844 :弥次郎:2016/02/07(日) 16:45:48
それは、ほんの些細な神の戯れというものなのだろう。
丁度世界がようやく中世から脱却しつつある時代であった。
即ちオカルトの部類であった錬金術から化学と科学が生まれ、それまで神の御業と捉えられてきた事象に人の手と知識がメスを入れ、
その仕組みの探求が徐々に始まるころであった。オカルトと科学が入り混じり、華やかさの影にどうしようもない滅びがあり、
平穏の影に醜い感情が熱狂的に湧き立ち始めた、極めて複雑怪奇な時代。それが、17世紀であった。
【ネタ】豪州転移世界 または 瑞州大陸転移世界
特に欧州は、まさしく欧州の情勢は複雑怪奇といった具合であった。
隆盛と同時に没落を迎えつつあるスペイン。
カトリックと英国国教会の対立を超え、アルマダを迎え撃った英国。
スペインからの苛烈な搾取から立ち上がらんとするオランダ。
宗派間の争いが激化し、皇帝さえも翻弄され始めた神聖ローマ帝国。
カトリック教皇という存在を抱えたイタリア。
そのどれもが、自らの領地が存在する欧州にばかり目を向け、欧州から見てはるか南東の、巨大な大陸へと向けることは
叶わなかった。無理もない。彼らに天空から地球を見下ろす目などなく、世の中の半分以上の人は地球を平らだと
信じており、また地の果てには巨大な滝があるとか悪魔たちがいるだとかテーブル上になっていると大真面目に信じていた。
否、考えもしなかったのかもしれない。
とにかく、そこにある大陸のことなど認識すらしなかったのだ。少なくとも、当時の大多数の人間にとっては。
845 :弥次郎:2016/02/07(日) 16:46:33
そして、欧州の目の届かぬ大陸において、西暦1607年。
太平洋と呼ばれる巨大な海の南側に位置するオーストラリア大陸と呼ばれる土地が突如として消えうせた。
代わりにわずかな島々がこれまた突如現れ、それまでオーストラリア大陸があった位置に浮かんだ。
まったく物理学の、少なくとも当時の、そして現代においてもいまだに解明されていない「大陸の大移動」。
プレートテクトニクスいわゆる地動説の浸透を30年は遅らせ、今尚その謎が全く解明されていない超常現象は
人知れず始まり、人知れず終わったのだった。
時を同じくし慶長11年末。
関ヶ原の戦いを終え、ほぼ徳川が天下を握り幕府が動き始めたころ、一隻の船が江戸湾におよそ2カ月ぶりの帰還を果たした。
その船は幕府の御用船 仙鶴丸。
ただの御用船ならば問題はなかったのだが、その船の保有者、そして船員達は只者ではなかった。
徳川家がまだ松平家という一大名に過ぎなかったころから、そして江戸幕府においても政治経済産業農業問わずに豊富な
知識や技術を持つ諮問機関として将軍直属の地位にあった『夢幻衆』であった。
この仙鶴丸は、幕府の命を受けて小笠原諸島の探索とオランダから得ていた長距離航海技術及び大型船舶の運用試験という
様々な意図を以て建造された御用船で、幕府が有する船の中でも最も大きな船に分類された。
また、載せていた船員や測距儀なども当時最新のものであり、行方知れずになったのちに無事帰って来たことに
将軍秀忠や大御所家康が自ら江戸湾へと赴こうとしたほどの僥倖であった。
江戸への帰国後、とるものとりあえず将軍と大御所に江戸城にて謁見した夢幻衆は、伊豆諸島の先に新たな島を発見し、
さらにその向こう側に未知なる大陸を見つけたと報告した。
以下に、当時の記録の一部を平易に訳して記載しよう。これは船員が独自につけていた日記帳の一部である。
これとは別に正式な記録も別に編纂されており、現在は徳川美術館に保管されているのだが、より分かりやすく、
当時の調査員の視点から見たものをここでは採用した。
846 :弥次郎:2016/02/07(日) 16:48:12
慶長10年●月×日
どうやらだいぶ流されてしまったようである。
流された方向はどうやら南から大きく北に流されたようだ。
遠くに見える島は形から言って伊豆諸島だろうと推測される。だが、反対側に、現在の進行方向に見える島は全くをもって
見たことがない島だ。この距離にあるならば、一度伊豆諸島を抜けたあたりで見えていたはずだが、どうにも合点がいかない。
とはいえ、流されて以来疲労がたまっている船員たちには休息が必要である。
幸いなことに食料は流されておらず、積み荷も規格木棺(※1)がいくらか破損した程度であった。とはいえ、貴重な
蜜柑(※2)がいくらか潰れてしまっていて、やむを得ず食べる必要に迫られたのは腹立たしい。
船長の指示で何人かが島に上陸することになった。
結果から言えば、しばらくこの島を調べるとのこと。
確かに、こんなところに島があるというのは聞いたことがなく、新たな日本の土地となるのだろうか。
何もない僻地であるということは、せいぜい流刑地にしかならないと思うが。
慶長10年●月◇日
島には奇妙な生き物がいくらかいた。
聞くところによればアザラシ(※3)とかいう生き物で、肉は食えて、脂も取れるとのこと。
船員の一人が木樽にためた水を存分に使って解体し、多くの肉を得て、翌日からの食事に出た。
お世辞にもうまいとはいいがたいが、飯が食えるだけ儲けものというべきか。
しかしやはり魚のほうが口に合う。醤油もなく塩をかけただけであるが、それでもうまいものだ。
また、油は夜の灯りや暖をとるのに最適だった。
手が器用な物がいて、土をこねて乾燥させて火で焼き、火桶のようなものを作ったのだ。
火をともし続けるにも油は便利である。これで夜も寒くはない。
慶長10年◇月×日
今日の探索の結果、東側の海岸から新たな島が見えた。
とても大きな島だ。まるで、海から本州を見ているかのようだ。
船長たちはまたもや何か議論している。測距儀などを取り出して、どうやら距離を測っているようである。
正直言えば、ここから新たに探索に赴くなど御免被りたかった。
そのことをそれとなく伝えると、やや不満げであるが了承してくれた。
早いところ江戸にもどりたいものである。そろそろ米なども減ってきた。魚やアザラシの肉ばかりではさすがに飽きがくる。
一日一杯だけ飲める茶が何よりの楽しみになってしまった。
さながら、昨今流行していた御伽活劇本の9人島や15童子漂流記などを思わせる(※4)生活が続いている。
慶長10年◇月◇日
漂着からすでに1か月半あまり。
この島の探索を終え、いよいよ我々は江戸へと戻る帰路に就く。
幸い潮の流れと風をうまくつかめば、戻れるのではと船長たちは議論の末に結論を出した。
思わぬことでこの島にたどり着いて早く帰りたいと思っていたのだが、存外、離れるのもまた寂しいものである。
機会があるならば、またここに来たいものだ。
847 :弥次郎:2016/02/07(日) 16:50:33
幕府はこの報告に対し半信半疑であったが、大御所たる徳川家康自身も興味を抱きさらなる調査を指示したことで、
無視できるものではなくなってしまった。隠居しているとはいえ実質的な権力保持者である家康公の言葉である。
トップダウン構造故に幕府はその言葉を無視できなかった。新たな離島と大陸があるとすればそこを調べようとするの
は当然であるし、支配するともなれば管理管轄についても決めねばならなかったこともあって幕府は二度目の調査団を編成した。
仙鶴丸に加えて宝鶴丸といくつかの船をつけて、より精密な地図と海図の作成、さらに土地の調査を命じた。
また、付随する千石船には拠点の設営に必要な幕府お抱えの専門の大工たちも同行しており、前線柄の拠点設営を
任された。さらに山が見えたとの報告を受けて鉱山開発を担当していた大久保長安が招へいされた(※5)ほか、
鉄砲隊や労働者等々、幕府の総力ともいえる大開拓団となっていた。
さらに、幕府はいくつかの藩に対して参加を呼びかけ、これに応じて人員の供出と物資の運搬、さらに十分な食料の備蓄などを
行った。こうして準備が整ったのが仙鶴丸の帰還からわずか5か月後のことであった。
この調査団は、仙鶴丸の船員がきちんと航路を記録していたこともあり、順調にマッコーリー島に到着。
即席に近かったベースキャンプを、連れてきていた大工などの手によって本格的に拡張して十分な設備を整えた。
ついでに近くに転移してきていたハード島をも発見し、新たな幕府直轄地とした後に、いよいよさらに東に見える
未知なる大陸へとその船の舳先を向けた。この探検において、史実においてハード島と呼ばれた島は旅路の始まりとなる
ことから元大島、マッコーリー島は航海の中間にあることから中間島と名付けられ、現地に新たな奉行が臨時で任命されて、
幕府直轄となった。
これが後の歴史において、慶長東方探索団と呼ばれる探索隊の、最初の派遣であった。
※1
幕府が度量衡を定めた際に
夢幻会の勧めで制定した統一規格の木造の箱。
地方や藩によって異なっていた規格を幕府の名のもとに統一した。
※2
言うまでもないことだがビタミンなどの補給のためである。
乾燥蜜柑という長期に保存がきくものと、そのまま持ち込まれたものがあった。
そこまで長期とならない予定であったが、船員に慣れさせるという意味で持ち込まれた。
※3
転移に巻き込まれたものと推測される。
簡単に仕留められたのは気候の変動で弱ったためと考えられている。
※4
言うまでもなく夢幻会のメンバーが御伽草紙や卓上演戯(TRPG)などの形で早くから普及させていたものである
※5
中の人間が転生者であり、倹約家であったためか徳川家康とそりが合い、経済政策などを担当し、史実同様に鉱山開発や
度量衡の設定などに関わっていた。そのためなのか、特に閑職に追いやられることも、大久保長安事件など起こさずに大往生した。
848 :弥次郎:2016/02/07(日) 16:51:05
以上となります。wikiへの転載はご自由に
基本骨子は
- 江戸時代、少なくとも松平元信の配下に既に夢幻会が設立していた
- 転移発生は1607年末
- イギリスは入植しておらず、オランダもオーストラリアを開拓不可能とあきらめた
- 豊臣政権下から西洋式の船舶建造技術を集めていた
- 鎖国体制とは言わないが海外情勢について幕府は情報収集に史実以上に努めていた
- 史実での事件がいくつか回避された
となっております。
ざっくりしたネタではありますが、たたき台としてはこの程度でいいのではないかと。
続きはまたゆっくり上げていこうと思います。
最終更新:2016年02月15日 19:44