6 :ナイ神父MK-2:2015/09/08(火) 23:44:26
オランダの猿叫

寛政7年

オランダ本国の危機により庸軍契約を結んだ当時の幕府は水軍の為に整備していた
支倉丸型船10隻と三河型船3隻※1の派遣を決定さらにオランダより提供された
船舶7隻の計20隻総兵力にして約5000名の兵を召集し、総指揮を薩摩藩藩主に
任せオランダ海軍に合流させてこれを送り出した。

送り出された兵は無事オランダ本国へと渡り、本国の要塞兵力と合流した幕府軍が
初めに行ったことは武装の提供と配備であった。

この行動は幕府がある不安※2を持っていたことに起因している。それは絶対的な兵力
不足と経験不足である。
江戸幕府が開いて以来戦と呼べるものは発生しておらず、また初の欧州との戦争
ということもあり寡兵でいかに貢献するかということを考えた結果、圧倒的火力で
押し切ればいいという考え至った結果であった。

持ち込まれた武装は火縄銃約6000丁 人力式の大砲約200門 火中車300台※3とも言われ
フランス軍側の記録では敵陣からの砲撃が倍に増えたといわれるほどであった。

さらにフランス軍を悩ませたのは島津の独特な戦い方である。示現流の掛け声や
捨て奸などの狂気的ともいえる戦法は前線の士気を揺るがせるには十分な効果が
在った。
こうしたオランダでの活躍を果たした幕府軍は日本へと戻りそこで知った内容を
文書にして提出し、幕府が欧州を警戒させる一因となっていく。

※1
支倉丸の改良型でより安定した海路開拓を目指して夢幻会のてこ入れで完成させた
新造艦で当初将軍からの要望で徳川の名が船につきそうになったが、流石に将軍の名前は
まずいとして家康公出身の地である三河の名がつけられた。

※2
当時幕府には欧州は先進国であるという意識があり、フランスが大国であるという話も
聞いていたため想定された戦が大阪の陣や関が原を遥かに越える戦力があるのでは?考えられていた
為、幕府は不安に駆られて寡兵でも士気が落ちにくい島津の兵の動員や大量の火器の輸送に繋がった。

※3
当時用意された兵力や武装に関しては諸説あり、記録には最大でこの数倍近い数を用意していたという
記録を多数の幕府内の人間が残している。
また、当時オランダ国王に宛てて書かれた親書には戦争が長引くようであれば、友邦の為に
更なる援軍も辞さないという趣旨の文が見受けられた。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2015年09月09日 21:13