170 :弥次郎:2016/02/11(木) 17:35:07
大航海時代。
それは狭い欧州から、人類が海洋を超えてより広い世界へと飛び立った時代であった。
だが皮肉にも、いくつもの国の没落を招く根本的な原因となった時代でもあった。
モノが動き、人が動き、金が動く。そこに新たな流れが出来れば、うっかり流されてしまうこともあるだろう。
時代という大きな流れに起こった大きな変化は、時として容赦なく国さえも飲み込んでいく。
そしてそれは太陽の如く輝いていた大国でさえも、例外ではなかった。
【ネタ】瑞州大陸転移世界 2.5
さて、ここで思わぬ煽りを喰らっていた国を紹介しよう。
それは、丁度没落と繁栄の臨界点を迎えつつあったスペインである。
当時、マニラ・ガレオンと呼ばれる新大陸(
アメリカ)とマニラ、そして本国を結ぶ長大な航路を抱えており、
そこからもたらされる利益は絶大な物であった。少なくとも無視はできなかったし、やめることもできなかった。
だが、オーストラリア大陸が突如として転移してきたことで思わぬ壁にぶつかった。
海流の変化と、航路の変更の必要性だ。マニラを出航したガレオン船はボルタ・ド・マールと呼ばれる航路でアメリカ大陸に
向かうのが通例であった。しかしながら、オーストラリアが転移してきたことで風の流れが変わり、必然的に元大島、
史実におけるマッコーリー島周辺を、即ち、日本の勢力圏を突っ切らなければならなくなったのである。
当時、少なくとも転移が起こり、日本が入植を開始した直後はまだ貿易を行っていたこともあり通過を許可はしていた。
だが、その航路は本来の航路よりも北を通る必要があり、それまでの航海をはるかに上回る労力が求められたのだ。
また北上する必要があり、本来利用するはずの風は捕まえられず、必死にこぎ進めてもやがて限界となり、諦めて引き返す
ケースが相次いだ。事実上の航路封鎖だ。幸い、マニラへの帰路となるルートは維持されていた。
若干だが、南に進路をとらざるを得ず瑞州とその周辺に浮かぶ島々には気が付けなかったのは不幸というべきか。
ともかく、重要な交易路の片方がつぶれてしまったのだ。
171 :弥次郎:2016/02/11(木) 17:35:51
これを重く見た際に、彼らの目に映ったのは開拓が進む瑞州大陸であり、日本列島であった。
そこによからぬ考えが浮かんでしまったのも無理もないことと思われるが、日本を収める幕府は彼らの考えるほど甘くなかった。
彼らがとったのはキリスト教への布教によって『目覚めさせる』という手段であった。ありえいて言えば協力者を仕立て
上げるつもりだったわけである。だが、ここで彼らの動きは頓挫した。というのもこの時点でキリシタン大名というのは、
かなり数を減らしていたのだ。有名な物では大友や小西らがいる。だが関ヶ原の論功行賞で豊臣に味方する大名らは改易
ないし開拓者として僻地へと飛ばされており、そもそもキリスト教に関して布教が進んでいなかった。さらに、秀吉の時代から
既にキリスト教を騙って奴隷貿易をしていた宣教師らが処罰され、連座するように加担していた信者や大名豪族も処罰や財産の
剥奪が行われ、日本国内においてすでに『布教活動』という言葉と御題目には説得力というものが失われていたのだった。
おまけにだが、『宗門改』と『宗派門御改法度』(※1)いう法令が1603年には既に発布されていたのが追い打ちをかけた。
これは史実と異なり、キリスト教そのものを禁じるものではなかった。ただ、幕府がその権力と武力を背景にして
日本に存在するすべての宗教団体に対して、その規模・予算・信者の数・布教の状況について報告させるように義務づける
というものだった。幕府の専門の役職がこれを担当し、不審な点があれば立ち入り調査や捕縛などの権限を認めるこれは
まさに致命的な法令であった。また、そういった団体に対しては、キリスト教であろうと仏教であろうと等しく税が課され、
もし一揆や暴動などに加担したことがわかれば処罰が下り、最悪日本国から追放するとまで言い切っていた。
つまり、世界でも早い部類に当たる政教分離の法令であった。勿論スペインは抗議こそしたのだが、どこぞの国のように
信者を迫害したり、虐殺などをするものではないと幕府は逆に反発。逆に戦国時代及び豊臣政権下における奴隷貿易の証拠を
突きつけて問い詰める有様であった。
これも言うまでもなく
夢幻会の発案であるし、身辺整理ついでに貿易相手について改めて制度を定めようとしていた幕府に
とっては、宗教というのは極めて厄介な問題であったためだ。戦国時代における織田信長の例を言うまでもなく、戦国大名は
時として宗教組織と事を構えることもあった。幸いにして、江戸幕府の頃には既に弱体化が甚だしく、また徳川の持つ武力の
恐ろしさが効力を持つ間に首輪をつけることに成功しており、少なくとも国内は比較的安定していた。だが、外部からの
宗教はまた別である。彼らはこちらの言葉に意などかさない。むしろ善意で送り込んでくるのだ。末端の人間は少なくとも善意だ。
だが、その操り糸を握る人間の腹が黒いか白いかまでは保証できない。
宣教師が侵略の斥候だというのは、よくある話なのだ。
172 :弥次郎:2016/02/11(木) 17:37:03
ともかく、スペインの目論見は全く進まず、また貿易船が途絶えたことによる損害は徐々に積もりつつあった。
その理由はと言われれば、どうしようもなく日本のせいであった。転移そのものは、別に日本のせいではなかったのだが
怒りをぶつける先と言われれば、日本しかなかった。
とはいえ、貿易で大赤字が出ていることに変わりはなかった。
事これに至っては頭を下げるしかなく、また貴重な貿易先であった日本との間にトラブルが起きていたのだった。
1610年肥前日野江藩藩主 有馬晴信が保有の朱印船がマカオにてポルトガルとの商船との取引で諍いが発生。
マカオでの取引の仲介役と言えたアンドレア・ペソア及びその麾下によって朱印船の船員およそ60名が殺害される
という、マカオの朱印船騒擾事件の発生である。
史実において1909年に発生したこれは、幕府による禁教令にもつながっていく非常に大きな事件であった。
特に幕府で公職を得ていたキリシタンが大いにやらかしたことで、幕府や将軍からの信頼が底値を割った可能性が高い。
因みにこの世界において岡本大八は転生者であり、夢幻会のメンバーであった。ついでにカトリック教徒ではなかった。
これでほぼ、岡本大八事件の芽は潰れているに等しかった。
とはいえ、家康の所望した伽羅が原因であることはとっくに夢幻会も理解しており、家康もその事情を察して有馬晴信と
日野江藩に説明などを求めた。有馬晴信はこの件について仇討ち、とまでは行かないが報復に出ることを申し出た。
また、当事者として釈明を求められたアンドレ・ペソアは非があることを認めながらも何とも煮え切らない態度であった。
一説によれば、ガレオン貿易において航路が突如変化してそれによって失われて貿易船が丸ごと数隻消息不明となり、
何とか利益を補てんする必要に迫られ、日本からの収奪を指示されていた可能性があるとされる。
とはいえ、ペソアとしても黄色人種とは言え長年の公益相手であり、個人的にも(※2)友誼を結んでいた日本への攻撃に
対して感情的な反発もあったのだろう。それゆえに明言せず、なあなあで済ませようとした可能性がある。
だが、その態度に幕府は報復を決定。日野江藩に監査役として岡本大八を派遣した。史実同様に有馬晴信らが長崎にとどめ
置かれていたノセ・セニョーラ・ダ・グラサ号を襲撃。これを船員もろとも捕縛した。
捕縛に留めたのは、スペインへの恫喝という意味が強かった。まあ、ここにノセ・セニョーラ・ダ・グラサ号そのものを
得たいという幕府と夢幻会の意思があったことは間違いない。
ペソアも「カトリックだから」と自殺せず大人しく捕まったのも、どうやら彼なりに思うところがあってのことと推測される。
173 :弥次郎:2016/02/11(木) 17:37:51
さて、その一方でスペイン側としては寝耳に水であった。
当然報復をと考えなかったわけではないが、それをスペイン側の事情が阻んでいた。当時スペインはアルマダの海戦の敗北と
並行するようにして100年近く戦争を継続していた。それゆえに、絶頂期を迎えたスペイン国王フェリペ2世の時でさえ
何度も国家財政が破綻していた。そんな中で
アジアの方進みにまで戦力を派遣するなど追い打ちを自ら欠ける行為であり、
戦力もまた抽出できず、新たに戦争をやって赤字を抱えるよりも、日本との貿易や瑞州からの物産を取り寄せることで
利益の補てんを行う方がましと判断した。航路がつぶれたことで、ガレオン船とそれの積んでいた積荷などが失われ、
その損失はスペインの財政担当を失神させる程度には酷かった。そうして、ペソアはこの案件をスペイン国王に上奏。
少々意見が割れたようであるが、概ねペソアの意見が認められた。
斯くして、スペイン領マニラにおいて日本とスペインの間に約款が交わされた。
支払いは即金と今後の貿易における瑞州・東南アジア・日本の物産品の割安での提供を以て行う
- 割譲地域における固定資産や船舶などについては別個補償し、スペイン側も日野江藩に補償を行う
- 日本が拿捕したノセ・セニョーラ・ダ・グラサ号は日本へと売却。捕縛された船員は幕府が責任を持って雇う。
- スペインは瑞州およびその周辺諸島を日本領と認める
- 宣教師の活動についてはイエズス会と幕府が調整を行う
- 日本とポルトガルの貿易も継続する
- 日本はスペインのガレオン貿易に協力する
これらをはじめとした28箇条から成るマニラ約款によって、武力衝突は回避された。
この事件の前後でポルトガルとの貿易は一時的に中断されたが、スペインの意向もあり復活。
また、瑞州開拓時にはスペインが利用していた航路や海図などが提供されて、大いに役立てられていた。
しかし、今回の事案においてカトリックへの視線が厳しくなったのは言うまでもない。
家康の通訳者にしてアドバイザーにいたジョアン・ロドリゲスも幕府とイエズス会の間で妥協点を見つけ出せずにいた。
というのも、『熱心すぎる』キリスト教カトリック信者が国内で『教化』のためにあれこれと『活動』しており、
彼の立場を以てしてもかばいきれる範疇ではなくなっていたのだ。関が原において西軍につき、冷遇されていたキリシタン
大名たちがかつてやらかしていたことを加えれば、いくら彼でも日本人が悪感情を抱いても仕方がないとあきらめていた節もある。
スペインとの一軒もあってカトリックに対しては厳しい監視が命じられ、前述の『宗派門御改法度』においてもやや扱いが
厳しくなっていた。禁教令とならなかっただけまだましというべきであるが、それでも視線の厳しさは緩まない。
いくらかの信者が圧に耐えきれずフィリピンへと移住したり、あるいは国内で隠れキリシタンとなるなど人目を避けるよう
にして信仰を続けた。
174 :弥次郎:2016/02/11(木) 17:39:17
有馬晴信と日野江藩についてだが、旧領の一部回復と交易船の保有枠の余裕の付与、さらに謝礼金などが支払われた。
結果的に言えば初期の目的を果たせた有馬晴信はこの報奨にて決着することを了承。江戸や大阪への販路を拡大すべく
強かに商売を続けるのであった。
幕府とイエズス会との折衝についてであるが、カトリック教徒への扱いについて結局妥協点が見いだせずに物別れに終わり、
工廠を担当したジョアン・ロドリゲス自身も日本に居づらくなったのか職を辞して旧スペイン領のフィリピンへと移住
してしまった。また、家康は過激な行動をとらないと推測されたプロテスタント系国家との接触を別に持つように指示。
これがオランダやイギリスとの接触の始まりとなった。
だが、残念なことにスペインにとっては一時的なカンフル剤としかならなかったことは事実である。
日本からフィリピン購入の代金として得られた金銀も物産品も珍重こそされたが、その後の戦争による戦費の拡大、
改善しない財政状況と繰り返される財政破たん。そして、日本との貿易の代金が割安とはいえ結局金銀によって支払われる
ことで次々と流出していく財産。結局、スペインの没落は史実同様避け得ないものであった。
勿論、瑞州転移によって大きく流れを変えた北太平洋海流を利用した航路も開拓されはしたのだが、目的地にたどり着くまで
にかなり北部を通過してカリフォルニア寒流に乗っていく必要もあってあまり利用されなかった。
結果的に、態々コストをかけてメキシコまで行くよりも日本や瑞州で商売をした方が安上がりで、未知の品を手に
入れられると判断して、船の行き来が結果的に途絶えてしまった。
徐々にフィリピン周辺を日本へと切り売りするようにして資産を得ていたのだが、フィリピンが殆ど日本領となるのも
対して時間がかからなかった(※3)。
まあ、史実におけるスペインとオランダの没落を知る夢幻会としては、どうせ死んでいくならばその腹に抱えた富をいくらか
回収させてもらおうという、割かし腹黒いことを考えていたことは間違いない。
だが、この交易が幕府へともたらした利益と技術などは莫大であり瑞州開拓の新たな追い風となったのは事実だ。
この時に得ていた資産が、大阪の陣とそれ以降の幕府を支える財源の一端となったことは割と有名な話であった。
余談だが、遥か未来の世界において、スペインと大友を襲名することになる国が大変な苦労をすることは間違いなく、
スペインのハードモードはまだまだ始まったばかりであった。
175 :弥次郎:2016/02/11(木) 17:41:00
さて、その後のフィリピンについてだが少し語ろう。
幕府としては豊臣とのケリを付ける必要があり、また瑞州という近場を優先していたために日本人の移住はある程度に抑えて、
その最盛期が訪れるのはもう少し後になってからであった。
とはいえ、天然ゴム・鉄鉱石・銅といった得難い天然資源と、バナナなどを筆頭とした果物の生産地域を得たことは
今後の戦略及び近代文明構築においても大きな土台となることは間違いなかった。
特にゴムは、多くの工業品や技術発達においては欠かせない。また、将来的な国家防衛においてもアメリカがアジア進出する
土台を先んじて潰してしまえたことは大いに喜ぶべき点であった。
斯くして、1620年から本格化した入植ではプランテーション作物としてゴムなどの組織的な栽培や、日本では得られない
特産物の生産が開始された。アメリカ大陸からスペインの船が持ち込む品も合わせて非常に重要な拠点となったフィリピンは
幕府の新たな直轄地として順調な発展を続けていった(※4)。
※1
宗門改は史実における宗門改とほぼ同様である。こちらは最初から戸籍の管理という名目があって、まずは江戸などの
大都市に始まり、徐々に各地へと浸透していった。
もう一つは、文中にも述べられている様に、神社仏閣教会問わず宗教関連の組織を取り締まるものである。
これが明治における『帝国神祇院』の大本とされる。
宗教関連においては戦国時代から夢幻会は常に苦労したと思われる。特に、三河の一向一揆とかで。
※2
スペイン語が喋れる夢幻会メンバーやその生徒たちとの交流により、かなりの日本通となっていたと記録に残っている。
また、スペイン王国の日本に対する情報収集者として活動していたようでもある。
※3
当時の瓦版には、フィリピンと書かれた金塊を切り分けながら、丁髷羽織袴の男に必死に借金を申し込むスペイン風
の男のイラストが掲載されていた。どうやら市井一般においてもスペインの財政的な苦労は漏れていたようである。
またこのイラストを後に見たジョアン・ロドリゲスは日本の情報収集力に驚愕していた。
※4
少ないとはいえ移住してきたカトリック教徒がいたため、幕府は監視体制を維持するために仏教徒などの移住者も募り、
監視役も派遣するなどして人口はかなり膨れ上がったようである。それなりに暴動なども起きてはいたが、ほとんど無事に
鎮圧され、後期になるほど減っていったことから、視線の厳しさはここでも変わらなかったようだ。
香辛料なども手に入りやすく、スペイン由来の物品も多くあり、瑞州の次に重要な海外領土とみなされた。
176 :弥次郎:2016/02/11(木) 17:42:14
以上となります。wikiへの転載はご自由に。
個人的には境界線上のホライゾンの外伝に登場してきた事件であり、非常にタイムリーでありました。
江戸初期は幕府内部にも結構キリシタンがいたようですね。
ま、史実におけるノセ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件の後の岡本大八事件をもって禁教令が発せられ。
多くの人間が追放されたり処刑されたりと、中々にアグレッシブな時代でありました。
丁度オランダやイギリスへの貿易先の転換が行われたのも、このようなキリスト教徒がやらかす事件が続いたためなのも
かなり絡んでいることでしょう。ま、統治政策の邪魔を善意でやる集団には、そりゃ追放とか命じますわな。
因みに、この世界線ではスペインが史実通りハードモードです。オランダ・イギリスが若干勝ち組であります、多分。
ぶっちゃけまして、瑞州東海岸に到達しても乾燥が激しいですし、全滅してもおかしくないんじゃないかなぁと。
それか多分、瑞州の南を通過して気が付かない可能性もありますし、今回は迷子になったという設定でお送りしてます。
で、メキシコとマニラを結ぶ航路に関してはいろいろ迷いましたが、一部寸断ということにしました。
本来利用していた風の流れにのっても瑞州にぶつかりますし、北太平洋海流に乗っかってもすごい大廻りする必要があります。
それに、幕府公認の元瑞州や日本・東南アジアで貿易できますからわざわざ行く必要性が薄れたのもあります。
いけなくはないのでしょうが、リスクが高すぎますからね。
なんでドンパチしなかったの?と思う方がいらっしゃるかもしれませんが……西班牙が負けてしまいますと
連鎖的に欧州事情がアレなことになって、こちらのキャパシティーを超えちゃいまして、ただでさえ鈍足な展開が
遅れる可能性もありますので、可能な限り史実に添えるような展開としました。
ま、大阪の陣控えてますし、幕府にとってもドンパチするのは得策じゃないですからね。
では次の話はようやく瑞州に焦点あわせることが出来ますね。ではお楽しみに。
最終更新:2016年02月15日 20:03