64 :弥次郎:2016/02/09(火) 21:30:11

歴史とは、絶え間なく流れる河のようなもの。
それ故に、日本人はそれを大河と呼んだ。
ヒト・モノ・戦い・悲劇・喜劇・復讐劇・芸術・宗教・喜び・悲しみ・怒り・憎しみ・慈しみ・争い……
そのすべてが等しく飲み込まれていくのが、そしてすべてが等しく遷ろうのが、歴史である。
だが……たまに、そこに流れを変えるほどの石が投げ込まれたら、どうなるだろうか?
例えばそれが、本来は南方に存在するはずの巨大なオーストラリア大陸と随伴する島々だったとしても、歴史という大河は、
決して揺らがないのだろうか?




【ネタ】瑞州大陸転移世界 2




さて、未知の大陸への探索が始まったのが1608年。
ここからは少々俯瞰的な視点から、速度を上げて見ていこう。

1回目の慶長東方探索団、後の第一次慶長瑞州探索団は、初島湾(史実シャーク湾)に無事に到達。
しかし湾内部の深度が浅いことから大型船の仙鶴丸は初島湾近くの河口付近にて投錨。上陸を開始した。
ここで真水の確保が容易な川(史実ガスコイン川)の近くにベースキャンプの設営が行われた。
転移の影響であるためなのか、比較的雨が多く、植物もちらほらとみられたために探索隊は暫くの駐留を決定し、
周辺地図の作製と気象観測を行った。調査団は同時に島(この時点ではまだ島と思われていた)の領有を宣言。
建物を持ってきた資材で急遽組み立て(※1)、臨時の奉行所とした。

2回目となる第二次慶長東方探索団は1910年に派遣された。
正確に言えば、断続的な渡航や人員の往復は行われていたのだが、記録ではこの年に仙鶴丸と仙鶴丸の同型艦である宝鶴丸が
揃って派遣されたため、特別にカウントされている。この二隻が任された任務は南方及び北方へのさらなる進出である。
先払いとして偵察に出ていた船が発見した南北二つの岬への、史実で言えばノースウェスト岬とルーイン岬、ここへの到達であった。
南方へと向かった仙鶴丸は史実におけるバンベリー、今回の探索において南千里浜と名付けられた土地へ到着して投錨。
上陸を果たして、二つ目のベースキャンプを設営した。他方、北方へと向かった宝鶴丸であったが、良港を発見することは
叶わなかったが、目的地の北大岬(史実におけるノースウェスト岬)周辺に到達。測量・海図の作成・気象観測などを行い、
さらに東に向かって大地が広がっていることを確認して、そのまま帰投した。

65 :弥次郎:2016/02/09(火) 21:31:08

また、元大島や初島湾にて捕獲されたアザラシなどについては、夢幻会の提案の元飼いならす試みが始まっていた。
種によっては社会性のある行動をとり、食料としてだけでなく油や皮をとるにも最適であることから、同地域における
特産物として極めて重要であると判断していた。
何しろ、北海道よりも一大消費地である江戸に近いのがこの大陸である。漁業の拠点としても使えるであろうし、
太平洋でのクジラの捕獲にも一役買うことは間違いないと思われた。

並行する形で、日本列島本土からいくらかの植物の持ち込みが行われた。何しろ、一面の荒野である。
今後の入植にあたっても、植物が少なすぎるのも考え物であった。持ち込まれたのは先駆植物であったり、乾燥にも耐えうる
イネ科・マメ科などに加えて食物植物も持ち込まれて、生育できるかの実験も始まった。
結果から言えば、あまり大地の栄養は多いとはいえず、河川沿いならともかくそれ以外にはあまり耕作には適していないと
判断され、暫くは放牧や牧畜を行って大地に栄養を与えていき、その上で耕作を行うことが今後の方針となった。
奇妙だったのが、大地の様相と気候の差であった。まるで乾燥地域に見えながらも、雨はしっかりと降り、おまけに気温も
過酷とは言えない範囲で推移していた。さらに、当たりにはえている植物も多くが乾燥に強い種であると判明したのだが、
どうにも水の与え過ぎによって弱っている様にさえ見えた。

ここまでの調査で、夢幻会メンバーがこの大陸が史実におけるオーストラリア大陸であり、何らかの理由で転移してきたではと
推測した。ここに眠る資源の戦略的な価値を鑑みて、夢幻会はこの大陸を領有し、帝に献上してはどうかと提案する。
ここには、戦国の習いがまだ抜けきっているとは言えない大名たちに隙を作らないためと、朝廷に対して交渉材料として
この大陸を生かし、豊臣家に敗北を認めさせるという戦略があった。斯くして家康はこの大陸への進出と開拓を行うことを決意した。
また家康は、現在到達している範囲に何らかの資源がないかの散策を命じた。
そして、湧水がないかと試しに掘り進められていく中で、それが見つかる。史実カーナーボン周辺において湧きだした液体。
独特の臭いと色を持ち、火をつけると燃え上がる液体。
即ち、原油である。

66 :弥次郎:2016/02/09(火) 21:33:24

翌年1611年。豊臣秀頼との会談を二条城にて行った徳川家康は、その足で朝廷に赴き、東にある新たな大陸を
『徳川と豊臣の和解の印』として献上。徳川家が主導で大陸を開拓していくことの勅命を得る。同時にアザラシの皮や
油を皇族などに献上した。この労に報いる形で、朝廷は新たな大陸を『日ノ本に新たな瑞兆をもたらす州(島)』ということから
瑞州(ずいしゅうorすいしゅう)と名を与えた。この名称は後にも使われており、瑞州大陸として呼ばれることになった。
英語訳では直訳からLiquid Land、あるいは鯨やアザラシなどから油がとれるほか原油も取れることからLipid Landと
呼ばれるようになっている。

また幕府は『武家御船取締諸法度』を制定・発布。大名に対して大型船舶の保有を認める一方で、その排水量や
積載量、数、武装、使用する航路などに関して制限を設け、必要に応じて幕府への届け出を行うように命じた。
ここには、大陸へ進出できない西国大名へ暗黙裡に南蛮との貿易をある程度認めてガス抜きとする意図があったとされる。
また、領地にて得られる収入に加えて、消費地である江戸や大阪などに特産物などを販売する販路を確保させる都合も
あったとされている。領地の大きさと海運への依存度、さらに収入などから判断されるこれは、健全な諸藩の歳入を支える
制度となったと現存する資料に残されている。

斯くして、朝廷のお墨付きと御題目を得たことで豊臣を抑え込んだかに思われたが、秀頼の母淀君はこれを不服として
態度を硬化させた。淀君からすれば、新たに見つかった土地はあくまで豊臣家の所有であり、秀吉の発した惣無事令などは
いまだに有効であるのが当然であった。つまり、大人しく新たな大陸を明け渡せと命じているようなものであった。
勿論、家康にしても夢幻会にしてもそんなことは織り込み済みであり、だからこそ敢えて朝廷に献上し『和解の証』とまで
銘打ったのである。即ち淀君が大人しくせずに余計なことをすれば、即座に豊臣征伐の理由が出来上がるのであった。
少なくとも秀頼自身は気が付いていた節がある。だが、母と子の発言力の差は言うまでもない。
史実通り、家康は寺の鐘に刻まれていた『君臣豊楽・国家安康』の文言にいちゃもんを付けて開戦のきっかけとした。

しかし、この開戦は史実とは異なる時期に発生した。
史実において1614年11月に発生した大坂冬の陣であるが、結局のところ発生しなかった。
発生したのは1615年の5月に開始された、史実で言えば大阪夏の陣である。何故遅れたのか?それは夢幻会の準備が整って
いなかったのが大きな要因だろう。完成していたものも量産化を待たなければならなかったのだ。
それは、西部瑞州にて発見されて、簡易ながらも精製された原油、飼育を開始したアザラシやペンギンなどから得た大量の油脂、
海外から取り寄せて長年の研究の果てに開発された大筒(大砲)や加農砲、臼砲、そして先駆けて開発された迫撃砲であった。
それらの組み合わせがなしたのは、簡易式ながらも焼夷弾でありナパームであり、焼玉式焼夷弾であった。
サンプルの威力を確かめた家康は、これを切り札とすることを決めて一層の量産を命令。

そして、量産が終了して十分な準備が整うまでいちゃもんを付ける時期を遅らせて、偶然立ち寄った際に
その文言について気が付いたかのようにふるまった。

67 :弥次郎:2016/02/09(火) 21:34:21

そして、後の世に大坂夏の陣と呼ばれる戦いが始まった。
真田丸を構築し、絶対防衛の構えを見せる豊臣に対して、徳川は大阪城の全方位に陣地を形成した。
それこそ、それまでの陣地とは異なる、まさしく砲台を大量に並べた陣地であった。
並ぶのは長射程のカノン砲と臼砲、さらには最新の大筒。それらに必要な火薬や砲弾を補完するための建造物。
測距のための人員とそれに必須の道具。万が一に備えての消火用の水をためた巨大な貯水槽。
さらに後方には鍛冶屋を集めて修理点検などに支障がないように取り計らい、大砲各種には牽引用の車輪を付けるなど、
自重をやめて技術の限りを尽くしたものだった。

ここだけ第二次大戦の様相を見せるこれらは、城内に引きこもらざるを得ない豊臣方にとっては致命的な兵器であった。
如何に大阪城が堅牢で防火対策を施しているとはいえ、燃焼で酸素が失われ、有毒ガスが狭い範囲に発生すれば
目に見えない殺人者がその場に居合わせた人間の命を奪う。繰り返される攻撃と鬨の声による精神的な攻撃、さらには徐々に
疲弊する兵たち。如何に真田が奮戦しようと大型船舶で兵站維持を可能としていた徳川は絶え間なく攻撃を仕掛けることが
可能であり、やがて櫛の歯が欠けるようにして豊臣方の兵は倒れていく。それは精神的な物であり、肉体的な損傷や疲労によってだ。

史実と異なり、外堀も内堀もある状態だが、それはあまり意味がないことだった。
この頃の徳川の擁する大砲の平均有効射程はこの時代破格の1.6キロ近くある。絶え間なく、とはいかないのだが
一定時間ごとに次々と浴びせれば、当然のように何重にも囲まれた大阪城本丸にも届き、距離と掘の防壁を無視するには十分だった。

徳川は、別に焦る必要はない。安全な位置から砲撃を打ち込み、嫌がらせのように鉄砲を浴びせて消耗を誘えばいい。
突撃してくる塀に備えて何重かの堀や柵を張り巡らせ、さらには竹矢来までも設置した。
そして、家康などの諸将の本陣にいたっては鉄砲と塹壕と特火点(トーチカ)による陣が控えており、徳川ぶっ殺すマンこと
真田の突撃に備えた準備を整えていた。さらに、万が一抜かれたときに備えて爆弾まで仕掛けられているのだから、
その周到ぶりがうかがえる。

68 :弥次郎:2016/02/09(火) 21:35:29

対する豊臣に、打つ手はなかった。確かに大砲などもあるが射程の差というものがある。補給が受けられる徳川相手に、
籠城している大阪城は無補給で持久戦を挑んでいるのだ。鉄砲や大砲をうてば火薬は消費するし、整備も必要。
籠城する兵士の数に比例して食料は減るし、ましてや非戦闘要員、即ち淀君などの世話を焼く人間も多数いる。
これもしょうがないとはいえ、戦いに参加しないタダ飯食いに等しい。どうしても、徳川より消費は早い。
そして前述のように、徳川の用いる兵器の影響はじわじわと広がっていく。

何度か城の外に出ての襲撃も試みられたのだが、当然のように迎撃された。
それがどのように行われたかは、史実における旅順攻防戦において、そして一度目の世界大戦において真っ向から
突撃を行った兵たちの末路を再現したものといえば分かりやすいだろう。史実を知る夢幻会からすれば、本気で家康に危機を
与えた突撃など絶対にさせる気などなかったのだった。

そうして、豊臣の疲労は濃くなっていき、不利な状況は続いていく。
大阪湾には急遽呼び戻された宝鶴丸や仙鶴丸をはじめとした大型船が回遊し、物資を次々に揚陸していく。
あからさまに見えるように運び込まれていくのは大型の大砲だ。まだ大阪が粘るということで、増派された大筒運用の
精鋭たちだ。特に、夢幻会からの技術提供により測距儀が標準化されており、より精度の高い砲撃が可能な舞台であった。

そして、戦闘に際して退避を命じられた市井の人々を慰撫するための祭りや炊き出しが、大阪城からも見える位置で賑やかに
行われている。やや遠方には市が開かれ、にぎやかな商売の音が聞こえてくる。きちんと管理された遊郭さえも設置されて、
兵たちが安心して遊ぶことさえできた。
つまりこれは、小田原を包囲した際の豊臣秀吉と同じ手なのであった。
日本の縮図を以て、天下の堅城たる大阪城を包囲する。
あとは、勝手に豊臣が疲弊して、降伏するか破れかぶれの突撃を仕掛けてくるのかを待つだけであった。
流石に馬鹿騒ぎこそしなかったのだが、家康は専属の医師を読んで(※2)健康に気を使ったり、諸将にボードゲームなど(※3)を
送って、退屈を紛らわせるように配慮したりと、余裕の構えであった。

対する大阪城内部では、これまた小田原評定とはいかないが意見が割れていた。
というのも、前線に立つ諸大名及び将兵たちと、比較的安全な位置にいた淀君との間で意見が割れてきたのだった。

真田幸村などは極めて戦意が高く意気軒昂であるが、それでも被害があることは認めていた。
実際に、真田丸に対しては執拗ともいえる攻撃が繰り返されており、確かに堅牢でありながらも内部にいた人間が
あまりの砲撃に戦争病(シェルショック)に近い症状を発症しており、内部での統制が緩んでいたのだった。
勿論徳川にもそれはいたのだが、交代要員を送り込めるために軍勢の総数に対しての比率は非常に少なかった。
長曾我部・毛利・佐野・大谷・塙・大野などからも被害が大きいことを苦慮する声が上がった。

対する淀君は依然として継戦を叫んでいた。
たしかに攻撃こそ受けているが、少なくとも本丸は無事である。砲弾は飛んでくるが、それでも向こうがいずれ諦めるとの
自信があったのだろう。曲がりなりにも大阪城というのは並ぶものの少ない堅牢な城であった。通常の戦においては、
余程のことがない限り落ちないだろう。

69 :弥次郎:2016/02/09(火) 21:36:59

だが、諸大名と秀頼が気が付き、淀君などが知らないことがある。
これは侵略に対する防衛戦ではなく、滅ぼすか滅ぼされるかの決戦なのだ。
即ち、取り合うのは領土や城そのものではなく、天下の覇権。
このまま籠城しても、やがて決着はつく。徳川にしてみれば、豊臣に力なしと満天下に知らしめればそれでいいのだ。
豊臣の勝利条件としては、ここで家康及び秀忠の首をとり、さらには居並ぶ諸大名を打ち取り、おまけに帝に対して
豊臣政権を認めさせる必要があった。籠城戦をとった時点ですでに難易度は挙がっており、おまけに大阪というのは
野戦などを行うには少々不向きであった。何しろ、商業の中心として豊臣秀吉本人が政策を打ち出して作り上げてきた
巨大な都市なのだから、迂闊に戦渦に巻き込めば反感を買う。
そう、戦う以前から、すでに豊臣家は勝利の芽を潰されていたのであった。

そして、一応の当主たる豊臣秀頼には、おのれの考えを親かにも母親たる淀君にも意見することが出来ずにいた。
というのも、敗北寸前という事実を理解しながらも、豊臣の当主という立場が足かせとなっていたのだ。
本心からすれば、そして妻である千姫を経由して義父からも降伏することを勧める文章が届けられている。
このまま戦ったところで勝機はなく、天下もまた徳川の手に渡っている。それを覆すなど、この大阪城を物理的にひっくり返す
のと同じくらい非現実的なことだった。
とは言え、それを言えば城内が割れる。曲がりなりにも、自分がきちんと成人し当主となるまで支えたのは淀君の手腕に
拠るところもあり、彼女が信頼する家臣たちの必死の努力もあってのことだった。
主君としては惜しいことに彼は非情な決断をためらっていたのだった。

だが、それ故に自体は悪い方へと進み続けた。
開戦から1カ月半。真田丸の維持がいよいよ危うくなってきた。篠山に陣取り陣地を作った徳川軍の連日の砲撃で
疲弊がもはや看過できないほどになり、じわじわと包囲陣地が形成されつつあったのだった。
ここで史実同様に破壊を行おうとした真田であったのだが、そんなことなど夢幻会からすれば御見通しであった。
史実同様に真田丸からおよそ1.5キロの地点に陣を設けた徳川軍は、その位置から砲撃を開始したのだ。
言うまでもなく、当時としては破格の射程を持つ大砲を動員しての全力射撃であった。
つまり、堅牢な要塞を性能と知識を以て本気で踏みつぶしにかかったのである。そして砲撃を続ける間に篠山を奪取。
砲兵などを一気に移動させて、一気に陣地化を推し進めた。

慌てたのが真田であった。篠山をとらせるまでは予定通りであり、そのままの勢いで押し寄せてくる敵を叩く予定であった。
しかし、敵は焦ることもなく、むしろ堅実に包囲を狭めて来た。そして瞬く間に陣地を作り上げて、迂闊に手を出せなくなった。
神速の進軍という点において、豊臣秀吉は有名である。美濃大返しや中国大返しなど、歴史に名を残すような転進を
何度も行っている。とはいえ、それがほかの人間にできないわけではない。ましてや、専門の兵士兼作業員を揃えて
予め役割を決定して進軍した徳川軍に、僅か3日余りでの陣地構成ができないはずがなかった。

70 :弥次郎:2016/02/09(火) 21:38:49

篠山陥落を秀頼に、というよりは秀頼の家臣である大野治長から咎められ「徳川と内通しているのか?」という叱責を受けた
真田信繁及び真田幸村としてはそれこそ憤死寸前であった。この時の怒りぶりがすさまじく、後の記録によれば
自分の前で何気のない粗相をした兵の一人を怒鳴りつけ、殴りつけて暴行したと言われている。

だが、それこそが徳川軍の狙いであった。
こんな言葉がある『城を攻めるのは下策。心を攻めるのは上策』。
端から徳川軍は大阪城など攻めていない。疲れさせ、集中を切らさせ、イライラさせ、焦らせ、内部に不和を生むことに
苦心していたのだった。過剰ともいえる火力を真田丸などに叩きつけたのも、あえて本丸への砲撃を緩めにしていたのも、
全ては豊臣家の自爆を狙っての事。真田が大野治長から内通を疑われていたことを利用した策であった。
それがついに爆発した。味方を暴行したという事実が、恐怖と猜疑を生み、真田丸の戦意を下げる。
それは見えない、しかし、徳川が用意していたいかなる火器や爆弾にも勝る爆発を生み出し、連鎖的に城内に広がる。
なまじ、外と遮断されている城内である。あっという間に噂は広まり、士気は下がる。

そして翌日。
再びじっくりと囲み始めた徳川軍に奇襲をかけるべく、真田丸から打って出た。
それは払暁と同時であった。人間が一番油断する、疲れが出てくる時間帯である。だが、あまりにも拙速過ぎた。
篠山が囮とは言え、いずれ取り返しに来ることは分かっていたので、万全の体制で徳川軍はそれを迎え撃ったのであった。
設営された特火点や塹壕から集中砲火が浴びせられ、歩兵が迫撃砲で数人まとめて吹き飛ぶ。
それでもなお接近を試みる真田幸村らであったが、被害の甚大さに撤退する。
それを好機とみて追撃が行われ、馬や牛にけん引された火砲が前進していく。バラバラとは言え、ついに真田丸内部にも砲弾が
本格的に着弾し始め、設けられていた銃眼も柵も塀も次々と破壊されていく。そうなれば空堀が深かろうと殺到する兵士を
止めることなど不可能だ。まして、竹や木などを用いて、一部には鉄を使った盾を前面に押し出している突撃を押しとどめるには
あまりにも火器が足りなかった。

8時間にも及ぶ、真田の奇襲から始まった真田丸の攻略戦は終了し、ついに難攻不落と言われた真田丸は陥落。
真田幸村・信繁は大けがを負いながらも捕虜となり、他の諸将も捕虜になるか戦死が確認された。
城の内側から近いこともあり、制圧するというよりは無力化を実施した。つまり真田丸そのものを盾として、敵の攻撃を防ぐ
算段であった。そのため真田丸内部の隠し通路などが徹底して潰され、真田丸と篠山を結ぶラインを安全に通れる通路の
設営が急がれた。ある程度妨害を受けながらも1週間余りで真田丸の実質的な占拠は終了した。
それは、夏の陣の行方を決定した戦いが終結し、徳川が豊臣の喉元にナイフを突きつけた瞬間でもあった。

71 :弥次郎:2016/02/09(火) 21:40:03

真田丸陥落の報は瞬く間に城内に伝わった。
たかが出丸、されど出丸である。少なくとも、無視できるものではなかった。
あわせるようにして、包囲網が徐々に攻勢に出た。掘りを埋め、砲撃で蹴散らし、塹壕を掘り進めていく。
まるで徳川軍の本陣が巨大な戦車のようにゆっくりと前進してくるのだ。勿論決死の突撃で食い破るなどは可能だっただろうが、
明らかに豊臣軍の動きは精彩を欠いていた。長曾我部や後藤基次らの襲撃こそ被害は出ていたが、完全に覆すには至っていなかった。

というのも、ついに城内では秀頼と淀君が対立したためであった。
これ以上の被害を出してはたまらないとする秀頼と、あくまで徹底抗戦を訴える淀君の間がついに決裂したのだ。
もはやこれまでと腹をくくった人間と、あくまで生き延びようと少しでも考える人間が居合わせれば、当然のように
対立して、仲たがいを起こす。記録によれば、同じ武将の隊の中でさえも仲たがいが起きるほどで、些細なことで取っ組み合いに
まで発展したと残っている。
そんな中で、曲がりなりにも被害を出せた手腕というのも評価される。だがこれは戦いであり、もはや情け容赦などかけてやる暇など
徳川軍にはなかった。これは、天下の行方を決する戦いなのだから。

ここから先は言うまでもない。史実以上の速度で豊臣軍は崩壊していき、ついに本丸を残して制圧されてしまう。
砲撃をついに受け始めた本丸内部では、発狂した淀君ら継戦派を秀頼が捕縛して降伏することを宣言。
4カ月余りにわたって続いた戦国最後の戦いは、徳川軍の勝利となった。
多くの血が流れ、多くの策略がモノを言った戦国の世は、ようやく終結したのだった。

72 :弥次郎:2016/02/09(火) 21:41:43

大阪の陣が終了した時点で、徳川の持つ軍事力と技術力の高さは、生き残った豊臣家そして豊臣に追従する
大名たちに対して凄まじい威圧を与えた。天下の大阪城を、何ら策を擁することなく捻り潰した徳川の軍勢。
これはつまり、日ノ本に現存するいかなる城に籠ろうとも蹂躙可能だということだ。
これが調略だとか、約束をうやむやにしての勝利ならばまだ反発はあっただろう。だが、それも一切なしである。
さらには、朝廷の公認の元で結ばれた和平を自ら破った豊臣への世間の目も厳しさを増した。
如何に親しまれていた『太閤さん』といえど、約束を違えて多くの人々に喧嘩を売った挙句の敗戦ともなれば、眉間に
しわを寄せる程度には悪感情を持たれるものであった。

また、マスメディアの力を知る夢幻会の暗躍もあり、瓦版が各地においてばら撒かれて豊臣家への感情は決して良いとは
いえなくなっていった。何しろ、太閤の上の存在、即ち帝の不興を買ったということなのだから。

そして、半ばマッチポンプのように徳川が救いの手を差し出す。
ありえいて言えば流刑にまで減じるように嘆願してやろうというものだ。勿論、徳川は最初からそのつもりだったのだが。
豊臣家に加担した大名及びその家臣たちをいくつかのグループに分け、分断したのだった。
一部はアイヌの暮らす北方へ。一部は台湾方面への進出へ。一部は台湾よりさらに南、史実における東南アジアへ。
そしてさらに一部は朝廷との約束の履行という名目で瑞州への派遣が決まった。5分割され、従うならば領土や家禄も
与えて、さらに暮らしていくことを認める。敗戦の将兵に対する扱いとしては破格の一言だ。
主導者であった淀君らが打首となり、豊臣方の大名がいくらか自刃ないし出家して責任を負い、残った秀頼が事実上の
傀儡として残った豊臣家家臣の取りまとめに奔走することになったが、まだ温情というべきだろう。
勿論、完全に信頼したわけではないために監視はきっちりついていたし、ある程度は自腹を求められた。
だが、命は取られなかった。この温情は表向き「徳川が豊臣の家臣たちの奮戦を讃えた」という形であり、無位無官となるより、
きちんと仕事や領地を与えられているのだからかなりマシである。

斯くして、色々と開拓時に都合のよい駒を用意した徳川は戦のために中断していた東方探索の再開を宣言。
これまで以上の熱意と動きを以て、瑞州へと乗り込んでいった。


※1
前回の、即ち大陸発見時の探索において大地に生えている木が少ないことが報告されており、速やかな建造を行う為にも
予め建物の設計や寸法を定めた上で資材を持ち込んでいた。

※2
転生者の中にいた医師が家康の専属として、三河時代から付き従っていた。
そのため、医師の処方を嫌い自分で薬を作って飲むほど健康狂いではなくなっていた。

※3
夢幻会の有志が作ったもので、人生ゲーム・軍人将棋・トランプ・オセロなどなど、退屈にならないためにあらゆる娯楽品が
既に作られていた。普及こそ遅れてはいたが、この大阪の陣で各地へと広がっていった。

73 :弥次郎:2016/02/09(火) 21:43:08
以上となります。wiki転載はご自由に。

はい、というわけで大阪の陣が一回で終了しました。
何分狸おやじに史実を知る夢幻会が味方してますし、行動や構造などは筒抜けなわけですね。
大河ドラマ『真田丸』で非常にタイムリーではありましたが、如何せん相手が悪すぎましたね。
史実においては翻弄されていましたが、意外と当時の指揮官の独断を誘ったり、うまいとこ挑発したりして立ち回っているのが
真田なんですよね。やはり戦国の中をしぶとく生きて来た真田家らしい戦いであったと思いますよ。

カーナーボン周辺は一応石油が取れる場所です。
石油や天然ガスの鉱床が眠っていまして、掘れば出るのではないかと。正直、どれほど掘ればいいか見当が
付かなかったのですが、とにかく取れるので、このような描写となりました。
そういう資源があれば、徳川軍が用いたように焼夷弾とかナパーム弾も簡易ながら制作可能です。増粘剤なども
戦国時代の日本にはないわけではないですし、夢幻会は精製する技術はあると判断しました。
用いていた大砲も幕末ほどというわけではないですが、かなり射程も伸びていますし、牽引なども可能となっています。
幕末の国産の18ポンド砲が射程2500mほどだそうなので、それほどとはいかなくても1600mくらいは有効射程に収められるのではと
想像しています。正直、そこら辺の考察は憶測が強めなのですが(汗
ただ、塹壕を掘る際のヘルメットやスコップなどは間違いなく用意できます。それのあるなしの差は、WW1およびWW2で実証済みですね。

また、アボリジニに関しては何処にどの程度暮らしていたかおおまかにしかわからないため、もう少し資料を集めてから
書きたいと思います。何しろ、ここは適当にできない所なので。

ようやく戦国が終わりますので、次回はここからはさらにスピードアップです。
一々描写するよりか、早く進めた方がいいですな。沿岸沿いに進出して川沿いにさかのぼっていく感じでしょうな。

また、雑談などから牧畜をすすめたり、植えていく植物などに関してアイディアを戴きました。
この場を借りてお礼申し上げます。

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最終更新:2016年02月15日 19:53