890 :フォレストン:2015/12/24(木) 20:21:11
英国面とソ連面のせめぎあい…!
1945年5月下旬。
英国航空省の一室では、インド洋演習とイラン演習で入手した日本海軍の疾風とドイツ空軍のMe262の戦力分析が行われていた。しかし、居合わせる空軍高官達の表情は暗く、悲痛な面持ちであった。
「インド洋演習でスピットやペレグリンを圧倒していたのだ。たとえルフトバッフェのMe262でもハヤテには勝てないと思ってはいたが、まさかあれほどまでの性能差があったとは…!」
「海軍が現場の判断でシー・ミーティアのお披露目を中止したのも頷ける。もし、お披露目していたら大恥どころでは済まなかっただろう」
英日合同インド洋演習における英軍機と疾風との模擬空戦により、その恐るべき性能の一端を垣間見た英国空軍は情報部と協力して情報分析に勤しんだ。スピットとペレグリンのガンカメラから撮影した写真とパイロットの証言、それに加えて現地エージェントが地上から撮影した模擬空戦の動画から疾風の性能を割り出したのである。衰えたりとはいえ、この迅速な情報収集と情報分析力は、まさに情報大国の面目躍如と言ったところであるが、それは英軍機との模擬空戦時の性能であって、本来の性能ではなかったのである。
「イラン演習を直接観戦した現地エージェントからの報告によると、大人と子供くらいの差があったとのことでした」
「救いようのないことに、我が空軍の新鋭機であるミーティアは、その子供にも劣ってしまうのだがな…!」
要するにインド洋演習では、疾風は本来の性能を隠していたのである。エンジン出力もせいぜい8割程度であり、アフターバーナーも焚かずに空軍のスピットファイアと海軍のペレグリンを圧倒していたのである。英国空軍上層部は当時知る由は無かったのであるが、これには政治的な理由があった。
夢幻会上層部は、関係を修復しようとしている英国を不必要に刺激する必要は無いと判断していたのである。後に控えていたイラン演習に対するカモフラージュの意味もあった。付け加えるならば、レシプロ機相手に本気を出すのは大人気ないという現場サイドの本音もあった。
対して、ドイツとのイラン演習においては、日本海軍はルフトバッフェ相手に本気で模擬空戦に挑んだ。ドイツのリアルチート人材に対抗すべく、史実の撃墜王を選抜して万全のバックアップ体制で臨んだのである。その結果は言わずものがなであった。
当時のマスメディアでは日本海軍の完全勝利と報道されたが、ルフトバッフェ側は善戦、いや奮戦と言っても良いレベルで健闘していた。パイロットの腕を度外視すれば、それくらい機体性能に差があったのである。史実における戦闘機の世代が違うのであるから当然の結果ではあるが、同時にミーティアではMe262に勝てないという厳然たる事実も判明してしまったのである。
「ハヤテに敗北するのは、まだ許せる。しかし、クラウツの機体に敗北するのは許されない。Me262と直接戦うのは我ら空軍なのだ。早急に対策する必要がある」
「新型の開発を急がせますが、それなりに時間がかかります。機体や武装の改良で凌ぐ必要があるのでは?」
救いようのない現状に打ちのめされたが、彼らは不屈のジョンブルである。すぐに立ち直ると具体的な対策を協議した。具体的には以下の3点が、今後の空軍の取るべき方針として決定されたのである。
- 機体の改良による性能の向上。
- 高速なジェット戦闘機に有効な武装の開発。
- 新型機の開発。
891 :フォレストン:2015/12/24(木) 20:32:24
機体の改良であるが、これはミーティアのエンジン換装から進められた。元々ミーティアはエンジンの出力不足が以前から指摘されており、エンジンの換装計画自体は既に存在していた。今回の演習結果を受けて、計画を前倒しして実施することになったのである。
生産が進み、既に数の上では主力となっていたミーティア F.2に搭載されているエンジンは、推力1t足らずのダーウェントMk.1(Rolls-Royce Derwent Mk.1)であり、これを主翼に2基搭載していた。それに対して新たに搭載されるエンジンは、当時最新のダーウェントMk.8(Rolls-Royce Derwent Mk.8)であった。このエンジンは名前こそ同じダーウェントであるが、実際はニーン(Rolls-Royce Nene)の縮小版であり、推力も1.6tと大幅なパワーアップに成功していた。2基搭載することで総推力は3tを超え、推力だけならインド洋演習時の疾風に匹敵する数値を達成していた。
エンジン換装による大幅な推力アップは、ミーティアの性能向上に直結した。各種性能は全般的に軒並み大幅に向上して空軍関係者を驚喜させたのである。しかし、大幅な推力向上により機体のバランスが崩れ、操縦性に悪影響も発生してしまったのである。特にテイル・ヘビーは深刻で、対策として機種にバラストを積むことを余儀なくされた。この問題は初期のエンジン換装を受けた機体にのみ発生しており、新規で生産された機体は、補機類や燃料タンクの移設や機体の構造変更によって重量バランスが補正されたためにバラストは積まないで済むようになった。
エンジン換装を受けた機体はミーティア F.3として正式採用されるのであるが、機体改修に時間を取られ、本格的な部隊配備が開始されたのは1946年初頭であった。
F.3は生産ロット毎に改良が加えられており、後期ロットでは与圧コクピット化やバブルキャノピーの採用、さらには射出座席が装備された。最終生産型はこれらに加えてジャイロコンピューティングサイト(後述)と、敵機との距離を測定するレーダーが搭載された。
新型機(後述)の実戦配備後は戦闘爆撃機や偵察機に転用されたが、性能の陳腐化が早かったためにその期間は短いものであった。そのため1950年代に入ると練習機や各種試験のテストベッド機として改造された一部の機体を残して大半は南アフリカ連邦に払い下げられている。
892 :フォレストン:2015/12/24(木) 20:37:23
ミーティアだけでなく、スピットファイアも性能向上が図られた。英国本土上空にやってくるのはMe262だけでは無いのである。セットで襲来するであろうドイツ空軍の爆撃機へ対処するための戦力としてスピットファイアに白羽の矢が立ったのである。
当時のスピットファイアの配備状況であるが、未だに従来型が多数を占めており、グリフォンエンジンを搭載した新型スピットは未だに少数配備に留まっていた。大出力航空レシプロエンジンに必須となるハイオクガソリンの供給が追いつかないことに加えて、じゃじゃ馬な操縦特性のために乗り手を選ぶ機体になってしまったためである。
新型スピットは戦闘力は高いものの、燃料供給に不安がある現状では満足な作戦行動は望めないため、実質的に役立たずであった。そのため、1946年初頭にターボプロップエンジンであるダート(Rolls-Royce Dart)が実用化されると、直ちにエンジン換装を受けることになったのである。
スピットファイアのエンジン換装であるが、エンジンを主翼に吊り下げているミーティアとは違い、単発機であるために様々な問題が発生した。まず問題となったのはエンジンサイズである。元々搭載しているグリフォンは、全長2057mm、全幅770mm、全高1168mmである。対して新たに載せるダートは全長2480mm、直径960mmである。そのまま搭載すると全長で50cm伸び、左右に10cmはみ出してしまうのである。関係者は機首の整形とエンジンの搭載位置に苦心したのであるが、幸いにしてダートはグリフォンに比べて軽量だったため、エンジン換装による重量バランスの補正は最低限で済んだのである。
ダートに換装した試作機(ダート・スピッツ)は1946年の夏に初飛行した。エンジン出力は元のグリフォンエンジンに比べて低下したものの、エンジンそのものが軽量化(グリフォン:900kg,ダート:547kg)されたためにグリフォン・スピットと遜色ない性能を示した。エンジンが軽量化されて全体的な重量バランスが改善されたため、運動性はむしろ向上さえしていたのである。懸念事項だったエンジン出力も、将来的には3000馬力以上を発生させる目処がついていた。既に限界に達していたグリフォンとは違い、ダートは十分な性能向上の余地が残されていたのである。
確かに素晴らしい性能を叩き出したダート・スピッツであるが、そのまま量産化するには問題があった。レシプロエンジンとは違い、ターボプロップエンジンはスロットル制御が難しく、原型機以上のじゃじゃ馬と化してしまったためである。この問題に関してはエンジン出力ではなく、プロペラのピッチを制御して推力を可変することで解決された。グリフォン・スピッツ用の二重反転プロペラを改良して、ピッチの制御範囲を広く取ることで対応したのである。
ダート・スピッツへの改修は、1946年末から開始された。手始めにグリフォン・スピッツが優先的に改修され、後に従来型のスピッツも改修さた。大出力に対応するべく機体の補強と内部機器の刷新も行われ、もはや完全な別物と化した。そのため名称の変更が行われ、『スパイトフル』の名で制式採用されたのである。
スパイトフルはダートの出力増強に合わせるように強化された。最終生産型に至っては、3245馬力(RDa.10/1相当)を発揮して水平飛行で900km/hの壁を突破している。原型が高速重視の戦闘機でありながら、大出力エンジンの恩恵で主翼下に2トンの武装を搭載可能であったために、本来の爆撃機狩りだけでなく、上陸してきたドイツの機甲師団に対応するために主翼下にパイロンを増設してRP-3ロケット弾を装備した。後に空対空ミサイルを装備可能となり、限定的ながらもジェット戦闘機に対する戦闘能力を持つことになる。
ミーティアと英国本土の防空を担ったスパイトフルであるが、ミーティアと同様に1950年代に南アフリカに払い下げられている。後のアフリカの紛争で対地攻撃機として目覚しい活躍をすることになるのであるが、それはまた別の話である。
893 :フォレストン:2015/12/24(木) 20:39:51
英国空軍がバトル・オブ・ブリテンで得た教訓として、搭載機銃による撃墜の難しさがある。一回の空中戦において射撃チャンスはせいぜい5、6回、一回の射撃時間は2~3秒程度という事をオペレーション
リサーチによって導き出した空軍では、それを効率良く実現するための武装を1930年代から整備して
いったのであるが、その結果が7.7mm主翼多連装機銃であった。
バトル・オブ・ブリテン時には、ハリケーンもスピットファイアも8~12挺の多連装を装備したのであるが、こうなると機首同調なんてことはやってられず、全機銃を主翼に搭載していた。弾道が収束するように各銃ごとに微妙に角度を付けていたのであるが、極端な一点集中ではなく、各銃ごとに交差点をずらし、目標の前後左右を弾幕で包む込むよう調整することを当時のパイロット達は好んだようである。全銃の弾道特性が揃った英軍機は目標の見越し方向に弾幕を張る偏差射撃に向いていたため、とにかく敵機に当てることだけは達成することが出来たのである。
もちろん当てるだけでは意味は無い。敵機を撃墜なり損傷を与えるなりしないと意味が無いのであるが、当時ですら7.7mmは戦闘機相手に火力不足は否めなかったのである。しかし、英国には秘密兵器が存在した。第一次大戦の飛行船狩りで活躍した特殊弾頭を発展させたものが7.7mm機銃用に開発されていたのである。正式名称は『Incendiry.303in B.Mark IVz*』、一般にはデ・ヴィルデ(De Wilde)の秘匿名称で知られている焼夷弾丸である。なお、デ・ヴィルデはスイス人の発明家であるが、実際に開発したのは英国人のオウブリー・ディクソン(C.Aubrey Dixon)である。弾丸の正体を隠すために敢えてこの名をつけたらしい。
英軍のスピットやハリケーンの7.7mm弾帯には通常弾に徹甲弾、デ・ヴィルデが混ぜて装填されていた。徹甲弾で装甲とガソリンタンクを撃ちぬき、デ・ヴィルデで発火させて止めを刺す。これが一銃あたり秒間20発、8連装だと秒間160発降り注ぐ。まさに弾丸のシャワーであるが、ルフトバッフェが機体に装甲板と防漏タンクを採用すると威力が激減してしまった。命中弾を多数出しながらもドイツ軍機を撃墜出来なかったのである。極端な例だと、数百発命中させても撃墜出来なかった爆撃機が存在するくらいである。無論、この爆撃機は宣伝相のゲッベルスによって大いに宣伝され、チャーチル死後の英国の抗戦意欲を大いに削いだことは言うまでも無いことである。
レシプロ機よりも更に高速なジェット戦闘機が相手となると、射撃回数と射撃時間そのものもさらに短くなるのは必至であった。そのため、英国空軍では方針転換を余儀なくされたのである。要は小口径多銃主義から大口径主義への転換である。
894 :フォレストン:2015/12/24(木) 20:45:00
戦前の英国空軍で使用されていた航空機用機銃は、7.7mmのブローニング.303を除けば20mmのイスパノMk.2しか無かった。単純に大口径ということであれば他にも存在するのであるが、用途が特殊過ぎて航空機用に適さなかったのである。
20mm機関砲は、一発の威力は7.7mm機銃に比べると桁外れであり、弾頭内に炸薬を仕込むことで威力を増大させることが出来るなどメリットが多い反面、重量も嵩むデメリットもあった。極端な話、20mm機関砲2挺の重量で7.7mm機銃が10挺積めるのである。1発の威力と時間辺りの投射質量のギリギリの妥協点として見出したのが、20mm機関砲の4挺装備であった。
こうして、バトル・オブ・ブリテン後に生産されたスピットやミーティアの武装に20mm機関砲4挺装備が採用されることになったのであるが、思わぬところから待ったがかけられた。ライセンス元のイスパノ・スイザ社が製造ライセンスの打ち切りを宣告してきたためである。そのため、滅亡した
アメリカがライセンス生産していたAN-M3(米海軍が採用していたモデル)の製造権利を安く(というよりタダ同然で)買い取って生産を続けたのである。当然、イスパノ・スイザ社側は抗議したのであるが、旧アメリカ絡みの利権や技術では、列強はいろいろと悪どいことをしており、最終的にうやむやにされたのである。
なお、アリバイ作りのために、少数ながらも実際に旧北米の工場で生産して配備していたりするのであるが、信頼性に問題がありパイロットや整備兵からの評判は悪かった。グリスを銃弾にたっぷり塗らないと満足に作動しないほど酷いものであったという。英国製と旧米国製でこれほどの差が出たのは、製造元の旧米陸軍では20mm以上の大口径は砲として扱っており、製造時の公差が甘かったのが一因と言われている。
20mm機関砲4挺装備は、スピットとミーティアの標準兵装となったのであるが、実際にテストしてみたところ命中率が悪すぎてテストパイロット達から不満が続出した。低伸する7.7mm機銃弾と違い、20mm砲弾は命中までにかなり落下するので7.7mm機銃の感覚で射撃すると全く命中しないどころか、標的にかすりもしなかったのである。
20mm機関砲は、その重量故に7.7mm機銃に比べて弾丸の携行数も限られていた。それは射撃チャンスが限られてしまうことを意味していた。その数少ないチャンスを有効に活かすためにも照準システムの改良による命中率の改善が図られたのは、ある意味当然のことであった。
従来の戦闘機の照準器は、静止時に銃弾が飛んでいく方向の目安でしかなかった。空中戦では照準器の照準環に合わせて射撃しても敵に届く頃には敵機は照準した位置より先に移動してしまうのである。命中させるためには、射撃してから弾が敵機に届く未来位置を予想して射撃をする、いわゆる偏差射撃をする必要があるのだが、少ない弾数でそれが出来るのはベテランとかエース呼ばれる人種のみであった。
そこで開発されたのが、ジャイロコンピューティングサイトである。ジャイロ式とも言われるこの照準器は、偏差射撃の難点を解決するものであり、敵機との相対速度をジャイロで検出して適切な照準位置を算出する機能があった。これに加えて航空機搭載用の航空機探知レーダー AI Mark.4が実用化されたことにより、適切な距離と方位で射撃出来るようになり、かなりの確率で命中弾を送り込むことが出来るようになったのである。
ジャイロサイトとレーダーにより命中率は格段に向上した。このことに自信をつけた英国空軍は戦後しばらくは20mm機関砲4挺(史実イスパノMk.2と改良型のMk.5)で対応していくことになるのである。
ちなみに、この装備は新米パイロットには好評をもって迎えられたのであるが、ベテラン勢には不評であった。ジャイロサイトが正確な方位を算出するのに数秒かかり、その間に敵機を逃がしてしまう恐れがあったからである。そのため一部の熟練パイロットは、ジャイロサイトの稼動部にガムを挟み込むなどして完全に固定照準として使用していたという。
895 :フォレストン:2015/12/24(木) 20:50:33
対戦闘機用として20mm機関砲が採用されたわけであるが、対爆撃機用の武装は更なる紆余曲折があった。大型機相手では20mm機関砲4挺でも火力不足が危惧されたからである。当然ながら、さらなる大口径砲を搭載しようと目論んだのであるが、20mm以上の大口径となると、40mmのヴィッカースS型(Vickers Class S)か、モリンズM型57mm自動砲(Molins Class M)しか選択肢が存在しなかった。一応、日本の富嶽対策に作られた空対空114mm無反動砲というキワモノが存在したのであるが、さすがにこれを戦闘機に搭載するのは無理があった。モリンズM型も大きすぎて搭載は厳しいので、実質的にヴィッカースS型しか選択肢は存在しなかったのである。
ヴィッカースS型であるが、元々は空対空用に開発された40mm機関砲である。しかし、本来の目的では使い物にならず、ハリケーンに装備して対地攻撃用途に使用されていた。使い物にならなかった原因は発射速度の遅さである。いくら鈍重な爆撃機相手とはいっても、ロングリコイル作動で毎分100発は遅すぎた。それゆえに発射速度の向上が課題となったのである。
ロングリコイル作動は、燃焼ガスをゆっくり燃やすことが出来るので大口径の砲に適しているのであるが、発射速度が遅くなる欠点があった。加えて、ドラム弾倉で15発しか撃てない点も問題であった。発射速度の向上と装弾数を増加させる必要があったのである。
ヴィッカースS型の改良を担当したのは、エンフィールド造兵廠(現:ロイヤル・スモール・アームズ・ファクトリー・エンフィールド)であった。最初に取り組まれたのは、発射速度の向上であった。技術者達は、ガス圧、API発火、ショートリコイル等、あらゆる作動方式を試した結果、最終的にモーター駆動に行き着いた。いわゆる史実のチェーンガンである。
ボルトを電動モーターで動かすことにより、不発射弾やジャムによる連続発砲不能状態を回避することが可能であり、不発射弾はそのまま他の正常に発射された弾丸の空薬莢と同様に強制的に排出されるようになっていた。連続射撃不能になる原因の一つが取り除かれ、連射が中断する危険が大幅に低下し、電動のため、発射間隔を一定の範囲内で調節することも出来るという副次的なメリットもあった。
装弾数の増加については、これはもうベルト給弾化しか手段は考えられなかった。しかし、ヴィッカースS型の使用する40x158R弾の砲弾重量は1.8kgもあり、ベルトリンクの強度が問題となった。これに関しては、海軍で採用されていたQF 2ポンド砲(史実のポムポム砲)に使用されていたベルトリンクが流用された。同一弾なので、そっくりそのまま使用可能だったのである。
チェーンガン仕様のヴィッカースS型は、性能向上が認められたものの、対爆撃機用としては結局採用されずに終った。最大の原因は発射速度の向上に限界があったからである。チェーンガンは、あくまでもボルト駆動を電動化しただけであり、構造そのものはベースとなった機関砲と同一である。そのため、発射速度の限界も似通ったものとなってしまうのである。後にイスパノ…ではなく、AN-M3をベースに開発した20mmチェーンガンが実用化され、こちらは陸軍のジェットダインやロートダインの兵装として採用されている。
チェーンガン仕様のヴィッカースS型は、空軍よりも海軍に注目された。海軍で対空兵装として未だに大量に配備されているポムポム砲は、給弾機構や機関部の設計に無理があり、機械的なトラブルが多発したのであるが、チェーンガン化することによって性能改善が可能と考えたのである。後に改修キットが開発されて大半のポムポム砲がチェーンガン化することになるのであるが、それはまた別の話である。
896 :フォレストン:2015/12/24(木) 20:55:39
振り出しに戻ってしまった対大型機用の武装であるが、意外なところから開発のきっかけはやってきた。当時の英国は、ソ連に対する軍事援助として極秘裏に遠心式ジェットエンジンと、そのエンジンを搭載した戦闘機のデータを提供していたのであるが、その見返りとして重戦車関連の技術や、航空機搭載用の新型機関砲の概念設計を得ていたのである。
時は遡って1930年代。当時のドイツはウラル爆撃機計画を進めていた。それを察知したソ連は迎撃機の開発を行っていたのであるが、その一環として新型機関砲の開発があった。この新型機関砲は、第一次大戦末期の1918年にドイツで試作された7.92mm ガスト機関銃を原型としていた。
ガスト機関銃は、ドイツ人の発明者カール・ガスト(Carl Gast)にちなんだ命名であり、2挺の機関部がシーソーのように交互に動くメカニズムで高速発射を実現していた。どういうわけか、本家ドイツでは省みられることはなかったのであるが、当時のソ連は極秘裏に入手して研究を続けていたのである。
エンフィールド造兵廠は、ソ連から提供されたデータを元にした新型機関砲を1946年に30mm ADEN機関砲として実用化するのであるが、その際に30mm砲弾も新規開発されている。当初はヴィッカースS型を流用して40mmガスト機関砲を開発していたのであるが、ガスト機関砲は複砲身機関砲という特性上、2挺分の重量が必要となり、重量が嵩んでしまうために航空機搭載用としては不採用となった。それでも口径と発射速度に比して非常に軽量であるため、後に対地攻撃や艦載用の対空兵装として採用されることになる。
新規開発された30mm砲弾は30×165mm弾であり、弾頭重量は390g(砲弾重量832g)、初速は880~905m/sであった。この砲弾をADEN機関砲は毎分3000発で撃ちだす性能があった。
ADEN機関砲は、対爆撃機用途であるためにスパイトフルに優先して搭載された。搭載するにあたっては、主翼装備の機関砲を全て撤去したうえで、ADEN機関砲本体と砲弾200発(ベルト給弾)を専用のスリッパ型タンクに収めて主翼上に2基装着した。重量と空力悪化による機動性の低下が心配されたが、タンク1基辺りの重量は400kg足らずであり、2基装備しても出力に余裕のあるスパイトフルには問題無かったようである。なお、主翼下ではなく主翼上に装着したのは、給弾作業のしやすさを考慮したことと、主翼下は対地攻撃用ロケット弾を装着するためのハードポイントが多数設置されているためにスペースが取れなかったためである。
実際の運用であるが、1秒間のバースト射撃でも4射分の弾薬しか保持出来ない点が問題視された。しかし、前述のジャイロサイトや射撃用レーダーの採用による命中率の向上、さらに圧倒的な瞬間火力を発揮出来る点が評価された。元々、対爆撃機用途であり、継戦能力よりも爆撃機を確実に撃墜することが求められていたことも大きかった。
当初は対爆撃機用として開発されたADEN機関砲であるが、さらなる高速化によって撃墜が困難になると予想されるジェット戦闘機を確実に撃墜出来る兵装としてミーティア以後の新型戦闘機に採用されることになる。
ADEN機関砲の採用後は、さらなる大威力を求めてロケット兵器の開発が推進されることになる。こちらはDMWD(Department of Miscellaneous Weapons Development:多種兵器研究開発部)が担当しており、その成果の一つとして空対空ロケット弾『ヘミエキヌス』(ラテン語でオオハリネズミ)の運用が1947年に海軍で始まっている。しかし、空軍はその性能に満足出来ず、さらなる高性能化を求めた。その要求性能は厳しく、一部なりとも性能を満たしたものが完成するのは1950年代に入ってからのこととなる。
897 :フォレストン:2015/12/24(木) 21:02:21
Me262と、その後に続くドイツの新型戦闘機に対抗するための時期主力戦闘機開発は、デ・ハビランド・エアクラフト社に一社特命の形で任された。これは極秘裏にソ連へ提供した戦闘機のデータに対する補償の意味合いがあったが、それには条件が付けられていた。ソ連へデータ提供した戦闘機(史実ヴァンパイア)と全く違った外見にすることであった。
英国がソ連に技術援助していることが発覚したら外交問題に発展するのは確実なので、当然といえば当然の注文付けであったが、デ・ハビランド側の技術者達は頭を抱えてしまった。彼らは史実ヴァンパイアの発展型(史実シー・ビクセン相当)を空軍に提案するつもりだったのである。搭載エンジンからして別物であるが、双ブーム形状の胴体の特徴は一致しており、両機を関連付けるのは容易だったのである。
さらに悪いことに予定していた搭載エンジンが未だ完成していなかった。エンジン開発そのものはドイツからの技術奪取が成功したこともあり、順調だったのであるが、それでも実用化は1950年ごろになると見積もられていたのである。機体設計は白紙。エンジンは未完成。この緊急事態に社長のジェフリー・デハビランド(Geoffrey de Havilland)は、思い切った手段をとった。社内コンペを開催して採用者には10000ポンドの賞金を与えることにしたのである。
多額の懸賞金に刺激されたたのか、1週間という短い募集期間にも関わらず多数の設計案が提出されたのであるが、その中で一際、いや、飛びぬけて完成度の高い設計案が存在した。アルチョーム・イヴァーノヴィチ・ミコヤーン(Артём Иванович Микоян)とミハイール・ヨーシフォヴィチ・グレーヴィチ(Михаил Иосифович Гуревич)の二人が共同で提出した設計案である。
ミコヤーンとグレーヴィチは、ソ連のMIG設計局の創始者であるが、現在ソ連で実戦化が急がれている遠心式ジェット戦闘機の技術ノウハウ習得のために北欧経由で極秘裏に渡英していた。技術習得も終って手持ち無沙汰だった二人は、滞在先のホテルで退屈しのぎに戦闘機の設計案を練っていたのである。
彼らが提出した設計案は、軽量コンパクトな機体にハイパワーなエンジンを搭載して機動力を確保するという極めて単純明快なコンセプトに拠って設計されていた。社長のジェフリー自身が航空エンジニアであったためか、その機体の素性の良さを一目で見抜いたのである。
「まぁ、二人ともかけたまえ」
「「…」」
「おめでとう。君らの設計案を採用することになったよ」
「…!?しかし私達は…」
「ミコヤーン君、グレーヴィチ君。君たちは形式上は我が社の社員なのだ。しかも正規の手順で社内コンペに参加している。採用することに何も問題は無い…が」
「…あの図面を本国へ持ち帰ることも出来たはずだ。にも関わらず、社内コンペに提出したのは考えがあってのことではないのかね?」
「「…」」
「…社長」
「…なにかね?グレーヴィチ君」
「私達は賞金が欲しいわけではありません。そのかわり…」
社内コンペの結果判定の翌日。デ・ハビランド・エアクラフトの社長室で、ジェフリー・デハビランドとミコヤーン、グレーヴィチの3人で話し合いが持たれたが、議事録は破棄されておりその会話内容は定かではない。ただ、当日のジェフリーの動向で空白の3時間が存在することだけは事実である。そして彼らの願いは後に叶えられることになる。
二人が提出した設計案は、概念設計としては完成されていたが、細かな検算や計算は手付かずであった。幸いにして完成したばかりのパラメトロン・コンピュータの使用が許可されたため、極めて短期間に設計は完了。その後は昼夜兼行の突貫作業で機体の製作が進められた。
試作1号機は1946年にロールアウトした。この機体の製作中に技術奪取に成功したドイツのMe262の後退翼の情報が知らされたのであるが、既に1号機は完成目前であり試作2号機に反映させることになった。3ヵ月後に飛行した後退翼を採用した2号機は、さらに性能が向上しており、この結果に驚喜した空軍上層部はただちに量産命令を出した。航空機探知用レーダーと機首下面にADEN 30mm機関砲2門を搭載した戦闘機型がロールアウトしたのは1947年になってからのことであった。
898 :フォレストン:2015/12/24(木) 21:11:05
あとがき
というわけで、空軍事情その2です。
インド洋演習、イラン演習後の英国空軍の状況を書いてみました。
要点を端的に語るとヴァンパイアが、史実Mig15に化けました。以上!
…と、さすがにこれだけではあんまりなので補足です。
冒頭のインド洋演習、イラン演習に関する描写ですが、本編を読み直してもインド洋演習では疾風が全力を出しているように思えなかったので、ああいう書き方になりました。疾風にはアフターバーナーが確実に装備されていると思いますが、インド洋演習では使用した形跡が見られませんし。イラン演習ではリアルチート軍人相手に万が一が起こるのを憂慮して、遠慮なく全力で潰しにいったのではないかなと思うのです。現実でもロック岩崎氏のようにマルヨンでF-15を撃墜してしまう例がありますし。
初期ミーティアではMe262に勝てないのは織り込み済みだったので、さっさと改造イベントを起こしました。史実F.8クラスにまで発展させればMe262と渡り合えると思いますし。スピットにダートを搭載したのは半ば以上趣味ですが、ちゃんと意味があります。史実のスピットとハリケーンの関係をそのままミーティアとスピットに当てはめたのです。ミーティアがMe262を相手にしている間に、スピットが爆撃機を落としにいくわけです。そのためには高性能化が必須なのです。なにしろ相手はジェット爆撃機の可能性大ですし。グリフォンじゃ限界だし、ハイオクは希少だからターボプロップ化。ほら、どこもおかしくないでしょう?(オイ
スピットにダートを搭載する際にグリフォンとダートの大きさを比較してスペックを計算したのですが、割とすんなり収まりました。全長が長くなっても軽くなったので、さほど重量バランスは悪化しないと思います。もちろん補機類の移設や、燃料タンクの配置などを弄らないといけなくなるとは思いますが。スパイトフルのスペックは、かなり大まかかつ適当に計算していますが、レシプロで3000馬力弱のスカイレイダーが3t積めるなら、スパイトフルでも2tくらいならなんとかなるでしょう。足回りの強化は必須でしょうけど。
英国空軍の7.7mm至上主義から戦後の大口径志向は、ほぼ史実通りです。憂鬱バトル・オブ・ブリテンでは、史実以上に追い込まれて死に物狂いになったルフトバッフェに押し切られたとの描写が本編でありましたが、7.7mmの豆鉄砲じゃ防弾装備で対策されたらどうしようもないわけで。防漏タンクは史実では大戦当初から自動防漏タンクを実用化しているので、憂鬱世界では完全に対策されていると思います。ますます7.7mmじゃ撃墜出来ませんね(泣
英国の航空機銃は7.7mm以外で大口径となるとイスパノ系しか存在しません。イスパノのライセンス元は、スペインのイスパノ・スイザ社です。もろに枢軸側なわけで、ライセンス料を支払い続けるくらいなら、旧アメリカのAN-M3(アメリカ版イスパノ20mm)のライセンスを購入(したことに)して製造を続けたほうが良いという判断です。元々踏み倒すつもりだったので、イスパノスイザ側のライセンス取り消しは渡りに船だったのです。
ヴィッカースS型のチェーンガン化ですが、本来はこいつを爆撃機用に採用するつもりでした。が、発射速度を思ったより上げられないことに気付いて断念しました。ヴィッカースS型とポムポム砲は同一弾(40×158R)なので、ポムポム砲をチェーンガン化すれば安定した性能が出せると思います。ここらへんは海軍事情3で書いてみようと思います。
航空機搭載機銃ですが、日本はバルカン砲、ドイツはリボルバーカノンが主力となりそうなので、英国はガスト式となりました。史実でソ連が実用化しているので、憂鬱世界では導入しやすいですし。ちなみにADEN 30mm機関砲は実在しますが、史実ではリボルバーカノンです。憂鬱世界では上記の理由でガスト式になっています。
憂鬱ADEN30mmは、史実GSh-30-2のスペックそのままです。ただし、オリジナルはあまりにも余裕の無い設計なので、信頼性を確保するために強度を増した結果重くなっています。登場時期が史実よりも早いですが、原理的には難しくないのでなんとかなるでしょう。で、こんな化け物を2基もスパイトフルは搭載しているわけですが、主翼下部は史実スカイレイダー並みにハードポイントが増設されているので、設置スペースが無く、已む無く主翼上部に搭載することになりました。極めて合理的な判断です。断じて英国面ではありません。( ー`дー´)キリッ
899 :フォレストン:2015/12/24(木) 21:12:22
史実ヴァンパイアがソ連へドナドナされてしまったので、別の機体を用意しないといけなくなったのですが、ソ連との関係を考えると選択肢は一つしかありませんでした。Mig15は遠心ジェット搭載のジェット戦闘機としては最高レベルの性能なので戦力化出来ると大助かりです。エンジンはあるし、設計環境も整ってるので、1947年から配備を開始することは可能でしょう。もっとも、そのころには疾風改が配備されているでしょうけど…(号泣
ミコヤーンとグレーヴィチの望みですが、英国紳士は強要なんてしていません。そっと肩を押すくらいに環境を整えたりはしましたが(酷
ソ連へ流れた史実ヴァンパイアですが、憂鬱ソヴィエト空軍事情で書くつもりです。とりあえずリヒート搭載は鉄板ですかねぇ。ノズルを煙突のように後ろに伸ばしたヴァンパイア…素敵だ…(オイ
というわけで、今回はここまで。
次回は英国陸軍事情か、はたまた大使館事情の全面改訂か。他にもネタはありますし、いったいどれから手をつけたら良いものやら…(悩
900 :フォレストン:2015/12/24(木) 21:22:29
以下、登場させた兵器のスペックです。
グロスター ミーティア F.3(最終生産型 史実F.8相当)
乗員数:1名
全長:13.59m
全幅:11.32m
全高:3.96m
自重:4846kg(最大7121kg)
発動機:ロールスロイス ダーウェントMk.8 推力1600kg×2基
最高速度:965km/h
上昇限度:13000m
航続距離:965km
武装:AN-M3 20mm機関砲×4、454kg爆弾または無誘導ロケット弾×16
1945年の英日合同演習における『疾風ショック』、さらに同年のイランで行われた日独の模擬戦の結果に衝撃を受けた英国空軍が急遽実戦配備した機体。
搭載されたエンジンは名前こそダーウェントであるが、実際はニーン(Rolls-Royce Nene)の縮小版であり、その信頼性は高かった。同時期にドイツが軸流式ジェットエンジンの信頼性醸成に苦労しているのとは対照的であった。
総推力だけなら日本海軍の疾風(インド洋演習時)に匹敵する機体なのであるが、初期の機体はバランスが悪く、機種にバラストを積んでいる。後期ロットの機体は設計変更により、この問題は解決されており、対策前と対策後は、それぞれ前期型、後期型と呼称されている。
英国空軍はF.3の量産配備でMe262に対抗する一方で、軸流式ジェットエンジンとそれを搭載した新型戦闘機の開発を急ぐことになる。英国本土では、戦闘機としての任を解かれてからも、技量維持訓練機や連絡機として1970年代まで使用された。エンジン試験機などの特殊用途に改造された機体も存在しており、そちらは未だに現役で空を飛んでおり、アフリカでは未だに戦闘機型が現役である。
なお、海軍では次期主力艦戦としてF.3に着艦装備を追加し、マルチロール機として魚雷とロケット弾を運用可能にした『シー・ミーティア F.3』を開発していたのであるが、インド洋演習における醜態を嫌ったためか、新たに独自のジェット艦載機を開発している。
新型スピットファイア(スピットファイア Mk.4)
乗員数:1名
全長:9.96m
全幅:11.23m
全高:3.86m
自重:3070kg(最大4663kg)
発動機:ロールスロイス グリフォン85 2375馬力×1基
最高速度:740km/h
上昇限度:13560m
航続距離:1268km
武装:AN-M3 20mm機関砲×4、227kg爆弾×1および113kg爆弾×2
史実のスピットMk.24に相当する戦闘機。
グリフォンエンジンを装備してレシプロ戦闘機としては極限といっても良い性能を誇り、ドイツとの停戦後に英国空軍が最優先で生産した機体であるが、複雑精緻なエンジンと二重反転プロペラは整備兵にとっては悪夢のような組み合わせであり、加えて希少なハイオクガソリンが必須のために満足な作戦行動が出来ないという実質的な戦力外であった。そのため真っ先にスパイトフルへ改修された。
スーパーマリン スパイトフル(最終生産型)
乗員数:1名
全長:9.96m
全幅:11.23m
全高:3.86m
自重:2750kg(最大5663kg)
発動機:ロールスロイス ダート 3245馬力(史実RDa.10/1相当)
最高速度:920km/h
上昇限度:14560m
航続距離:1374km
武装:ADEN 30mm機関砲×2(主翼上装備)、RP-3ロケット弾、227kg or 454kg爆弾(主翼下ハードポイント×8:最大2tまで)
スピットファイアにターボプロップエンジンを搭載したモデル。エンジンの軽量化&大出力化に伴い、機体バランスの変更や、機内装備の刷新(+脚部の強化)も行った結果、完全な別物となり制式名称も変更された。新規生産ではなく、あくまでも機体改修であるため、同じスパイトフルでもベースとなった機体ごとに差異が存在するマニア泣かせの機体でもある。
プロペラ戦闘機としては極限の性能を誇る本機であるが、その活躍の場はアフリカの地であった。外見上の特徴である、主翼上のスリッパ型タンクに内蔵された30mm機関砲は毎分3000発という脅威の発射速度を誇り、その威力は本来の対大型機だけでなく、戦闘機相手や対地攻撃にも遺憾なく威力を発揮した。主翼下に設置された左右計8箇所のハードポイントにも2tまで爆弾搭載が可能であり、これも対地攻撃に威力を発揮した。あまりの活躍ぶりにソードフィッシュ共々、英国本国では再生産も真剣に検討されたという。
901 :フォレストン:2015/12/24(木) 21:26:40
デ・ハビランド ヴァンパイア(試作1号機)
乗員数:1名
全長:10.11m
全幅:11.23m
全高:3.70m
自重:不明
発動機:デ・ハビランド ゴースト48 推力2200kg
最高速度:960km/h
上昇限度:15500m
航続距離:不明
武装:非武装
初飛行:1946年
極秘裏に渡英していたアルチョーム・イヴァーノヴィチ・ミコヤーンとミハイール・ヨーシフォヴィチ・グレーヴィチが基本設計を行った機体。胴体周りは史実Mig15であるが、主翼は設計期間短縮のために既存の層流翼を流用している。設計の途中で技術奪取に成功したドイツのMe262の後退翼の情報が
知らされたのであるが、既に完成目前であったため、2号機に後退翼は採用されている。
機体の設計から初飛行までを半年という驚異的な短期間で実現しているが、これはミコヤーンとグレヴィッチの基本設計が優秀だったことに加え、機体とエンジンが全て自社で賄えたこと、さらに計算に完成したばかりのパラメトロン・コンピュータを使用出来たために、大幅な設計速度の向上があったことが大きい。コンピュータを使用した機体設計は、当時の英国としては画期的な手法であったが、極東のチート島国では10年以上前から実践されており、それを後に知った英国関係者の落胆は酷いものであったという。
デ・ハビランド ヴァンパイア(試作2号機)
乗員数:1名
全長:10.11m
全幅:10.08m
全高:3.70m
自重:不明
発動機:デ・ハビランド ゴースト105 推力2450kg
最高速度:1070km/h
上昇限度:15500m
航続距離:不明
武装:非武装
初飛行:1946年
主翼に後退翼を採用した機体。機体外見は完全に史実Mig15である。エンジン出力も向上しており、性能的には史実Mig15bisに匹敵するものとなっている。この性能に驚喜した空軍は直ちに採用して戦闘機型が1947年から配備されることになる。
デ・ハビランド ヴァンパイア
乗員数:1名
全長:10.11m
全幅:10.08m
全高:3.70m
自重:不明
発動機:デ・ハビランド ゴースト105 推力2450kg
最高速度:1070km/h
上昇限度:15500m
航続距離:1250km
武装:ADEN 30mm機関砲×2(機首下面:600発)
初飛行:1947年
試作2号機に武装を搭載したモデル。史実Mig15とは違い、最初から航空機用レーダーが装備されている。完全な戦闘機型であり、対地攻撃は考慮されていない。後の改良型では空対空ミサイル運用能力が付与されている。
ADEN 30mm機関砲
重量:145kg
全長:2340mm
口径:30×165mm
装弾数 200発(給弾ベルト)
作動方式:ガスト式
発射速度:3000発/分
銃口初速:880~890m/秒
有効射程:4000m
航空機搭載用として開発されたガスト式機関砲。ガスト式は複砲身式機関砲とも呼ばれ、2挺の機関砲がシーソー状のリンクで平行連結され、交互に装填・発射を繰り返す事で高速発射を実現している。そのため、銃身が二本あり連装砲に見えるが2銃身で一門である。
ガスト式は、第1次大戦末期の1918年にドイツのカール・ガスト(Karl Gast)が開発した7.92mm ガスト機銃が原型であるが、実戦には間に合わなかった。ガストの故郷ドイツではこの方式を採用した機銃や機関砲が後に開発されることは無かったのであるが、ソ連では開発が継続されていた。遠心式ジェット戦闘機が喉から手が出るほど欲しかったソ連上層部が英国に開発データを譲渡、それをベースにエンフィールド造兵廠で30mm口径に拡大したモデルであるが、ソ連側の原設計は使い捨て前提で、あまりにも余裕が無い設計であったために英国側で一部設計が変更されている。その威力と発射速度から以後の英国空軍のスタンダードとなった。
最終更新:2015年12月24日 22:17