590 :ナイ神父MK-2:2016/01/17(日) 01:01:44
日蘭世界 日露戦争
開戦まで
日露戦争の開戦の大きな原因は、当時のロシア帝国の軍部が日本の戦力を甘く見たことと朝鮮半島に手を出してきたことが
原因として挙げられる。日清戦争後、不凍港を求めたロシアは南に勢力を拡大し旅順や哈爾浜などを始め清国の領土を
手に入れていた、しかし徐々に朝鮮半島にもその領土欲を向け始め日本との対立の大きな原因にもなった。また、海路に
置いても北海道周辺や日本海沖で度々漁船等を威嚇・酷い時には拿捕を行い始め、更なる日本の姿勢硬化を招いたとされている。
しかし、この状況になってもロシア軍部は戦争でダメージを負った日本は動かないだろうし、オランダも保護国について一々構いは
しないだろうと考えていた。だが、朝鮮半島という日本に対して突きつけられた短刀を奪われるという危機感は相当に大きい物であり
さらに同盟国である日本に欧州の手が伸びることを恐れたオランダは早期に行動に移していた。
オランダでは、日露の状況が安定するまでの戦闘艦の海峡通過を禁止し日本では主力戦艦の本土回航が行われていた、しかしその最中で
ハワイ事変が発生し米露に対する両面作戦を行うことを恐れた日本は、米国に対する処理を早々に済ませて戦艦メインを本土に回航して
戦力増強を図っている。そして、1904年日本はロシア帝国に宣戦を布告当初は開戦は無いと言う軍部の言葉を信じていた皇帝も
この事態には関係者ほ呼び出して怒鳴ったといわれているが、既に始った物は止められずこうして日露戦争の幕は上がることとなる。
両国の戦略
ロシア軍としては当初、開戦した場合はヨーロッパより艦隊を太平洋へ回し、日本海軍を撃滅する積りでいたがオランダの海峡封鎖により
開戦前にその策は意味を失った。また、当時の太平洋艦隊の能力では日本が所有していた艦隊と対等に戦うには戦力が足りず、まともに戦えば
大打撃を受けることが予想されたいた、そこでロシアが取った作戦は上陸してきた日本に対する哈爾浜での撃退と旅順要塞での篭城戦術である。
さらに、当時日本が整備していた飛行艦隊を真似て飛行船を利用した空中艦隊を編成して、日本を爆撃するという物である。
それに対しての日本は、朝鮮を経由して旅順を制圧その後後方の安全を確保した上で哈爾浜へ進行を拡大するといって作戦を立ていた、また、
投入が予想される敵空中艦隊については新たに建造された33式硬式飛行船(LZ112相当)を旗艦とした空中艦隊で対抗する取った物であったとされている。
日本海空戦
日本が大連に上陸する前、旅順要塞からは複数の飛行艦隊が日本へ向けて出撃した。コレを確認した日本でも空中艦隊が出撃、世界初の空中艦隊同士の
初めての艦隊決戦はこうして幕を開ける。しかし、この艦隊戦は終始日本がリードすることとなる。元々ロシア側が想定していたのは相手も装備しているであろう
機関銃による射撃戦だったのだが、日本が持ち出してきたのは火中車であった。対地攻撃用とは言え元々はロケット弾であり、命中すれば飛行船を一撃で
仕留めることすら可能となるこの兵器の使用により、ロシア側の飛行船は回避不可能な一撃の下に次々に海面に叩きつけられていった。更に運の無いことに
日本とロシアの飛行船では元の限界高度にも大きな差が出ており、それが仇となって上空から一方的に火力を叩きつけられた飛行船たちは結局一隻も日本の
大地を見る事無く消えていくことと成る。
591 :ナイ神父MK-2:2016/01/17(日) 01:02:14
旅順要塞攻略戦
旅順要塞は元々清国が建造され、ロシアが満州などを手に入れる際に同時に獲得して強固な堡塁を増設更に機関銃などを初めとした兵器で大幅に強化されていた
そんな強固な要塞に対して日本がとった戦法は余りにシンプルだったと言って良い、その方法とは圧倒的な火力により攻撃である。その為に用意されたのは
74門(内訳は80cm砲4門、41cm砲30門、36cm砲40門である)もの列車砲と数えることが億劫に成るほどの迫撃砲を初めとした火砲であった。中でも観戦武官たちを
驚愕させたのは元は自国に匹敵する要塞都市や強固な防衛拠点対して有効打を与える為に開発が計画されていた80cm列車砲であり、郵送部隊や運用部隊を用意して現地で組み立
てられたこの巨砲は全長50m近い巨体も相俟って見るものを圧倒した。
攻撃が開始される前から心理的な圧迫を掛ける巨大列車砲であるが、実際の攻撃でも遺憾なくその火力を発揮した。本来は強固な防衛能力を持った堡塁や永久砲台は
容易くその防壁ごと吹き飛ばされ、偶々地面に命中した際は幅10mものクレーターを作ったといわれている。また、用意されていた専用のべトン弾の前には
要塞の壁など無いも同じであり、立てこもる兵士たちは恐怖日々をすごしていた。勿論、ロシア軍側も指を咥えて見ていた訳ではなく反撃を試みるが、反撃の倍近い
砲弾が打ち返された沈黙するという有様であり、観戦武官からは「どちらが要塞か解からない」と言われることと成る。そして更なる悲劇は旅順内に居た太平洋
艦隊であった。元々戦力的な不利から要塞内にいた艦隊にも陸の列車砲からの砲撃を受けて出向する前に大打撃を受ける艦が続出し、危険を感じて脱出した艦も
その全てが包囲していた日本艦隊により撃沈又は鹵獲される運命を辿った。
こうして、僅か一ヶ月で堅牢な要塞だった筈の旅順要塞は陥落し、日本の実力を欧米各国に見せ付けることとなる。
哈爾浜の陸戦
旅順要塞の余りにも早い陥落はロシア軍の上層部に日本の北京で見せたあの火力が見せ掛けでないことを証明するには十分な結果であった。この敗北でロシア軍は日本を
物量で押し潰す作戦に切り替え決戦の地を哈爾浜に定めた、一方の日本軍もロシアが次は野戦を仕掛けてくると予想し、戦力として新たにガントラックやバイクで自動車化
した部隊を約10個師団投入して決戦に臨んだ。
圧倒的な砲撃力を持つ列車砲部隊と高い機動力を持つ自動車化部隊の連携は、未だ中世に近い戦争を想定していたロシア軍を驚愕させ、混乱させるには十分すぎるほどの効果を
発揮し、包囲と大火力の集中により降伏までに膨大な死者を出している。また、観戦武官からは見えない位置では通信機を背負った通信兵がバイクで移動し部隊の正確な情報を本部に伝え
迅速な行動を実現していた。そして、この戦いでは表に出ることは無かったがロシア軍が万一塹壕戦術を駆使してきた場合に備え初期型の戦車を用意していたことが明らかになるのは
20c後半に入ってからのことである。
停戦
哈爾浜の大規模な陸戦によりロシア軍は大打撃を受け、その回復には相当な年月が掛かると予想がされた、一方態々欧州方面まで攻める積りのなった日本軍も妥協線を探していた。
その後の、ロシア内部での反乱の危険性が高まったことでロシアが求める形で講和が行われ、翌月オランダ領インドネシアにてオランダ仲裁の元講和会議が行われ正式に講和が
成立している。その後条約にて一旦ロシアが手に入れた地は清に返還されるも、露清間での交渉により再獲得が行われている。また、講和ごは比較的早い段階で通商が再開し、
、またロイヤルファミリー同士の交流も進むことによって日露の関係は早期に修復されていくこととなり、これがロシア革命時のニコライ皇帝家族の救助やOCUへの加入に繋がって
いく。
最終更新:2016年02月18日 21:37