841 :フォレストン:2015/08/02(日) 13:28:11
玉から陶器へ。

提督たちの憂鬱 支援SS 憂鬱英国コンピュータ事情

第2次大戦時、枢軸側に比べ戦力的に劣勢な英国は、少ない戦力を有効に活かすためにそれこそ死に物狂いで暗号の解読を行った。コンピュータの開発もその手段の一つであった。

事実、英国における最初の第一世代コンピュータは第二次世界大戦の期間中、ドイツの暗号通信を読むために開発されたコロッサス(Colossus)である。真空管を1500本使用した初期モデルのMk.1から、真空管を2400本使用のMk.2にまで発展し、枢軸側の暗号解読に威力を発揮した。

コロッサスは(極東のチートを別とすれば)世界初のプログラム可能な電子デジタルマシンであったが、プログラムは内蔵式ではなく、新たなタスクを設定するには、オペレータがプラグ盤とスイッチ群を操作して配線を変更する必要があった。それゆえに汎用性はなく、計数とブール演算という暗号解読に特化した存在であり、コンピュータと言うより単なる強力な計算機械といった存在であった。チューリング完全な真の汎用コンピュータが登場するのは戦後になってからである。

解読至難と言われたエニグマ暗号、そしてさらに複雑化されたローレンツ暗号をも解読することに成功した英国は、戦力を効率的に配分することによりバトル・オブ・ブリテンを戦い抜くことが出来たのである。その結末は停戦という名の実質敗戦であったが、ドイツ側との戦力差を考えると大健闘であった。

英国を存亡の危機から救ったとも言えるコロッサスと、その開発運用に携わったブレッチリー・パークの科学者達であるが、彼らは戦時中からある疑念を抱いていた。それは敵国ドイツではなく、友軍であるはずの日本軍に対してであった。

バトル・オブ・ブリテンを英軍と共に戦い抜いた日本軍であるが、遠く離れた欧州の地で作戦行動を行うためにある程度独自の裁量権を持たされていた。とはいえ、それでも本国との連絡は欠かせない。定時通信やその他諸々で、日本への通信量は膨大なものとなったのである。

日本軍の無線は英国側でも傍受しており、その中には明らかな暗号電文と思われるものも多数存在した。解読を試みたのであるが非常に強固な暗号であり、従来型のコロッサスでは解くことが出来なかったのである。

『日本はドイツはおろか、我が国よりも強力な暗号とその作成機を実用化している』

これが当時のブレッチリー・パークの科学者達の認識であり、また悩みの種でもあったのである。そのため、日本軍が使用している暗号と将来的に変更されるであろうドイツの暗号に対応するために、より高性能で使い勝手も向上させたコロッサスMk.3が開発が開始されることになる。

842 :フォレストン:2015/08/02(日) 13:32:28
1943年初頭。
対日戦における度重なる敗北と、遅々として進まぬ巨大津波被害からの復興、さらに極めて致死率の高い新種の疾病(アメリカ風邪)と異常気象により多数の犠牲者が出たことで、合衆国民の不満は頂点に達した。米国東部で発生した反乱は拡大の一途を辿り、アメリカ東部は完全な無政府状態と言っても良い状況となった。内と外の両面から攻められたアメリカはここに崩壊したのである。

世界の工業生産の半分を占め、莫大な富を蓄え、さらに侮れない技術力、科学力、軍事力を持っていたアメリカが崩壊したことは世界中に衝撃を与えたのであるが、それ故に放置しておくことは出来ない問題でもあった。英国を含む欧州列強は、災害救助の御旗の元に旧北米大陸に進出したのである。

災害救助という大義名分があり、実際に被災者救助も行っているものの、実質的には欧州列強による崩壊したアメリカの資源と利権の切り分けであった。その際に問題となったのは、当然のごとく分け前の配分である。停戦したとはいえ実質的には敗北していた英国は、利権確保で強硬なドイツ相手に強く出れなかったのである。頼りにしたい日本も英国の過去の所業のために完全に中立であり、喉から手が出るほどに欲しかった資源や利権の確保に遅れを取ってしまったのである。

資源確保である程度の妥協を余儀なくされた英国であるが、その分人材の確保に力を入れていた。各地に散ったエージェント達が疎開していた人材を見つけ出してスカウトしたのである。

彼らの多くはナチス政権を避けてアメリカに移住していたため、英国からの誘いを断ることは無く、むしろ積極的に自分を売り込んできた。このときにジョン・フォン・ノイマンや、ジョン・マッカーシーを得ることが出来たのは僥倖であった。彼らが英国のコンピュータ開発に大いに寄与することになるからである。

英国の人材確保はその後も行われ、結果的にかなりの数の(チート級)人材が英国へ渡ることになる。既に国境が確定していた1950年代以降もブリティッシュコロンビアへ亡命してくる人材が後を絶たなかったのは、裏を返せばドイツに対する評価への裏返しともいえた。横紙破り上等で国際条約無視は当たり前、さらに奴隷制を制度化して周辺国から収奪する等の所業で、ドイツに対する評価は地に落ちていたのである。

1944年になるとコロッサスMk.3の開発が本格化した。旧アメリカ人技術者の助けもあってか開発は順調に進み、1945年初頭には稼動状態となった。Mk.3は真空管を3000本使用しており、Mk.2よりも使い勝手と性能が向上していた。しかし、Mk.3の性能をもってしても日本の暗号を解くことは出来なかったのである。

843 :フォレストン:2015/08/02(日) 13:35:03
1945年7月。
全世界の数学者と暗号技術者達のSAN値を直葬させる情報が世界中を駆け巡った。
スイッチング素子に真空管ではなく、今まで全く未知の存在であったトランジスタを採用した従来の常識を覆す新型電算機。後に『トランジスタ・ショック』と言われることになるトランジスタ型コンピュータの発表である。

真空管とは違い、球切れすることなく延々と高速計算が可能であり、しかもプログラムを変更することで多種多用な計算に対応することが出来ることは当時としては画期的なことであった。前述のコロッサスとは、プログラミングで計算内容を変更することが可能な点では同じであるものの、コロッサスのプログラミングは外装式でプログラム変更に手間がかかるうえに、可能な計算にも制約があった。対して日本のトランジスタコンピュータのプログラムは内蔵式で、手元のコンソールから簡単に変更可能という点でコンセプト的にコロッサスよりも遥かに進んでいたのである。

さらに恐ろしいことは、この画期的なコンピュータが10年前に開発されて秘匿されていたことである。極論であるが、科学技術の発達は計算機の発達の歴史と言っても過言では無い。人間が計算するよりも遥かに高速で間違い無い計算結果を得られるということは、それだけで大きなアドバンテージとなるのである。

特に物作りでは計算は必要不可欠である。構想がまとまっても、それを形にするには膨大な計算が必要となる。設計現場では手回し式計算機や計算尺の導入によって高速化が図られていたが、それでも人的ミスは避けられず、納期の遅れや設計変更が頻繁に起こっていたのである。

しかし、この新型コンピュータならそのような煩雑な作業から開放されるのである。設計段階でのロスが大幅に減ることにより、開発スピードは格段に向上され、それが10年続けばどうなるか…。日本が異常な発展を遂げた理由としては十分なものではあった。もっとも、完全に納得したわけでは無く、未だに日本に対して不審や疑いの目を向けている者もそれなり以上に存在していたのであるが。

844 :フォレストン:2015/08/02(日) 13:39:00
日本のトランジスタコンピュータの発表により、コンピュータの重要性に気付かされた英国(というより円卓)は、官民挙げて開発に邁進することになった。

英国のコンピュータ開発であるが、開発目標は日本のトランジスタコンピュータそのものであった。その秘密を暴くために英国情報部は総力を挙げたのであるが、彼らの最初の仕事はコンピュータ関連の特許の調査であった。調査先は当然日本が最優先であったが、旧北米の特許も調査対象とされた。日本が旧北米の特許や技術を接収していることを掴んでいたからである。

日本におけるコンピュータ関連の情報収集の場となったのは駐日英国大使館であった。先年の夏にやらかしたある事件のおかげで、本国人とは違って日本人からは概ね好意的な感情を持たれていた。そのため、欧州枢軸側に比べれば比較的自由な情報収集が可能だったのである。彼らは特許庁に日参してコンピュータ関連技術の特許調査に明け暮れる一方で、現物の見学もしていたのである。さすがに中身は見せてもらえなかったのであるが、外見からでも得られるデータは貴重であり、特に機器のレイアウトや操作方法などの情報は大いに参考にされたのである。

なお、日本で入手した情報を国外へ持ち出すのには、マイクロフィルムを用いていた。外交官特権で持ち出すのが一番安全かつ確実なのであるが、万が一バレると外交問題どころの話では無いので、その隠し場所には細心の注意が払われた。コイン型の隠し容器に入れて財布の小銭と混ぜたり、シャツのカフリンクスに偽装した隠し容器に入れたりと様々な工夫を凝らすことになるのである。

マイクロフィルムでは間に合わない、緊急性を要する情報については暗号電文が使用された。駐日英国大使館の大出力アンテナから発信された暗号電文は、いくつかの中継地を経て英国で受信されていたのである。

暗号電文に使用された暗号は、いわゆるシフト暗号の一種である。文章を暗号ブックと重ねて、アルファベット順で数値化したものである。例を挙げると、暗号ブックがAで文章もAの場合は0を、暗号ブックがZで文章がXの場合は-2となる。極めて簡単な暗号であり、暗号ブックさえあれば、素人でも簡単に解読出来るシロモノである。

ただし、この暗号ブックが曲者であった。この暗号に用いる暗号ブックは一般書籍であり、英国ならばどこにでも売っている物であったが、日本ではまず入手出来ない超ローカルな書籍であった。それでも、同じ暗号ブックで繰り返し通信すれば、コンピュータで全数検索と頻度分析にかければ解読は不可能では無いのであるが、この暗号では2度と同じ書籍を使用しないようになっていた。いわゆる使い捨て鍵暗号であり、バーナム暗号の一種であった。

見た目は(中身もであるが)完全な一般書籍のため、大使館関係者が日本国内へ持ち込むのは容易であり、実際に日本側のチェックも素通りであった。日本側の暗号解読者たちは、一時期躍起になってこの暗号の解読に励んだのであるが、結局のところ徒労に終わっている。

845 :フォレストン:2015/08/02(日) 13:41:23
旧北米での調査は、特許を管理・管轄するワシントンDCが津波で消滅してしまったために、困難を極めたのであるが、調査を進めるうちにユダヤ人物理学者ジュライアス・E・リリエンフェルドの特許をつきとめた。その構造は史実の電界効果トランジスタ(FET)と呼ばれているものに近いものであった。

特許自体は日本が接収してしまっていたのであるが、同様の内容でカナダでも出願されていた。

こちらは1945年に期限切れとなっていたので、カナダ側の特許を使用することに問題は無かった。ここから英国のトランジスタ開発が本格化していくのであるが、全くの手探り状態からのスタートであり、開発は難航することになる。

ちなみに、ドイツでも発明家のオスカー・ハイルにより、同様のデバイスの特許が出願されていたのであるが、こちらは当初は見向きもされなかった。日本のトランジスタコンピュータの発表により慌てて開発に踏み切ったものの、日本や旧北米から情報を入手出来る英国よりも悪条件での開発だったために、開発は遅々として進まなかったのである。

その代わりと言ってはなんであるが、ドイツは小型高性能の真空管を安価で大量に入手出来た。

対日戦に備えて旧テキサス州(現テキサス共和国)に移転していた真空管メーカーとその生産設備を利用出来たためである。奴隷を使って人件費を抑えた結果、低価格で大量供給が実現したためドイツのコンピュータ開発は真空管が主流となったのである。

テキサス共和国で生産された真空管は、当時開発が急ピッチで進んでいた真空管式コンピュータにはもちろんのこと、軍用としても大量に使用された。特に旧アメリカ人技術者達が開発したVT信管は当時としては画期的であり、その生産のために大量に使用されたのである。後にVT信管は、ドイツの職人的な凝り性と精密加工技術により、さらに小型化(40mm砲弾用)されて海軍や陸軍の対空兵装用として大量生産されることになるのである。

846 :フォレストン:2015/08/02(日) 13:43:19
日本と旧北米で入手した情報はブレッチリー・パークの科学者達に検証され、それを叩き台にして技術開発が行われた。トランジスタコンピュータの発表に先立ち、日本側は厳重な特許防衛体制を敷いていたのであるが、日本におけるコンピュータ開発は既に20年以上の年月が経過しており、一部の特許は期限切れとなっていた。そのため、期限切れとなった技術から検証と開発が進められた。ブレッチリー・パークで開発された技術は、日本側の特許に抵触していないか厳重に調べられ、問題無いと判断された技術は民間に流されたのである。

その代わり、民間で開発された技術はブレッチリー・パークへ提供されていた。官と民でお互いに技術をフィードバックし合うことで、英国のコンピュータ技術の開発速度の向上と、技術レベルの底上げを狙ったのである。

肝心のトランジスタの開発であるが、開発の拠り所となったリリエンフェルドの特許は原理特許であり、一から検証を始めなくてはならなかった。こちらはブレッチリー・パーク内で極秘裏に研究開発が進められた。

トランジスタ関連技術は日本が完全に押さえていたため、日本側の特許を回避しつつ開発するという無理難題を強いられることになった。特許を無視してとりあえず開発だけでもしようという意見もあったのであるが、技術差が隔絶し過ぎて解析出来なかったため、地道に開発せざるを得なかったのである。

847 :フォレストン:2015/08/02(日) 13:45:31
ブレッチリー・パークでは、トランジスタとは異なるスイッチング素子も開発されていた。
旧北米でスカウトされた、ジョン・フォン・ノイマンが開発したC可変型パラメトロンである。

史実では1954年に特許出願されているのであるが、個性の強い同僚達の影響を受けたのか、はたまた英国面に中てられたのかは不明であるが、1944年に実用化されている。技術的隔絶(テクニカルハラスメント)と特許回避で開発が難航しているトランジスタと比較すると、技術的に極めて簡単で、信頼性の高いスイッチング素子であった。

当時のスイッチング素子として主流だった真空管と比較しても、非常に安価で小サイズであった。演算速度は真空管に比べて劣るものの、真空管と違って球切れすることが無いために長時間演算することが可能であった。

パラメトロンのもう一つの長所として、即時性がある。真空管はヒーターが温まらないと性能を発揮出来ないのであるが、パラメトロンは電源を投入した瞬間にすぐに動かすことが出来たのである。

真空管コンピュータが、設置してから電源を入れるまでに細かい調整が必要だったのに対し、パラメトロン・コンピュータは、何もせずとも設置して電源を入れればすぐに使用可能だった。今日からみれば、電源を入れてすぐ動くのは当たり前のことなのであるが、当時としては驚異的なことだったのである。

パラメトロンの数少ない欠点として、素子の量産性があった。開発当時は、一つ一つを手作りで製作していたのであるが、単純な構造ではあるものの、フェライトコアに巻くコイルの巻き方にも独特のノウハウが存在し、慣れない人間が作ると性能を発揮出来ないこともあったという。

パラメトロン作りは、当時の未亡人や戦災孤児達の仕事として貴重な収入源となったのであるが、後に自動巻線機が実用化されて品質の安定化と、さらなる低コスト化が図られることになる。

848 :フォレストン:2015/08/02(日) 13:48:52
民間におけるコンピュータ開発は、大学が主導していた。一例を挙げると、マンチェスター大学が開発した通称『Baby』、正式名 Small-Scale Experimental Machineは(チートを例外とすれば)世界最初のプログラム内蔵式コンピュータである。これは同大学のフレデリック・C・ウィリアムスとトム・キルバーンが開発を指揮したが、ウィリアムスが発明したウィリアムス管の実用性を評価するために開発された試験機であった。

その後Babyを叩き台にして、実用的なコンピュータ Manchester Mark I が開発された。
ウィリアムス管と磁気ドラムメモリを使い、インデックスレジスタという概念を初めて導入している。また、ケンブリッジ大学で設計・開発されたEDSACもプログラム内蔵式デジタルコンピュータであった。

(くどいようだがチートを例外とすれば)世界初の商用コンピュータは、マンチェスター大学に納入された Ferranti Mark 1 である。Manchester Mark I を元に設計されており、主な改良点は、記憶装置の容量増、乗算器の高速化、命令の追加である。基本サイクル時間は1.2ミリ秒で、乗算を約2.16ミリ秒で実行した。真空管を4050本使っており、その4分の1が乗算器に使われている。2号機がトロント大学に納入され、その後さらに改良を施した Mark 1 Star が完成している。

上述のとおり、民間では当初は真空管式コンピュータが主流だったのであるが、パラメトロン素子が公開されると、瞬く間にパラメトロン・コンピュータが主流となっていった。真空管と違って球切れすることがなく長時間の計算に耐え、圧倒的に安価で信頼性の高いパラメトロンは、予算難に喘ぐ大学の研究室に歓迎されたのである。

パラメトロンは真空管に比べて安価で信頼性の高いというメリットの一方で、以下の欠点も持ち合わせていた。

  • トランジスタに比べて消費電力が大きい。
  • トランジスタ計算機に比べて動作速度が遅い。
  • 発熱量が大きく、動作周波数を上げるとコアが焼けて動作に支障が出る。

上記の欠点を持ちながらも、安価で確実に動作するコンピュータを作れるパラメトロン素子は魅力的であった。技術的隔絶と特許問題でトランジスタの実用化が進まないなか、唯一の実用コンピュータであったパラメトロン・コンピュータは、コア水冷化や並列計算、プログラミング手法の改良等、あらゆる手段で高速化が図られることになる。

小型高性能化、さらに実装技術の進歩によって、小さいものはは卓上式電子計算機(アレフゼロ101相当)、大きいものはNC装置(MELDAS 3212、MELDAS 3213相当)にまでパラメトロンが用いられた。史実日本ではわずか数年で歴史の影に埋もれたパラメトロンであるが、憂鬱英国では長らく使用されることになるのである。

849 :フォレストン:2015/08/02(日) 13:53:15
あとがき

というわけで、改訂版です。内容を大幅に変更したので、タイトルも変更しました。
最大の変更点は、『未知なる黒い欠片』が入手出来なくなったことです。アレがあったからこそ改訂前はICの開発が多少なりとも捗りましたが、それが無くなったことで英国のトランジスタ開発は史実よりも遅れることが確定となりました。まぁ、ドイツはそれ以上にヤバいことになりましたが…(汗

パラメトロンですが、史実では故後藤英一氏によって発明されましたが、ほぼ同時期にジョン・フォン・ノイマンにより特許が出されています。史実のパラメトロンとは異なり、リアクタンス(L)ではなく静電容量(C)のほうを変化させるパラメータ発振を利用する素子ですが、ほぼ同一と言っても良いものです。史実よりも登場を大幅に早めましたが、まぁ、ノイマン自身が英国面に毒されたということで…(オイ

パラメトロンでも小さい物は卓上電子計算機から、果てはNC機械まで作れるので、速度に眼をつぶれば悪くないのです。史実ではトランジスタの急速な高性能化によって姿を消すことになりましたが、この世界では大活躍出来るはず…!

オスカー・ハイルはドイツの発明家で、史実では1934年にリリエンフェルドと同じようなデバイスの特許を出願しているので、ドイツでもトランジスタの開発は不可能では無いと思います。ただし、憂鬱日本からトランジスタコンピュータの情報を収集するのは、かなり難しいというか不可能に近いので、その点は英国と比べると不利でしょう。

どのみち、トランジスタ関連技術は日本がガチガチに特許防衛しているので、一から開発しつつ特許回避もしなければならない悲惨な状況は英国もドイツも同じなのですが…(汗

ドイツは真空管コンピュータが主力となりますが、単純な演算速度ならパラメトロンよりも上なので、真空管を安価に大量に入手出来るなら悪い選択では無いでしょう。VT信管としての使い道もありますし。

真空管コンピュータの長時間稼動の障害となる球切れには、システムを二重化することと、予防保守で定期的に交換することで対応出来るかと。史実のSAGEシステムですね。

今後の方向性としては、英国はパラメトロンの小型化高集積化と、ドイツ側は真空管の小型高性能化と定格を減じて長寿命化ですかねぇ。英国とドイツのトランジスタの実用化は早くても1960年代以降になるかと。そのころには日本ではLSIが普及してそうです(汗

駐日英国大使館が日本でやらかした事件については、拙作の『憂鬱英国駐日大使館事情』を参照ということで。あのシリーズも書き足りないから、思い切って改訂しようかなぁ?

英国大使館が使用した暗号ですが、バーナム暗号の一種です。絶対に敗れない暗号ですが、いわゆる暗号鍵の配送コストの問題で史実では普及していません。コスト度外視で即応性を満たせるのは、この方法のみだったので採用となりました。

バーナム暗号は暗号を送信するために、その都度新しい暗号鍵が必要となるので、大量の暗号ブックが必要となります。なので、事実上の駐日英国大使館専用暗号です。バーナム暗号だと気付かなければ、日本側の暗号解読のリソースを浪費させることも出来るかもしれませんが、逆行者の誰かが気付いてしまいそうですねぇ。
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最終更新:2015年09月08日 22:20