

なお、当時のソ連にジェフリー・パイクも技術者として派遣されており、建築現場を見た彼は、パイクリートブロックを規格化してそれを組み合わせることで家を建てることを考案している。
この考えは直ちに実行され、戦災復興でパイクリートブロックを組み合わせたパイクリートハウスが雨後の竹の子のごとく建ちまくることになるのである。このパイクリートブロックと、それにより作られたパイクリートハウスが後に世界的に有名になる子供用玩具に強い影響を与えることになるのであるが、それはまた別の話である。

826 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:45:37
英国とソ連の交流は、中立の立場である北欧諸国を介して行われ、英国から技術と人材が、ソ連側からは主に資源が北欧を経由して渡っていった。さながらシルクロードの中継地点といったところであり、特にフィンランドには多くの英国人とソ連人が滞在していたのであるが、彼らがパイクリートブロックを北欧に持ち込み、その結果独自の進化を遂げることになるのである。

北欧諸国におけるパイクリートの活用であるが、フィンランドやノルウェー陸軍の戦車や装甲車の増加装甲、陣地構築に大いに使用された。ソ連とは違い、ブロックではなく板形状になっているのが特徴であり、当時の戦車にはボルト留め用のネジ穴を確認することが出来る。現在でも野戦演習の際に時折目にすることが出来る。

現在では軍用目的では廃れたものの、民間では度々活用されている。
一例を挙げるとエアドームにパイクリートを吹き付けて凍らせてパイクリートドームを作り、イベントやその他様々な用途に使用されている。その他にも強度があるので雪像の土台に使用されたりしている。

スウェーデンでは鉄の代替品としてパイクリート船が本格的に研究された。
長年の研究の結果、技術的には完成したものの、経済性の問題で現在に至るまで大々的には採用されてはいない。しかし、運航コスト次第では陽の目を見る可能性があるという。

パイクリートだけでなく、その他にも英国とソ連から持ち込まれた物や概念は多かった。そのため、当時の北欧は良くも悪くも英国とソ連の影響を受けることになる。日本が北欧、特にフィンランドに梃入れをしたのは、戦前からの数少ない友好国であることに加え、英国面とソ連面(特に英国面)に染まるのを防ぐことが目的だったと言われているが、真相は闇の中である。

827 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:48:24
英国からの支援とヴァスホート計画遂行の目処が立ったことにより、ソ連は辛うじてであるが、国家再建の足がかりを作ることが出来たと言える。しかし、その前途は多難であり、未だ予断を許さない状況であることに変わりはなかった。

ヴァスホート計画のおかげで、少しずつであるが信頼性のある兵器を生産出来るようになったものの、前線の兵士達の国産兵器に対する不信感は根強く、信頼性を改善しても兵器の受領を拒む部隊が多かった。そのため、大々的なデモンストレーションを開催したり、兵士達の要望を可能な限り取り入れたりと、陸軍上層部は後々まで苦労することになる。その一方で当時の兵士達は輸入品を異様なまでに信奉していた。

一例を挙げると、英国からの援助物資でシベリア方面に配備されたカヴェナンター巡航戦車がある。高い機械的信頼性に加えて、極寒の地でも行動可能なヒーターを標準装備、さらに足が速くて装甲も比較的厚いということで兵士達から絶賛されている。もっとも、カヴェナンターは実質軽戦車であり、戦力的に大して寄与出来なかったのであるが。

英国面に堕ちた兵器でさえこれなのだから、日本製となると神の如く扱いであったことは言うまでもない。日本製品はステータスシンボルとして崇められ、それを利用した詐欺犯罪や事件が長らく横行することになる。

輸入品への過剰なまでにおける信奉と国産兵器への不信を払拭すべく、ヴァスホート計画で作られた兵器群は、何は無くとも信頼性の確保が優先され、兵器としての性能は必要最低限で済まされていた。その代わり量産性と整備製はしっかり確保されており、それは既に滅びさったアメリカの兵器群を彷彿とさせた。これは指導に当たったヘンリー・フォードの影響であろう。

ヘンリー・フォードの死後、彼の弟子達がヴァスホート計画の中核となり、1950年代に入ると加速度的に戦力の再建が進むことになる。このことがドイツを刺激し、周辺地帯での紛争が多発することになるのであるが、それはまた別の話である。

828 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:53:49
あとがき
というわけで、皆さんお待ちかね?なソ連の陸軍事情について書いてみました。

まず名称変更についてですが、これは史実でも1946年に赤軍からソヴィエト連邦軍に名称変更しています。憂鬱世界では共産主義のイメージの悪化と、スターリン体制打破後の新体制を強調するということで名称変更が行われたという設定です。

英国の支援ですが、かなりの規模となっています。資源とのバーターなので厳密には支援と言ってよいか微妙ですが。軍事関連だけでなく、民生部門でもいろいろやらかす予定ですが、それはまた別の話で書こうと思います。とりあえずシベリア鉄道にHST(ガスタービン搭載)を走らせるのは確定です(マテ

高雄丸の人さまの支援SSや本編におけるヴァスホート計画を、おいらなりに解釈するとマスプロ技術の確立ではないかと思ったので、御大に登場してもらいました。本編でデトロイトは滅菌作戦による空爆で消滅したけど、本人が死んだという描写は無いので大丈夫なはず…(汗

以前、設定板でマスプロ技術について議論になったことがあったのですが、そのときに出た意見が大量生産に職人はいらない、むしろ邪魔になるというものでした。実際に史実のT型フォード量産もそうでしたし、英国フォードが婦女子だけでマーリンエンジンを作りまくったことからも事実だと思います。適切な指導と治具、あとは材料と人員がいれば大量生産を阻むものは存在しないのです。大量生産キチ…もとい、御大がいるのでなんとでもしてくれることでしょうw

兵器関連ですが、SU-122は史実のSU-122Pを意識しています。T-34の車体に122mmカノン砲を搭載したもので試作のみに終わっていますが、これをT-44の車体でやったものです。史実よりも車体が若干小型化して、エンジン出力が上がっているので、良好な機動性を確保していますが、車内が狭くて酷いことになってそうです(汗

Booperですが、筒の先からでっかい弾頭が飛び出た外観のためか最初は『ミルンのパンツァーファウスト』なる名前で呼ばれていました。PIATとバズーカの良いとこ取りを狙ったもので、史実では1945年ごろからカナダで実際に研究試作されたものの、ロケットで発射して装薬で弾体を加速するという構造に無理があったのか、途中で開発放棄されています。憂鬱世界では、この技術を英国が譲り受けて、ソ連と共同研究して完成させたという設定です。

肩撃ち兵器としては無茶苦茶重い(重量30kg弱)ですが、英国のザクバズーカもどきに比べればまだ軽いので十分実用範囲でしょう。少なくても威力と射程は保障されてますし(エー

そしてパイクリートです。というか英国面を書くためにもこれは外せなかったです。
パイクリートの融点は13℃なので、場所にもよりますがソ連なら年中通しで使用出来ると思います。異常気象で寒冷化が進んでいる憂鬱世界ならなおさらでしょう。

厳寒の地ならば、型に流し込んで数時間放置しているだけで勝手に凍って手間いらず。強度は鉄筋コンクリと同様でしかも軽いとくれば使わない理由がありません。史実のERAのごとくブロック状にして砲塔に貼り付けるもよし、シュツェルンの代わりにするもよし。まさに万能素材です。

パイクリートハウスはレ○ブロックで思いつきましたw
デカいパイクリートブロックをハンマーで叩き込んで組み立てていくイメージです。アレって確かデンマーク発祥ですが、憂鬱世界ではどうなるのでしょうね?

とまぁ、こんなところでしょうか。
次回はリノ・エアレースをうpしようと思うので、期待せずにお待ちください。

829 :フォレストン:2015/04/15(水) 12:57:22
以下、登場させた兵器のスペックです。

PPSh-41 短機関銃

重量:3500g
全長:840mm
使用弾薬:7.62mmトカレフ弾
装弾数 35発
作動方式:シンプル・ブローバック
発射速度:900~1000発/分
銃口初速:488m/秒
有効射程:150m

史実のPPSh-41そのものであるが、フォードの提言によって複雑なトグルマガジンは廃止されて箱型弾倉のみとなっている。


RG-42 手榴弾

重量:420g
全長:130mm
直径:55mm
炸薬:TNT 110~120g
信管:3.2~4.2秒

史実のRG-42手榴弾である。
後期ロットは量産性がより向上してコスト低減が図られている。


モロトフ火炎手榴弾(KS式手投げ弾)

重量:不明
全長:不明
直径:不明
炸薬:不明
信管:不明

棒状の柄の先に燃料が詰まった陶磁器製の容器が装着されたものである。
燃料にはガソリンその他引火性液体が入れられていたが、アルコールだけは入れられなかったようである。エンジンや装甲だけでなく、乗員に対するダメージも期待されていたが、ドイツ側が対策を取ると無力化されることになる。


T-44中戦車(1945年後期型)

全長:6.4m
全幅:3.27m
全高:2.40m
重量:33.9t
懸架方式:トーションバー方式
速度:58km/h
行動距離:210km
主砲:70口径100mm戦車砲D-10S-2×1(32発)
副武装:12.7mm重機関銃DShK(同軸機銃含む)×2(500発)
    煙幕弾発射筒6基
装甲:砲塔前面120mm、車体前面90mm、側面45mm、背面45mm
エンジン:V-2-KS 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル 600馬力
乗員:4名

T-44を長砲身化して貫徹力を向上させたモデル。登場した時点で既にドイツの重戦車群相手には非力であったため、後に専用の成形炸薬弾が開発されている。戦車としての性能はともかく、ヴァスホート計画により信頼性の確保された車体は整備製、機動性に優れていたため、様々な用途に流用されることになる。


SU-122

全長:8.81m
車体長:6.4m
全幅:3.25m
全高:2.15m
重量:33.9t
懸架方式:トーションバー方式
速度:58km/h
行動距離:120km
主砲:A-19 122mmカノン砲
副武装:12.7mm重機関銃DShK
装甲:前面75mm、側面45mm、上面20mm
エンジン:V-2-KS 4ストロークV型12気筒液冷ディーゼル 600馬力
乗員:5名

T-44の車体を流用して開発された駆逐戦車。
搭載されたA-19 122mmカノン砲は、遠距離からパンターやティーガーを撃破することが可能であった。T-44と同等の良好な機動性を確保しているが、装甲を抑えて軽量化に努めた結果であり、ドイツの重戦車と正面切って殴りあうことは想定されていない。


RPG-1

口径(投射機):70mm
全長(投射機):135cm
  (弾薬込み):167cm
重量(投射機):15kg
  (弾頭):4.5kg
  (ロケット):6.8kg
対戦車有効射程:360m
使用弾種:対戦車成型炸薬弾(貫徹力250mm)

元々はカナダの兵器研究開発局で研究されていたものであるが、諸所諸々の事情で開発放棄となったところを英国が譲り受けてソ連へ流したものである。要は英国面とカナダ面とソ連面の合いの子である。

その威力はともかく、重量と使い勝手の悪さは相当なものであったが、それでも他にまともな対戦車兵器は無かったので、不足していた戦車の穴埋めとして大々的に配備されていた。

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最終更新:2015年05月16日 17:06